こんにちは、駿台ミシガンです。
食欲の秋です。
歴史上の有名人は、食べ物と結びついていることが多いですね。ニュートンはりんごが落ちるのを見て万有引力のヒントを得たというし、エジソンは考えごとをしていてたまごをゆでていたつもりだったのに、ゆでていたのは懐中時計だったいうエピソードがあります。そもそも、創世記のアダムとエヴァは禁断の木の実を食したことで楽園から追放され我々の始祖となったらしいので、食べ物はたんに食べるものとしてあるだけでなく、その始発からさまざまな因縁を秘めているのかもしれません。
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
エビフライ 君のしっぽと吾のしっぽ並べて出でて来し洋食屋(俵万智『サラダ記念日』)
口語の軽妙さと若さのみずみずしい思いが歌われ、一大ブームとなった歌集です。しかし、この歌群の手柄は、もっとほかのところにもあります。
平安時代に書かれた「源氏物語」には、このようなくだりがあります。
「あならうがはしや。いと不便なり。かれとり隠せ。食ひ物に目とどめたまふと、ものいひさがなき女房もこそ言ひなせ」(「横笛」)
おじいちゃんから贈られてきたたけのこを、よちよち歩きの孫の薫が手にとってはしゃぶって散らかす、それを父(実の子ではないんですが)である光源氏が、笑ってとがめるという場面です。<行儀が悪いよ。「食べ物に目をおつけになるおぼっちゃまね」、と口さがない者が言いふらしたら困るから片付けなさい>。
古来、我々は「食べる」ということを品のないことと考えていました。その、卑しいことを、たとえば文学の作品世界におけるヒーロー、ヒロインたちに敢えてさせる、という愚を、作者たちは犯さなかったのです。ですから、日本文学において、とりわけ韻文という叙情的世界において、「食」というのはほとんど顧みられることがありませんでした。
ところが、先述したように、俵万智氏の短歌中の男女は、食欲が旺盛です。明るく、気持ちよく、皿をきれいにしていきます。恋をする心の弾みとおいしいものを食べる喜びとが、呼応しあっているかのようです。
それはまた、恋を失ったときも同様で、
ハンバーガーショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう
と、生の躍動感にあふれた象徴として「食」が描かれています。
現代の私たちは、食べることもまた、生の一つとして前向きに文学の中で受容したわけです。「食べる」イコール「生」、当たり前のことなんですが、それが当たり前になるまでには、千年以上の時間が必要でした。
「食欲の秋」は「みのりの秋」でもあります。文学世界に「食」が「みのる」には長い時間がかかりました。みなさんも、いま、みのりの季節を迎えているところですね。これまで長い時間をかけて積み重ねてきたものは、必ずみなさんの血肉になっていることと思います。そしてこれからも、好き嫌いせずしっかり「食べ」て、知り、考えるチカラを育てていきましょう。
駿台ミシガン国際学院 S.T