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文豪とシンガポール

2023年05月16日 | 全般・イベント

 こんにちは駿台シンガポールです。

 今回はシンガポールと名だたる文豪の関係をご紹介します。

 ご存じのとおり現在シンガポール港は運輸・物流におけるアジアの中心的な港ですが、かつては物流だけではなく海を渡る人々が寄港する中継地としても賑わいを見せていました。

 その中には、欧州に国費留学や視察に赴く文学者(または後の文学者)も含まれており、代表的なところでは1900年(明治33年)、英国留学に向かった夏目漱石が挙げられるでしょう。漱石は寄港地のシンガポールで半日過ごした際、今や世界遺産であるシンガポール植物園や、日本人町に立ち寄ったそうです。日本人町では松尾旅館で昼食をとり、鯛の刺身や照り焼きを食し、インド米のコメが甘かったと感想を残しています。

 また、我が国最初の言文一致体で書かれた『浮雲』で有名な明治の作家二葉亭四迷は朝日新聞特派員としてロシアに赴任した際に、肺炎、肺結核に犯され、その帰国の途上、1909年(明治43年)ベンガル湾上で亡くなりました。その遺体はシンガポールで一端火葬され日本に運ばれたということです。そういった経緯からシンガポールの日本人墓地にも二葉亭の墓があります。

 そして、今回注目したいのが詩人としては名作「初恋」でも有名な『若菜集』を刊行し、その後自然主義文学作家として『破壊』『家』、また歴史小説『夜明け前』、さらには童話作家しても才能を発揮したまさに文豪と呼ぶにふさわしい島崎藤村です。

 藤村は実は二度シンガポールを訪れています。

 最初は1913年(大正2)に国内で問題を抱えていた藤村がフランスに渡る際で、その時の様子を紀行文『海へ』で次のように記しています。

 船客は思ひ思ひに貝細工だの人形だの絵葉書だのを土人から買求めた。港に停泊するわれわれの船をめがけてカノオを漕寄せる土人もあった。不思議な声を出して手を挙げて見せるのは、銭を海に投げて呉れといふ合図だった。旅のつれづれに高い甲板の上から銭を投げるものがあれば、土人は直ぐに水の中を潜って行って拾い出して見せた。こんなあさましい慰みも初めて見る眼にはめづらしかった。(一部旧字体、仮名遣いを改めた)

 この船の上からお金を投げ入れるのは当時恒例であったようで、同様の内容を漱石も明治33年9月25日の日記に記しています。引用文内に「土人」とあるのはマレー人のことを指すと思われますが(土人は現在は差別用語となっています)、藤村が「あさましい慰み」と書いたように、船上からお金を投げ入れる人々と船にむらがる人々との間には、その物理的な高さ以上の差があったものと思われます。

 2度目は日本ペンクラブ初代会長に就任した翌年の1936年(昭和11年)に、国際ペンクラブブエノスアイレス大会に出席するために外遊を行った際の事です。この時、藤村はシンガポールの日本人学校に招かれて講演を行っています。その時のことが『島崎藤村南米移民見聞録』(昭和12年 移民問題研究会)に記されています。因みにシンガポールに日本人学校が設立されたのは今から100年余り前の1912年です。

 それから、日本人の子供のための小学校がございますから、そこへも有島君と一緒に参りました。その時に、話を少しして呉れといふわけであったものですから、私は、自分で作りました童話で「忠実なる水夫」といふ、これは私の「幼き者へ」といふ童話集の中にございますが、それを話しまして、その序でに、言葉こそ―たとへいかなる場所に身を置いても、言葉こそは我が国のものである。その大和言葉、我が国の言葉を愛するといふことはあなた方にとっても大切な事だ。といふやうな言葉の愛といふことに就いて話しました。(一部旧字体、仮名遣いを改めた)

 と藤村はシンガポールの子どもたちに母国語である日本語の重要性を説いています。これは海外にいる子女には普遍的なテーマと言えるでしょう。海外で長期間暮らしていると必然的に日本語に触れる機会は国内の子どもたちに比して少なくなります。人間はことばで考えるわけですから、ことばの獲得が不十分だとそれは少なからず思考力にも影響をもたらします。特に幼少期にそれがうまくいかないと、後々あらゆる面に大きな影響がでることは避けられません。そういったことばの獲得は主に教育によってなされると思いますが、その教育についての父兄の悩みは当時からあったようです。

 その時、その日本人小学校の校長さんにも会ひました。(中略)その時に私が、シンガポールに居る同胞の父兄というものは、児童の教育に就いてはどんな工合でせうかなど尋ねました。ところが、校長さんの話では、どうも多くの父兄はまだまだ浮き腰であるといふ風に申しておりました。それで私はこの第二世に就いての教育のことなども、まあそれほど思って居りませんでしたが、シンガポールに行ってみて、その時あたりから、なるほど、よその国へ行って居る父兄が一番心を苦しめることは、さういふ風に外国に居て自分らの子供をいかに育てたらいいかといふことであろうか、と思ったことでございました。(一部旧字体、仮名遣いを改めた)

 私も日々お子様の教育について苦心されているご両親の姿を見ているわけですから、この藤村の文を読んで親のそれは今も昔も変わらないのだと深い感慨を覚えました。

 いかがでしょうか。

 今回は文豪の残した文章から当時のシンガポールの様子をご紹介いたしました。

 みなさんも自分の住んでいる場所と文豪たちとの関係を調べてみると、意外な発見があるかもしれませんよ。

                                   シンガポール校 MK


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