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『ドライブ・マイ・カー』~~感情表現とはテキストと向き合った先に芽生えてくるものなのかもしれない

2022-03-12 13:17:00 | 映評 2013~
パンデミックが始まり、映画館に行くことが非常に少なくなりまして、だからせめて観た映画については、きちんとなにがしか書き残していこうと思い、久々の映評ブログ更新です

で、「ドライブ・マイ・カー」なのですが、アカデミー賞(アメリカの方のね)で、作品、監督、脚色、国際長編の4部門にノミネートされたので‥観に行きました。
しかもこれが、濱口竜介監督作品の初鑑賞というのが、なんだかとってもだっせーなー…
カーリングで言うと、決勝トーナメント進出決まってから試合中継を見始めた人ですね。
アカデミー賞ノミネート前から「ドライブマイカー」観ていた人は、カーリングだと予選リーグから試合観ていた人
『ハッピーアワー』あたりから濱口作品を見続けてきた人はカーリングだと日本選手権あたりから観戦していたひとなんでしょうね。
別に「そだねー」なんて相槌は要らないです。

ともかくアカデミー賞とるかもしれないから、映画館に見に行きました。
それにしましても8月公開の作品が、3月になっても上映中とは、アカデミー効果はすごいです。

とは言いましても、作品賞はないだろうな・・・と思ってます。
アカデミー賞で作品賞を取るには、監督賞、脚本部門、そして編集賞でノミネートされている必要があり、最初の二つは条件クリアしていますが、編集賞で候補になっていないということは、まあ作品賞はないと言ってよいのです。
過去40年間で編集賞にノミネートされずに作品賞を取ったケースはたった一度しかなく、その一回はワンカット映画の『バードマン』でした。(ただしバードマンはホントはワンカットじゃないのをデジタル編集でワンカットかのようにしているので、むしろ編集賞でノミネートされて然るべきだったんじゃないかとも思いますが)
一昨年の『パラサイト』、昨年の『ノマドランド』とアジア勢の勢いが強いので、その流れでという期待もできますが、『パラサイト』も『ノマドランド』も編集賞にノミネートはされていたからなあ…

ただし国際長編部門はほぼ当確かな。この部門(前身である外国語映画賞も含め)と作品賞の両方にノミネートされて、国際長編(または外国語映画)賞を取らなかったケースはないと思います。『グリーンデスティニー』や『ROMA』『パラサイト』などがそれにあたります。
しかしながら国際長編と脚本の2部門でノミネートされたノルウェー映画「ワースト・パーソン・イン・ザ・ワールド」や、国際長編と長編アニメと長編ドキュメンタリーの3部門でノミネートのデンマーク映画「フリー」など、強敵がひしめいているから、この部門も安泰とは言えません。それにしてもアニメとドキュメンタリーで同時ノミネートってとんでもないことですよね。どんな映画だ!?

そして私が4部門の中で一番、取れそう・・・というか取ってほしいと思うのが脚色賞です。
この部門、作品賞候補最有力のジェーン・カンピオン監督・脚本の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』があるので、ここも受賞はそうとう難しそうですが(だからドライブ・マイ・カーは全滅もあり得るんですね)。

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映画を観終えて、最初に思ったのは、3時間の長尺ながら長いと全く思わなかったな、ということでした。
ずこく余韻がいい・・・などという感想は「話がよくわからなかった」の言い換えになることが多いので、使いづらいのですが、しかし長い映画にも関わらず、見ている間より見終わった後の方が、考えることの多い映画でした。
これは原作を買って読んで見なくては・・・と思っていたのですが、家で何気に本棚を見ると、あるじゃないですか。「女のいない男たち」が。
一緒に鑑賞した妻が原作のことを少しも語っていなかったのですが、この本はいつ買ったのだ?と聞くと、覚えがないといいます。
うちの書棚には買いはしたが読んでない本が、私のも妻のも、まあまああるので、その中の一つだったということでしょう。

「女のいない男たち」は6つの短編が収録された短編集で、各エピソード間には直接的なつながりはありません。「ドライブ・マイ・カー」は6つのエピソードの中の一話で、ページ数は54ページしかありません。原作をそのまま映像化したら、1時間以内で収まる物語だと思います。映画『ドライブ・マイ・カー』は、その短編「ドライブ・マイ・カー」をベースにしつつも、さらに女のいない男たちのいくつかのエピソードを組み合わせ、さらに映画の完全オリジナルな要素もいれて3時間にも膨らませたわけです。

映画『ドライブ・マイ・カー』には、他に「女のいない男たち」収録の「シェエラザード」がかなり大々的に取り入れられています。家福の妻、音がベッドで語る女子高生の空き巣物語ですが、映画版はその物語が原作からさらにスケールアップされています。原作になかった物語の続き部分があまりに面白くて、どうして?それからどうなるの?と続きをもっともっとと聞きたくなります。それこそ王様に殺されないため面白い物語を語るシェエラザードのように。

余談ですが、原作でシェエラザードを読むとき、気分をあげるためリムスキー=コルサコフの交響詩シェエラザードを聴きながら読んだのですが、私の持ってるそのCDの指揮者はプーチン支持で西側の劇場から締め出しをくらったゲルギエフの指揮によるものでした。個人的には前からゲルギエフはどうも好きになれないなあ、と思っていたのですが、シェエラザードだけは例外的に彼の演奏が一番刺さるというか響くというか、でもま、時期が時期だけにちょいともやります。

他に夫が予定より早く帰って妻の浮気を目撃してしまうところは、「女のいない男たち」収録の「木野」というエピソードにその断片を見出せます。
また、「女のいない男たち」収録の「独立器官」の台詞にこんなのがあります。

~~~~引用 「独立器官」(村上春樹)より~~~~
「ひとつ僕からお願いがあります。どうか渡会先生のことをいつまでも覚えていてあげてください。先生は純粋な心を持った人でした。そして僕は思うのですが、僕らが死んだ人に対してできることといえば、少しでも長くその人のことを記憶しておくくらいです。」
~~~引用終わり~~~~


似たような台詞が映画『ドライブ・マイ・カー』にあった気がするし、なかったとしても、この台詞はあの映画を象徴しているような気がします。(映画に限ったことではなく村上文学全般に当てはまる気もしますが)

ベースとなった短編「ドライブ・マイ・カー」は、「役者の家福がドライバーを雇う」「ドライバーは若い女」「家福の妻は亡くなっている」「家福と妻は愛し合っていたが妻は何人かの男と寝ていたことを家福は知っていた」「俳優の高槻という男が妻と寝ていたと家福は確信している」「家福は「ワーニャ伯父さん」の台詞を車でかけている」「ドライバーは昔母親から虐待されていた」・・・といったところで映画の脚本と共通項が非常に多いです。
しかし、ワーニャ伯父さんの台詞そのものは原作にはほとんど出てこないし、ワーニャ伯父さんの公演シーンもありません。原作の家福は俳優ですが、映画は俳優兼演出家となります(多分濱口監督が自己投影をするために演出家の要素を足したのかな)。そして何より多国語が入り乱れる演劇というのは原作には全くない設定です。

そうした原作の様々な要素を取り入れ、新たな創作部分も盛り込んで、3時間もの超大作にしたというところが、「脚色」として是非とも評価されてほしいと私が思う所以です。

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映画『ドライブ・マイ・カー』は、ストーリーの映像化に主眼を置かず、言語化と感情の創作に主眼を置いているように思います。
物語のほとんどは車内での台詞語りによって展開していきます。音の語る女子高生の空き巣物語(そして家福の知らなかったその話の続きなど)映像化することもできそうですが、あくまで狭い車の中で聴いた話として表現されるわけです。
家福の演出論、戯曲は感情を入れずにテキストとして向き合え、というのも印象的です。
役者なら気持ちを入れまくった芝居をしたがるもので、過去の経験から感情を引き出してぶつけるみたいなことをしがちだし、必ずしも間違いではないですが、まずはテキストとしっかり向き合え、それ以外の余計なインプット(過去の記憶とか経験とか)を全部シャットアウトして、テキストをしみ込ませて、ある意味すべての経験をリセットしてゼロから役を作ろうという試みに見えるのです。
凝った映像があるでもなく(だから編集賞でノミネートされなかったのも無理はないのです)、皆はひたすらに吸収したテキストをアウトプットしていく。しかも日中韓英タガログ、ついでに韓国手話も含めた5ヶ国6種の言語表現によって。人間の口を通して語られるテキストは、しかし何十回何百回と喋ることで染みつき息をするように吐かれるそれぞれのテキストには、血肉がついていて、素の感情が現れています。
すわって喋るだけの岡田君から吐き出される音の物語が、下手な映像化よりも変に生々しく感じられるのも、3時間という長尺をつかって、観る側の我々にもテキストが染みついてきたからではないか。感情のないワーニャ伯父さんの台詞を何度も何度も聴いていたみさきが、会ったたことのない音の気持ちを理解できたことにも何か説得力を感じます。
こういう、ひたすら喋る映画というのは、映画演出としてはリスキーだと思います。
会話劇ともちょっとちがう。普通会話劇(の傑作)と言うと小気味いいテンポで、洒落た台詞がポンポン飛び出してきて、脚本家と役者が作った世界観に巻き込まれていくものです。『ドライブ・マイ・カー』はどう考えてもテンポがいいとは言えないわけで、世界観に強制的に巻き込む強引さはなくて、むしろゆったりとした流れの中で役者一人一人がむきだしのテキストから新しい感情を芽生えさせていく過程に同席することで、自分自身にも新たな感情が芽生えてくるような、あるいは自分の心の奥や隅にあって使わなかった感情を見つけ出すような、そんな気持ちにさせられる映画です。昔から濱口作品を観てきた皆様にはいつものことかもしれませんが、私にはあまり経験したことのない映画体験でした。
だからこそ、脚色の手腕をこそ評価してほしいと思うのです。


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雑感1)
舞台が広島というのも原作と違うところです。このチョイスもいいのですが、だからといってこれ見よがしに原爆ドームや厳島神社といった広島観光映像っぽくしないところもよいです。家福がみさきにまだ広島を全然見ていないからどこかいいところに連れて行ってくれ、と頼んで、それでみさきが連れて行ったところが、ゴミ処理場って、みさきさん、あんたセンスいいよって思いました。

しかし、大事件勃発で突然気まぐれで、タイムリミット3日という状況で、「(北海道の)上十二滝村に連れて行ってくれ」とか、普通の運転手なら、「はあ、何言ってんすか、バカじゃないの」と言いそうなものの、はいわかりましたと言ってしまうところ、この感覚のすごさ、外国人にはわからないだろうなあ
広島から北海道まで、連絡船での4時間程度の仮眠だけで運ぶみさきさん、ドライバーのレベルとしてはジェイソン・ステーサムクラスだよ。

雑感2)
原作の高槻の描写が面白いです。

~~~~引用 「ドライブ・マイ・カー」(村上春樹)より~~~~
長身で顔立ちの良い、いわゆる二枚目の俳優だった。四十代の初め、とくに演技がうまいわけではない。存在に味があるというのでもない。

それにしても随分感情の読み取りやすい男だ~~中略~~俳優としてはおそらくそれほど大成しないだろうが

彼の言葉は曇りのない、心からのものとして響いた。少なくともそれが演技でないことは明らかだった。それほどの演技ができる男ではない。

~~~引用終わり~~~~

これが実際の俳優に対しての評だとしたらほとんどただのdisりになるわけですが、これを踏まえて岡田君をキャスティングしたのだとしたら、なんだか彼が可哀そうに思えてきます。
といっても私ら映画ファンは、岡田君がそんなハンサムなだけで深みのない下手な俳優でないことは知っているわけです。にもかかわらず高槻という男のイメージに岡田君は完ぺきにはまっていました。それだけ彼が、上手い役者だということを示しているし、濱口竜介風演技メソッドの成果の一つともいえると思います。
まあ、ああいう破壊衝動のある自己崩壊タイプの役がもともと得意だった気もしますけど

余談
ちなみに自分は脚本に書いていない登場人物の過去の設定を役者と話しながら作り、演じるためのバックグランドを固めていくスタイルです。誰に教わったでもなく、なんとなくやってるうちに気づくとそんなスタイルになりました。
本作の家福はそんなことせず、純粋にテキストのみから全てを作っているように受け取れます。演劇の演出は知らないけど、よくあることなんでしょうか?
自分のやり方がなんか間違ってたのか、と不安になってきましたが…
スピルバーグのウエストサイドストーリーのパンフによると脚本家がそれぞれの登場人物にちょっとした小説になるくらいの過去のエピソードを作っていて、そこから役者たちが広げていった…とあるので、私のやり方はハリウッド的には間違っちゃいないんですね。ああ、よかった
脚本に絶対的な自信がないと、ドライブマイカーみたいな撮り方はできないな…

追記
調べてみると濱口竜介監督もドライブマイカーでは、脚本にない登場人物の過去を作り撮影とは別に、過去のエピソードを演じさせたりもしていたそうです。

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『ドライブ・マイ・カー』
監督:濱口竜介
脚本:濱口竜介、大江崇允
撮影:四宮秀俊
出演:西島秀俊、三浦透子、岡田将生、霧島れいか、パク・ユリム、ジン・デヨン、ソニア・ユアン
2022年2月27日 TOHOシネマズ上野にて鑑賞

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