目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

下馬太子堂三宿コース 約6.8km

2025-01-29 12:23:26 | 東京都目黒区、世田谷区
気温は前日より上がったものの北風が強く体感温度の低い中でのウォーキングになりました。風のないところではおひさまの温かみも感じることができました。このコースは隣接する世田谷区にちょっと遠征してご近所を見て回る試みです。


五本木児童遊園
祐天寺駅に集合して、近くの公園をお借りしてストレッチをして出発します。


聴力障害者情報文化センター

謡坂
謡坂を下り、蛇崩方面へ。


シダ

サザンカかな?

芦毛塚
芦毛塚は下馬の地名の元となる故事の残る場所です。かつてこのあたりは湿地で頼朝が乗っていた芦毛が足を取られて死んでしまったので、この付近は馬から降りて通行するよう頼朝が命令し「馬引沢」呼ばれるようになったのです。馬から降りた場所が下馬で乗った場所が上馬という説を私は信じていません。馬引沢村が大きかったので蛇崩川に沿って上流から上馬引沢、中馬引沢、下馬引沢と呼ばれていたものが上馬、下馬と短縮された説を支持します。中馬引沢は街道の分岐にあった三軒の茶屋から三軒茶屋と呼ばれるようになりました。


ユズ

ヒメリンゴ

ハクモクレン

キンカン

足毛橋

蛇崩川緑道案内図
三宿通りの橋の名前は足毛橋で芦毛から変化したものと思われます。




駒繋神社
頼朝が参拝した際に馬をつないだ松の木があったということが駒繋神社の名の由来です。


スイセン

ちょっと大きめ、夏みかんかな

西澄寺武家屋敷門


西澄寺
武家屋敷門は蜂須賀家の江戸藩邸から移築し、東京都の有形文化財に指定されています。


青空に煙突

三軒茶屋商店街
ブラックラムズ東京はリコーのラグビーチームです。


三軒茶屋大山道の道標

キャロットタワー

世田谷線

目青不動教学院
目黒不動と並ぶ江戸五色不動の一つ。来月もう一色訪れる予定です。





太子堂八幡神社
太子堂八幡神社略記
  御祭神  誉田別命
  大 祭  十月第二日曜日
  社殿改築 昭和十二年八月十日
  御由緒及此地の沿革
 当社の鎮座年歴不祥なれど、旧当社別当円泉寺開基の縁起によれば、文禄年間(西暦1592~6年)創祀されたとあるが、平安時代後期源義家が父頼義と共に朝廷の命を受け陸奥の阿部氏征討に向かう途中この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられていることから少なくともこれより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮のご分霊を勧請し村の守護神として祀ったことは明らかである。
 太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って鎌倉へ通ずる道で鎌倉道と呼ばれ古い時代には行き着く目的地の名を取って付けたようである。
 この鎌倉道の付近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴を張った、太子堂上本村一二一~二番地のあたりを(五丁目)土器塚と云い酒宴後の土器など此の地に埋めたのでそう呼んだのである。その塚に続く塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わした名残である。
 真言宗豊山派円泉寺境内に聖徳太子像を安置し、それより太子の號をとりて部落の村名とした。
 以上は、古老の伝承、武蔵風土記等を参照記したものである。



太子堂弁天


圓泉寺

藤の絡まる灯篭


太子堂

太子像

木のウロの祠
縁起にあったように、太子堂の地名の由来となった太子堂。




三宿の森緑地
三宿の森を育てる会のサイトから引用します。
【緑地の由来】
2004年4月1日に開園した三宿の森緑地は、緑の少ないこの地において8,000㎡という面積を持ち、
樹齢百年に及ぶ大きな樹木と自然を大切に残すように設計された世田谷区立公園です。

1.屋敷の成立――敷根氏の時代
 昭和の初年、雑木林と畑が広がるこの地を屋敷にしたのは敷根氏であるとされている。今の敷地よりずっと広く土地を求めて造園に着手し、二階建ての日本家屋を着工した。家屋は出来上がって昭和51年に5階建ての研修所宿舎建設のために取り壊されるまで、戦前の典型的日本家屋の優美な姿をとどめていた。事情はつまびらかでないが、敷根氏はここに住むことなく、中村氏が後を継いで屋敷としての完成を見る。

2.屋敷の完成――中村氏の時代
 敷根氏から屋敷を引き継いだ中村氏は大陸方面で、日産コンツェルンを作った有名な鮎川義介氏と共同で事業を営んでいたという。当主は事業の地である朝鮮に在って、子息夫妻が三宿に居住し、今に残る樹林や十三重の塔、石灯籠、石像や、日本家屋と共に取り壊された泉水など、屋敷を作り上げた。今は2棟のマンションが建つ一段下がった土地には使用人の住む家があったから、敷地は1倍半くらいはあったであろう。同夫妻はこの地で3人の令嬢に恵まれ、テニスコートを邸内に持ち、揃って乗馬を楽しむという優雅な生活であったという。戦争はこの一家にも過酷な運命をもたらす。朝鮮の事業は烏有に帰し、子息は戦地から帰ることはなかったのである。

3.法務省施設の時代――昭和50年まで
 終戦後はおそらく財産税物納のため国有地となり、法務省の施設となった。日本家屋は寮として使い、住宅不足時代のため職員の官舎が数棟建てられ、後には研修に召集される全国職員のための2階建て寄宿舎が設けられたが、いずれも木造であった。
 樹木は年を経て成長し、隣接の三宿神社と併せて高速道路からも目立つ三宿の森となっていった。なおこの時代のエピソードがある。昭和29年のいわゆる造船疑獄のとき、時の与党幹事長佐藤栄作氏が、約400米の距離にある北沢の自宅から着流し下駄履きで散歩と称して出かけ、張り込む記者の目をくらまし、ここで検察の取り調べを受けた。犬養法務大臣の指揮権発動で難を逃れた佐藤氏は、後に総理大臣となる。その後も重大事件があるたびに記者の張り込みが見られた。

4.法務省研修所大ビルディング建設反対運動
 昭和50年に法務省は突然近隣住民に対して大ビルディングの建設計画を発表した。手狭になった寄宿舎を建て直すと同時に敷地内に研修所自体を設けるため、8階建てのビルなどを建設するというのである。当時は2階建てまでの木造家屋しかない住宅地に巨大なビルをつくり、そのために樹木は多く伐採もしくは移植する、多くの近隣家屋に日照被害を与えるという国による環境破壊のとんでもない計画であった。
 隣接する住民だけでなく近隣の参加を得て、早速法務省三宿ビル建設反対の会を結成して、署名運動から世田谷区への請願、区議会議員への個々の陳情、果ては参議院での質問に取り上げてもらうなど懸命の運動を繰り広げた。だが当時は日照権こそ認められていたが、環境破壊についての一般の認識は今とは格段の差があったので、運動は困難を極め、法務省との協議は時に激しいものとなった。しかし熱心な運動の結果、各方面の関心と協力を得られるようになり、また法務省としても環境保全の重要性について次第に理解を示し、計画建物の規模を縮小して昭和51年春には建設反対の会との協定を結んで、5階建て建物などの建設工事に着工した。
 このときに樹木については一部移植や伐採はあるが、"等価的かつ等量的に保存する"とされたのは特記すべきであろう。建物は昭和53年に完成して、研修所の寄宿舎と若干の講義の場所として使われ、また毎年秋には司法試験の最終面接テスト会場となっていた。
5.法務省施設の完全移転と三宿の森緑地の成立
 法務省が研修所を浦安に新設するので、三宿からは完全移転するらしいとの噂が流れたのは、平成9年のはじめ頃であった。もうこの土地は有力な不動産会社が入手することになっていて、マンション開発になるからと期待している商店もあるというのである。噂は次第に形となり、移転は本決まりとなって、建物と敷地は平成10年3月に法務省から大蔵省へ移る、その後の用途は決まっていないと同年秋に口頭説明があった。建設反対の会のメンバーであった近隣住民は、有志の名前で昭和50-51年のいきさつや協定確認事項を記し、環境と緑、樹林を保存するため特段の配慮を要請する文書を世田谷区や法務省、大蔵省に提出した。
 片や北沢川緑道で大きな貢献をし、環境保全のトヨタ財団賞を獲得したエコアップサークル「環」のメンバーも法務省移転の情報を入手して、世田谷区で最も緑被率の低い三宿の再び得られない樹林や環境を守るべきだと立ち上がり、両者合同して三宿の緑を守る会を結成した。この残された樹林や敷地の環境的価値と、敷根、中村氏の残した石像などの文化的価値を知ってもらおうと、三宿の緑を守る会はセミナーを催して多くの人々の関心をよび、区への請願書にはわずか1週間で2千人を超える署名が集まったのである。
 平成10年10月世田谷区議会はこの請願を、願意に沿うようとの意見を付けて全会一致で採択した。それを受けて区は構想を練り、大蔵省ほかとの折衝を重ね、この法務省跡地を国から買い取って公園として整備することを正式に決定したのは平成12年12月のことであった。以来平成13年度に用地取得、14年度既設建物等の撤去、15年度公園化の工事を経て、16年4月1日に三宿の森緑地として開園の運びとなった。この間世田谷区は区民の要望を聞くべく辛抱強く打合会を持った。
 南側崖の土留め工事をやり直すために年を経た貴重な樹木が数多く移植され、せっかくの樹林がまばらになってしまったなど残念な点はあるが、出来上がった姿には三宿の緑を守る会が当初提案した構想が基本的に生かされている。会の中心メンバーであり、高齢であっても知識、実行力、人格のいずれの面からもみんなの尊敬を集めた柳田友邦氏が、完成を見ずに平成15年5月に逝去されたのは誠に残念なことであった。享年92歳、同氏の徳をたたえ、また公園の実現に関わった方々に感謝するため、近隣と会の有志でサンシュの若木を記念植樹したのは、開園に先立つ内覧会の日、平成16年3月23日であった。この地で幼時を過ごしたかっての中村家令嬢も一人この日に来られ、感慨を深めていたことを記し、三宿の森緑地由来の紹介とする。



三宿神社
こちらの境内をお借りしてストレッチをして解散としました。三宿の地名の由来を世田谷区のサイトから引用します。
三宿村は東を池尻、南を下馬引沢、西を太子堂、北を代田村に囲まれ舌状形をしていて、北側は東西が約600メートル、南側は約200メートルで、南北の長さは900メートルほどのこぢんまりとした村でした。村は字が北宿、本宿、南宿の三つに分かれますが、村の人はこれを上(北宿)、中(本宿)、下(南宿)と呼んでいました。この三宿の名はこの三つの宿名からつけられたものだという説があります。もう一つの説、村の北部を流れる烏山用水によって水利に恵まれていたので、水の宿る所から水宿となり、それが三宿になったという説が有力です。


アートギャラリーのようです

サトイモ?


騎兵第一連隊址
このコースを始めて歩く人向けに階段を上ってきてみました。秋山好古が揮毫した石碑があります。


ボケ
目黒川の緑道を大橋まで歩き、本格的に解散です。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
参加を希望される方はご一報ください。
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【下見】神田川遡上 水道橋から西早稲田

2025-01-09 11:56:50 | 東京都文京区、豊島区、新宿区
運動不足解消に下見に出かけました。


水道橋駅東口改札

水道橋
前回までに柳橋から水道橋までの神田川、箱崎から水道橋の分岐点までの日本橋川を遡上してきたので次回は水道橋から神田川を遡上します。この橋の名は神田川を越えるために架けられた神田上水懸樋に由来しています。


東京ドームホテル

後楽園ビル

神田川・日本橋川分岐

飯田橋三丁目広場
ストレッチができる場所がなかなかないので、この広場付近かな。


旧町名案内
旧 新諏訪町(しんすわちょう)
(昭和39年までの町名)
 江戸時代には、隆慶橋(りゅうけいばし)東側、雁木(がんぎ)横町といっていた。明治のはじめ小日向三軒町代地、小日向東三軒町(ひがしさんけんちょう)と称していた地を合併して新諏訪町とした。
 町名は、北側に隣接する諏訪町に対して、新の一字を加えて、新諏訪町をした。隣町の諏訪神社(すわじんじゃ)からとった。
 江戸時代、江戸川(えどがわ)(神田川)は御留川(おとめがわ)で禁漁であった。江戸川が外堀(そとぼり)に注ぐすぐ手前の橋が船河原橋(ふなかわらばし)で、ここから下流は禁漁でなかった。
 新諏訪町に接する船河原橋の下手がせき止めてあり、水がドンドと音を立てて流れ落ちた。それでこの橋はぞくにドンド橋といわれた。
 橋の滝の下は、下ってくる魚をとらえるために網を張り、釣り糸をたれる人が多かった。
文京区



旧町名案内
旧 江戸川町
(昭和39年までの町名)
 江戸時代は武家地で、江戸川端、大曲り新道といっていたのを、明治5年(1872)、これらを併せて小石川江戸川町とした。【『東京府誌』より】
 町名は、町の南西側が江戸川に面していることによる。
 目白台下の旧関口の大洗堰(現、大滝橋あたり)から船河原橋までを江戸川 といっていたが、昭和40年(1965)、新河川法が施行されて、神田川 と呼ぶようになった。
 白鳥川の近く、旧江戸川町十七番地(現、水道1-2のあたり)に、明治6年(1873)、同人社 が創設された。塾主は中村敬宇(正直)で「江戸川聖人」といわれた。
平成26年3月
文京区



天皇陛下行幸の碑

トッパン印刷
石碑はトッパン印刷を天皇陛下が行幸されたということの様です。


旧町名案内
旧 西江戸川町
(昭和41年までの町名)
 江戸川(現在の神田川)に沿った武家屋敷地であった。
 明治5年、東隣の江戸川町に対して、西江戸川町とした。
 『新編江戸志』に、「中の橋、此辺を恋ヶ崎という、一名鯉ヶ崎、此川に多く鯉あり、むらさき鯉という、大なるは三尺(注・約1メートル)に及ぶなり」とある。
 江戸時代は、お留川といって、殺生禁断であった。
 “こくせう(注・鯉こく)になどとほしがるお留川”(古川柳)
 石切橋から隆慶橋までの間の江戸川両岸一帯は、明治の末ごろまで東京市内屈指の桜の名所であり、夜桜見物の船まで出た。明治17年ごろ大海原某氏が自宅前の川べりに桜を植えたのが始まりで、地域の人たちが協力して植樹した。しかし、洪水の害があり、護岸工事で切られた。
文京区



神田川

旧町名案内
旧 関口水道町(せきぐちすいどうちょう)
(昭和41年までの町名)
昔関口村の内であった。鷹匠細田加右衛門(たかしょうほそだかえもん)他2名の知行所(ちぎょうしょ)であったが、延宝年間(1673~81)以前から村方(むらかた)町屋となった。
 貞享(じょうきょう)2年(1685)町屋が許され、町奉行(まちぶぎょう)・代官(だいかん)両支配となった。そして、武蔵野国豊島郡(むさしのくにとしまぐん)関口水道町となる。
 明治5年、造兵司(江戸末から大砲製造所-明治2年政府の東京関口製造所と改称、同年竹橋内吹上(ふきあげ)に移転、砲兵工廠(ほうへいこうしょう)の前身)や武家屋敷地その他を併せた。
 明治11年、小石川区に編入した。
 江戸時代に水番所 があり、大洗堰(おおあらいせき)の神田上水(かんだじょうすい)の水門の差蓋揚卸(さしふたあげおろし)の役を勤めていた。上水の管理運営にあたる人が住んでいたので、水道町の町名ができたといわれる。
文京区











江戸川公園
説明板がたくさんあってすべて書き起こすのは大変なので、公園について文京区のサイトから引用します。
関口台地の南斜面の神田川沿いに広がる東西に細長い公園です。台地の斜面に自生する雑木林と園路を主体とした公園でしたが、昭和59年(1984年)に神田川の拡幅工事に伴い改修されました。細長い公園なので園路を散策すると、様々な景色がパノラマのように展開します。川に沿ってソメイヨシノが続きます。途中で園路が二手に分かれたり、様々な重量感のある石が添えられた石の広場や、西洋風の山小屋を模した時計搭のある四阿(あづまや)、藤棚のあるテラスなどがあり、変化に富んだ景観となっています。テラスの先には石組みの池があり、神田上水取り入れ口に使用されていた大洗堰を復原しています。斜面地には浮き橋状の遊歩道があり、斜面の樹木をいためないようになっています。深い樹間をつづら折に登ると最上部につながり、早稲田方面を見渡せるようになっています。



椿山荘



関口芭蕉庵
  文京区 関口2-11-3

 この地は、江戸前期の俳人松尾芭蕉 が、延宝5年(1677)から延宝8年(1680)まで、神田川 改修工事に参画し、「龍隠庵」と呼ばれる庵に住んだと伝えられている。後に世人は「関口芭蕉庵」と呼んだ。
 享保11年(1726)、芭蕉の33回忌に当たり、芭蕉の木像を祀る芭蕉堂が建てられた。その後、去来・其角・嵐雪・丈草の像も堂に安置された。
 芭蕉は、早稲田 田んぼを琵琶湖 に見立て、その風光を愛したと言われている。そこで、寛延3年(1750)宗瑞・馬光らの俳人が、芭蕉の真筆「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓とした。この墓を「さみだれ塚」と称した。塚は芭蕉堂の近くにある。
 芭蕉庵 の建物は、昭和12年(1937)3月、近火で類焼したが、同年8月再建された。しかし、昭和20年(1945)5月の戦災で焼失した。
 敷地内には、芭蕉堂・さみだれ塚・朱楽菅江歌碑・伊藤松宇の句碑などがあり、往時をしのぶことができる。
  ー郷土愛をはぐくむ文化財ー
 文京区 教育委員会 平成10年3月




胸突坂
文京区関口2-11と目白台1-1の間

 目白通りから蕉雨園(しょううえん)(もと田中光顕旧邸(みつあき))と永青文庫(えいせい)(旧細川家 下屋敷 跡)の間を神田川 の駒塚橋(こまつかばし)に下る急な坂である。坂下の西には水神社(すい)(神田上水 の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵 である。
 坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上がれないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。
 ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。
-郷土愛をはぐくむ文化財-
文京区教育委員会 平成10年3月






肥後細川庭園

神田川桜並木

ナンテン
自転車には注意しなければなりませんが、車が来ないので歩きやすい道です。かぐや姫の神田川はこのあたりが舞台のようです。


宿坂道
 中世の頃、「宿坂(しゅくさか)の関」と呼ばれる場所がこの辺りにありました。天保七年(1836)出版の『江戸名所図会 (ずえ)』には、金乗院(こんじょういん)とともに「宿坂関旧址(しゅくさかのせききゅうし)」が描かれています。金乗院の裏門の辺りにわずかな平地があり、立丁場(たつちょうば)と呼ばれ、昔関所があった跡であるとの伝承が記されています。この坂の名が「宿坂」といわれているのは、おそらくこれにちなむものと思われます。
 また金子直徳(なおのり)著『若葉の梢』(寛政10年・1798)によれば、宿坂の関は関東お留(とめ)の関で、鎌倉街道の道筋にあったといわれています。鎌倉街道は、高田馬場から雑司ヶ谷鬼子母神方面へ抜ける街道で、現在の宿坂道よりやや東寄りに位置していたようです。
 江戸時代には竹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみ坂と呼ばれ、狐や狸が出て通行人を化かしたという話が今に伝わっています。








目白不動
目白不動 金乗院
所在地 豊島区高田二-一二-三九
 金乗院は真言宗豊山派の寺院で、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが草創とされています。永順の没年は文禄三年(一五九四)六月であることから、それより以前、天正年間(一五七三~九二)の創建と考えられます。当初は蓮花山金乗院と称し、中野宝仙寺の末寺でしたが、のちに神霊山金乗院慈眼寺と改め、護国寺の末寺となりました。
 江戸時代には近辺の此花咲耶姫社などの別当でしたが、昭和二〇年四月の戦災で本堂等の建物や、水戸光圀の手になるという此花咲耶姫社の額などの宝物も焼失しました。現在の本堂は昭和四六年に再建され、平成一五年に全面改修されました。  
 目白不動堂(東豊山浄滝院新長谷寺)は、元和四年(一六一八)大和長谷寺第四世小池坊秀算が中興し、関口駒井町(文京区)にありましたが、昭和二〇年五月の戦災により焼失したため、金乗院に合併し、本尊の目白不動明王像を移しました。
 目白不動明王は、江戸守護の五色不動(青・黄・赤・白・黒)の随一として名高く、目白の号は寛永年間(一六二四~四四)に三代将軍徳川家光の命によるといわています。
 墓地には、槍術の達人丸橋忠弥、青柳文庫を創設した青柳文蔵などの墓があり、境内には寛文六年(一六六六)造立の倶利伽羅不動庚申塔をはじめ、寛政一二年(一八〇〇)造立の鍔塚など多くの石造物があります。
 平成一九年(二〇〇七)三月
 豊島区教育委員会




神田川の魚道

いきいきウォーク新宿

都営荒川線
神田川沿いはここで終了、最寄り駅へ向かいます。



学習院女子大学
重要文化財 学習院旧正門

昭和四十八年(一九七三)六月二日 文部大臣指定
 所在地 新宿区戸山三丁目二〇番一号
 所有者 学校法人 学習院

 この鋳鉄製の門は、はじめ明治十年(一八七七)に学習院が神田錦町に開かれた時、正門として建てられた。
 製作は埼玉県川口市の鋳物工場で、唐草文様をあしらった和洋折衷の鉄門は、明治初期の文明開化 時の様式と技術を伝える貴重な文化財である。
 神田錦町の学習院校舎が明治十九年(一八八六)焼失したあと、この門は各所を転々としたが、昭和五年(一九三〇)目白の本院構内にもどり、その後昭和二五年(一九五〇)にこの地に移され、現在、学習院女子大学・学習院女子高等科・学習院女子中等科の正門として使用されている。

 平成十六年(二〇〇四)四月

学校法人 学習院



戸山公園
すこやか歩こう会で歩くときにはこちらでストレッチをして解散の予定です。




穴八幡宮
ウォーキングで訪れる予定はありませんが、高校生の時に担任だった斎藤先生のご実家で、大学時代クラブ活動の仕事で何度も近くを訪れた思い出の地をお参りしてきました。


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まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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目黒七福神コース 約7.0km

2025-01-06 12:26:22 | 東京都目黒区、品川区
年明け恒例となっている七福神巡りです。今回は1月4日と松の内の実施となったので各寺社参拝客が多かったようです。目黒区のサイト、歴史を訪ねてめぐの日記特別版に詳細が載っているのでご参照ください。
5日に初回放送があった大河ドラマ「べらぼう」は江戸の火災シーンから始まりました。この中で解説にあった明和の大火、明和九年(めいわくねん→迷惑年)の大火は行人坂の大円寺が火元で千住まで焼き尽くしたというので、東京メトロ日比谷線もびっくり。大円寺は八百屋お七ともゆかりがあり、火事と縁が深いお寺が含まれている七福神めぐりとなっています。




大鳥神社
集合は大鳥神社、区内で一番古いといわれる神社です。


蟠龍寺 岩屋弁天

松雲禅師像

成就院(蛸薬師)
弁天様はわけあって参道から遥拝。松雲禅師の五百羅漢寺、蛸薬師は七福神めぐりとは関係ありません。成就院とこの後訪れる目黒不動はともに慈覚大師円仁が九世紀に開山したといわれています。成就院についてお寺のサイトから引用します。
天台宗の宗祖、比叡山開山伝教大師最澄の高弟、慈覚大師円仁は栃木県壬生町生まれ、幼くして伝教大師をしたって比叡山に登り、学問修行に励まれました。
承和5年(832)唐に渡り、同14年帰国されるまでいろいろと苦学して、唐各地をまわり、たくさんの仏法を伝えて帰国されました(この時の旅行記が有名な「入唐求法巡礼行記」です。この本は先年、米国の元駐日大使ライシャワー氏が研究し、英訳出版されました。)大師は若いときから眼病を患い、40歳のとき、自ら薬師さまの小像を刻み、御入唐の時もこれを肌身につけて行かれましたが、お帰りの海路、波風が荒れましたので、その御持仏を海神に献じて、危急をのがれ、無事に筑紫の港に帰り着かれました。その後大師、諸国巡化のみぎり、肥前の松浦に行かれますと海上に光明を放ち、さきに海神にささげられたお薬師さまのお像が、蛸にのって浮かんでおられました。大師は随喜の涙にむせび給い、その後東国をめぐり天安2年(858)目黒の地に来られました時、諸病平癒のためとて、さきに松浦にて拝み奉った尊容をそのままに模して、一刀三礼、霊木にきざみ、護持の小像をその胎内に秘仏として納め、蛸薬師如来とたたえまつられました。かくして本尊の殊勝の12大願による福徳威力、信心の人は、心願ことごとく成就し、除災長寿の利益あまねく千年のいまに至るまで、弘く信仰されてきました。



瀧泉寺 三福堂
寺社をめぐるとき末社が目的でもご本尊にまず第一にお参りするのが礼儀です。急いでいる、階段を上るのが面倒だとお不動様にお参りせず恵比寿神だけお参りするとはなんと罰当たりな。


雅叙園入口の紅葉

大円寺本堂

目黒セントラルスクエアのツリー

妙円寺 妙見堂

妙円寺の紅梅
大円寺は大黒天、妙円寺は福禄寿尊と寿老人尊が祀られています。こちらの紅梅は比較的早く沢山咲いている年もあるのですが、今年は梅も遅いかな。




瑞聖寺 大雄宝殿

覚林寺 清正公堂

覚林寺 毘沙門堂
瑞聖寺は布袋尊、覚林寺は毘沙門天が祀られています。これで六つの寺社をめぐり七福神巡りは完了。


明治学院大学
桜田通りを下って明治学院。島崎藤村はこの大学の卒業生。



池田山公園
備前国岡山藩池田家の下屋敷。


タイ大使公邸
重厚な建物で、大使館はお隣にあります。ここから目黒駅付近まで戻りストレッチをして解散。有志は渋谷の天狗で新年会でした。


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【下見】荏原七福神コース

2025-01-03 12:08:34 | 東京都品川区
2008年2月に実施したコースで今年2月にふたたび歩くことになり下見をしてきました。前回歩いた時にはまた歩きたいと思うことはなかったのですが、今回下見をして面白みを再発見しました。


東急線大井町駅改札
以前は中目黒からまとまってきたのですが、コロナ禍以降大人数で電車に乗ることに抵抗があり現地集合にしており、今回はこちらに集合。


大井蔵王権現神社

福禄寿
駅に近い立会川緑道沿いにあるのですが気をつけていないと見逃してしまうところ。今回もちょっと探しました。本番では立会川緑道でストレッチができそう。


大盛湯





東光寺
雲一つない青空にお風呂屋さんの煙突から煙が出ている風景が懐かしく写真を撮りました。東光寺さんは毘沙門天がいらっしゃるはずなのですがどこだか分らなかった。



ニコン本社
真新しいビルだと思ったら、2024年7月から稼働を始めた本社/イノベーションセンターとのこと。


しなバス

横須賀線の踏切

西大井駅



伊藤博文公墓所
初代内閣総理大臣のお墓、さすがに立派です。


金子跨線橋
跨線橋の下には横須賀線、高架には東海道新幹線。ガード下の跨線橋が珍しく写真に撮っておきました。





如来寺
大きく立派なお寺です。布袋尊は見つかりませんでした。



伊藤小学校
伊藤小学校の由来
 この付近はかつて谷垂および篠谷と呼ばれていました、昭和7年(1932)、東京市がほぼ現在の23区の範囲に広がった際、東京市の一部となり品川区大井伊藤町という町名になりました。昭和11年に創立した当校は、その町の名にちなみ、東京市伊藤尋常小学校と名づけられました。
 大井伊藤町という町名は、初代内閣総理大臣の伊藤博文の墓所があることに由来します。現在の大井3丁目に別邸を持っていた博文は、この付近を散策して富士山を眺め、この地に墓所を設けたいと語ったと伝えられています。当然、小学校の名前も博文を意識したものでした。戦前は墓所の出入りが自由であったために、子供たちの遊び場ともなっていました。
 現在では伊藤小学校の児童が定期的に墓所の清掃活動を行っており、また、博文の命日に行われる墓前祭に校長が参加するなど、同校と博文は今も深いつながりを有しています。
令和2年3月19日



蛇窪神社
令和7年が巳年だからか、年明け前から多くの人が出入りしていました。人気の神社のようです。ここだけでも今年このコースを歩く意味があるかな。


立会川緑道
第二京浜の東側の立会川は暗渠になり立会道路として利用されていますが、ここから緑道になります。近くに源氏前公園もあるのでそちらも寄ってみるかな。源氏前の由来について品川区の広報誌から引用します。
「旗の台」「源氏前」の由来
「旗の台」「源氏前」も源氏に由来のある地名です。この地域には、鎌倉時代中期に創建されたと伝えられる「法蓮寺」(旗の台3-6-18)。そして、源頼信から受け継いだ八幡大神を祀まつったとされる「旗岡八幡神社」(旗の台3-6-12)があります。
さて旗岡はたがおかあるいは旗の台という地名は、源頼信が下総で乱をおこした平忠常を平定するべく下総へ向かう途中この辺りに陣屋を構え、源氏の白旗を立てて戦勝を祈願したといわれることからつけられたそうです。また源氏前は、源氏の陣屋の前の土地だったという説と、源氏ゆかりの旗岡八幡神社の前の土地だったからという説の二つがあります。現在源氏前の地名は小学校、図書館、保育園などに使われています。



法蓮寺

恵比寿堂
荏原町駅前の大きなお寺です。旗岡八幡神社も隣にあるので本番ではそちらも行ってみようかな。


古そうな蔵

旗の台商店街

立会川緑道

昭和大学病院


摩耶寺

スイセン
今回のルートはずっと立会川沿いになります。中原街道を横断すると昭和大学があり、ここから緑道はなくなり再び立会道路となります。摩耶寺には寿老人が祀られているのですが、見当たりませんでした。そろそろスイセンを見かける季節となりました。




小山八幡神社

大黒天堂


八幡神社からの景色

哲学者の道

江戸見坂交番
小山八幡神社の前の階段は、七福神巡り最後に心が折れそうな急こう配でした。そのおかげで景色がよく、江戸見坂があるのも納得です。交番は坂の下にあるので景色はよくないです。摩耶寺から哲学者の道を通ることにより、この登り階段は避けられそうです。


しながわ百景
桜並木通り(西小山桜並木通り)を北上するとゴールの西小山駅です。目黒中央体育館最寄り駅の西小山駅は品川区にあります。今回のコースは品川区で完結ですね。
伊藤小学校や源氏前、お隣の区でありながら歴史的に知らないことに気づかされる面白い下見となりました。荏原町駅あたりが武蔵国荏原郡の中心で律令国家の役所があったと考えられますが、裏付けるものは発見されていません。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
参加を希望される方はご一報ください。
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