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映画評「センターライン」【監督:下向拓生】

2018-10-22 00:09:24 | 映評 2013~
松本市在住の下向拓生監督の長編「 #センターライン 」が池袋HUMAXで上映されこれがどえらい面白い映画だった。
低予算自主映画と侮るなかれ。その道の非専門家の下心で始まったA.I.裁判は二転三転。巧い脚本によって惹き込まれた先に、生命・意思の意味を問う深い余韻のあるラストが待つ。これは傑作
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とツイッターと同じこと書いても面白くないので、もう少し色々と
 
低予算自主映画だからそりゃスピルバーグ映画なんかと比べて画面的に見劣りするのは仕方がないとして、しかしながら脚本の巧さは画や音の物足りなさなど関係なく、観るものを映画世界にグイグイ引き込んでいく。
 
少し未来の日本。平成39年の字幕。つまり2027年の日本を舞台にしている。車の自動運転A.I.を過失致死で起訴するというとんでも裁判が始まる。
そんな裁判あるはず無いのだが、そこをA.I.についてはど素人の検事が(つまりA.I.に関する知識は映画の観客と変わらない主人公が)、高尚な理由などからではなく、望む部署に配置換えされたいという下心からおっ始めるのである。
この導入。観客を無理やり感なく近未来のとんでも裁判に誘って巧い。
A.I.については素人だから専門家の意見も求めるので、ど素人がだんだん知識を得ていく、つまり主人公の知識アップと観客の知識アップを同期させていく手法は、日本映画のお得意分野「ハウトゥもの」の常套手段。
A.I.を裁判にかけるという設定は随分ぶっ飛んではいるものの脚本はエンタメのツボを押さえたオーソドックスな構成なので、見ていて安心できる。
15分でゴールを提示、その後15分間隔程度で物語に新たな展開を与えていく、その作り。その流れの中で登場人物が成長し、出会った時は反感しか感じなかった相手に、愛や友情を抱く、つまり人として成長する。
エンタメ脚本の作りを完璧に抑えた構成に「A.I.」という特異すぎる要素。
変わった食材を使うがベースの味付けは塩こしょう醤油だから外さない・・・みたいな
 
そして10〜15分間隔の新たな展開がまた、意表をつく展開で物語の先読みをことごとく裏切り、一体どうなるのか?とページを繰るのが止まらなくなる小説のように、次はどうなるという興味をかき立て続ける。
 
例えば序盤のプロットポイント。過失致死で起訴し形式的に裁判ざたにしたかっただけなのに、A.I.は自分は意志を持って運転手を殺したと言い出す。
 
そんな感じで事件は意外な展開を見せていく一方で、ただの機械と思っていたA.I.に対し主人公の検事は次第に心を開いていく。さらにその一方で、様々な新たな事実が浮かび上がる。
やり手の弁護士は検事が引き出した証拠や証言をことごとく覆し、敗色濃厚・・・からの・・・という、仮にドラマ作りに失敗したとしてもドキュメント風裁判劇としてまあまあ楽しめる展開。
 
でもそこにきちんとドラマが絡む。
きちんと登場人物の感情のざわめきが映画に刻まれ、気がつくと登場人物たちは登場時から人間的に成長している
序盤でこんなところ絶対に出てってやると言っていた主人公が、終盤でもっとここで頑張りたいと言うのは、「赤ひげ」「シコふんじゃった。」「第9地区」などを例に出すまでもなく古今東西のエンタメ王道
それを俳優が演じる人間だけでなく、遠隔操作されたA.I.搭載のカーナビにも、あたかも感情が動いているかのように見せ、なおかつ成長しているように見せる巧さ。
機械が感情を理解する物語は、ターミネーター2 のT800型とかスタートレック・ネクストジェネレーションのアンドロイド・データとかに通じる鉄板感動シチュエーションだ
 
さらにはドラマ(人としての葛藤)だけではなく、科学技術の進歩の早さゆえに人間社会と不幸な邂逅を果たした新型A.I.の姿は社会風刺であり、社会批評だ。さらに生命とは?意思とは? という深遠なテーマを湛えたラストの夕空の美しさ
 
面白い映画には映画世界の向こう側への広がりがあると思う。間違いなくこの映画「センターライン」には、「映画の向こう側」があった
 
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そう。思い出すのは最近流行った、ある低予算映画。
たくさんの伏線を綺麗に回収するパズル的な巧さはあったものの、私には「で、それから?だから?」という思いがよぎった。あの映画の面白さはその映画の中に全て納まっている。「映画の向こう側」を感じなかった。
 
「センターライン」は映画の向こう側にはるかに雄大な世界が広がっているのを感じた
 
映画は現実のミニチュア、映画の向こう側に踏み込まないんじゃなくて、そんなものはそもそも無い。つまらない今を享受せよ的な映画を否定する気はない
 
センターラインで描いた感情を持ったA.I.が人間を殺す未来など100年経ったって来ないのかもしれない
 
それでも「センターライン」のような、映画で新たな世界を作り広げていこうというクリエイターとしての意思を感じる映画をこそ、私は評価したい
 
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長くなりついでに、ここからはネタバレなので鑑賞後にお読みください
 
「ブレードランナー」のオープニングの設定を説明する字幕ロールの最後の2行は
 
This was not called execution.
It was called retirement.
   
それ(レプリカントを射殺すること)は処刑とは呼ばれなかった。
それは廃棄と呼ばれた。
・・・である。
ただし流通しているほとんどのブレランの日本語字幕は「レプリカントを処分するためブレードランナー特捜班が組織された」みたいな文言になっているのだが。
 
「センターライン」で思ったのは「処刑ではなく廃棄」というブレードランナーイズムのようなもの
人口知能とアンドロイドの差こそあれ、機械をモノと見るか、意志を持った人格と見るか、というやがて人間が直面するかもしれない、社会的、倫理的な問題に低予算映画なのに力強く踏み込んでいく
それをレプリカントという完成に近い人工生命から比べたら赤子以下のカーナビA.I.を使って描いたのが本作なのか
だからA.I.とその開発者の関係を、母と幼児のように見せているのかもしれない
下向監督がブレードランナー好きなのかは知らないし、多分そこまで意識してないのだろうが、それでも主人公の米子がカーナビにカメラをくくりつける10秒くらいのシーンが、光の感じとか音楽の感じとかディゾルブで緩やかにカットをつなげるところとかがブレードランナーでデッカードがレイチェルを尋問するシーンを思い出させた
 
ブレランについては深読みであろう
でも2019年設定のブレランが2018年の今なお名作としての輝きを失わないように
いや「2001年宇宙の旅」が2018年の今なお名作として輝き続けているように
「センターライン」は「平成39年」を過ぎても面白さは変わらないだろう。残念ながら平成は31年で終わることになったが、かえってパラレルワールド日本映画として輝きを得るかもしれない。(例えば今「大正110年」という字幕とともに始まる映画があったら間違いなくツカミOKだろうから)
人類はどこへ行くのか!というテーマに切り込んだ映画は強い。日本中の商業映画のプロダクションは高校生が壁ドンする映画作ってる暇あったら、こういう映画を作っていくべきだと心から思う

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蛇足
中盤のカーチェイスシーンはさすがに低予算なのに無理しちゃってる感があり、それでもチャレンジするのはすごいと思った。でもあのシーン、スピルバーグが撮ったらもっと面白くなるんだろうな・・・って当たり前か。予算10000倍くらい違うわ
いや、なんでわざわざスピルバーグ言及したかというと、そうは言ってもそのカーチェイスシーンで車の背後に迫るヘッドライトという画が「未知との遭遇」みたいで
監督もトークショーで「E.T.」に言及していたくらいだから「未知との遭遇」は意識したのかなと思ってみたり

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さらに蛇足
センターライン→2001年宇宙の旅→エクスマキナ→A.I.→ブレードランナーと続けて観て人工知能開発史を楽しむのも一興か
 
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添付の写真は上映後のトークショーの様子と、会場でもれなくプレゼントされていた特製マグネットステッカー
主演の米子検事を演じられた吉見茉莉奈さんの演技は本当に素晴らしかった

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