以下は前章の続きである。
当局の発表が実はウソであり、真犯人は別にいるという説の方がずっと複雑、不可解なのである。
まして日本での「グローバル化、少子高齢化の社会がうまく把握できずわかりやすいストーリーを求めたくなる」というのならば、9.11テロの犯人はアルカーイダだというアメリカ当局の発表を素直に信じておけばベストなわけだ。
それを「複雑さがいやだから、陰謀説を信じる」というのは、「複雑さがいやだから複雑なストーリーを求める」ということになってしまう。
そこにも大野記者の主張の支離滅裂さがあるのだ。
大野記者の矛盾は、9.11テロの陰謀説の意味を日本に当てはめて「悪者をさがしたくなる。そこに陰謀論や排外思想、フェイクニュースがつけ込む」と断じる点でさらにあからさまとなる。
同テロの陰謀説はアメリカでは自国政府を悪者にするのだから、排外思想ではないからだ。
大野記者は以上のような記述にすぐ続けて、以下のように書いていた。
(でも、日本の社会は簡単につけ込まれるほどヤワだろうか。言論空間では、「反日」や「国賊」といった排他的な言葉が飛びかっている。(中略)名指ししやすいだれかを犯人扱いしてすませる陰謀論や排外思想がこね上げるストーリーよりずっとこみいった現実と、それを受け止めている人々》
この部分がこのコラムの核心であり、本音だろう。
「反日」とか「国賊」というのは明らかに最近、朝日新聞への批判で頻繁に使われている言葉だからだ。
大野記者は「朝日新聞批判」という点は具体的にはあげていないが、その意図は明白である。
朝日新聞に対する「反日」とか「国賊」という表現は、コラム記事の冒頭の同時多発テロ陰謀説に等しいと主張しているのだ。
朝日新聞批判もデタラメだと言いたい意図がにじんでいる。
だが、この陰謀説はアメリカではすでにデタラメと証明されており、日本での朝日新聞への批判とはなんの関係もないのである。
であるのに、二つをいっしょくたにする「日曜に想う」の言論はひどい歪曲、すりかえなのである。