文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

アクチーヴは、日本ではなくソ連を「わが祖国」と呼んでいたから、ソ連から見れば三友は好都合な人物であったことは間違いない

2018年04月06日 13時25分17秒 | 日記

以下は前章の続きである。

自著のタイトル『蘇武の賦』はソ連抑留11年の境涯を、前漢の武帝の時代の名臣、蘇武の運命に重ねたものである。

蘇武は使者として匈奴に派遣されたが、捕われて抑留され、穴蔵に放置されるなど虐待されたが節を曲げず、19年後に帰還した忠臣である。 

三友一男軍曹は731部隊ではなく第100部隊の所属だった。

第100部隊は正式には関東軍軍馬防疫廠といい、軍馬にかかわる防疫と鼻疽菌などの研究を目的としていた。 

三友はコムソモリスクに抑留され、シベリア「民主運動」にかかわるうちやがて積極的なアクチーヴ(活動家)となって各地にオルグに行くまでになっていた。 

アクチーヴは、日本ではなくソ連を「わが祖国」と呼んでいたから、ソ連から見れば三友は好都合な人物であったことは間違いない。 

『細菌戦の罪』によると、三友は昭和23年10月、MVDから取調べに呼び出される。

取調べの過程で三友は、100部隊での細菌の培養が鼻疽菌の研究ではなく、細菌戦のためだと供述させようとしていることに気づく。

食事などの待遇はよかったというが、アクチーヴとして親ソ的な三友は別に強要せずとも取調べに協力するのだから当たり前だろう。それでも取調官から「今まで供述した通り法廷で陳述する様再三念を押された」というから、MVDは公開法廷で供述を翻されるのを恐れていたのだ。

他の被告と証人も、同様に「法廷で自白を翻すな」と強い圧力を受けただろう。 

親ソ派の三友でもモスクワの国立政治図書出版所から(バロフスク裁判の公判記録として出版された『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ、元日本軍軍人ノ事件二関スル公判書類』1950年)について次のように批判的に述べている。 

《残念なことにこの記録は、一定の意図の下に、勝者が敗者を裁いた記録ともいうべきものであって、731部隊に関してはいざしらず、事100部隊に関する部分については誇張されていることが多く、必ずしも事実を正確に伝えているものとは言い難い》 

だからこそ自著に100部隊のありのままを書き残しておくことにしたというのだ。

勝者が敗者を裁いた、とは正鵠を得ている。

この稿続く。


三友はコムソモリスクに抑留され、シベリア「民主運動」にかかわるうちやがて積極的なアクチーヴ(活動家)となって各地にオルグに

2018年04月06日 13時24分17秒 | 日記

以下は前章の続きである。

自著のタイトル『蘇武の賦』はソ連抑留11年の境涯を、前漢の武帝の時代の名臣、蘇武の運命に重ねたものである。

蘇武は使者として匈奴に派遣されたが、捕われて抑留され、穴蔵に放置されるなど虐待されたが節を曲げず、19年後に帰還した忠臣である。 

三友一男軍曹は731部隊ではなく第100部隊の所属だった。

第100部隊は正式には関東軍軍馬防疫廠といい、軍馬にかかわる防疫と鼻疽菌などの研究を目的としていた。 

三友はコムソモリスクに抑留され、シベリア「民主運動」にかかわるうちやがて積極的なアクチーヴ(活動家)となって各地にオルグに行くまでになっていた。 

アクチーヴは、日本ではなくソ連を「わが祖国」と呼んでいたから、ソ連から見れば三友は好都合な人物であったことは間違いない。 『細菌戦の罪』によると、三友は昭和23年10月、MVDから取調べに呼び出される。

取調べの過程で三友は、100部隊での細菌の培養が鼻疽菌の研究ではなく、細菌戦のためだと供述させようとしていることに気づく。

食事などの待遇はよかったというが、アクチーヴとして親ソ的な三友は別に強要せずとも取調べに協力するのだから当たり前だろう。それでも取調官から「今まで供述した通り法廷で陳述する様再三念を押された」というから、MVDは公開法廷で供述を翻されるのを恐れていたのだ。

他の被告と証人も、同様に「法廷で自白を翻すな」と強い圧力を受けただろう。 

親ソ派の三友でもモスクワの国立政治図書出版所から(バロフスク裁判の公判記録として出版された『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ、元日本軍軍人ノ事件二関スル公判書類』1950年)について次のように批判的に述べている。 

《残念なことにこの記録は、一定の意図の下に、勝者が敗者を裁いた記録ともいうべきものであって、731部隊に関してはいざしらず、事100部隊に関する部分については誇張されていることが多く、必ずしも事実を正確に伝えているものとは言い難い》 

だからこそ自著に100部隊のありのままを書き残しておくことにしたというのだ。

勝者が敗者を裁いた、とは正鵠を得ている。

この稿続く。


そうに違いない。収容所国家ソ連、その悪名高いMVDの取調べは現在の我々には想像を絶する苛酷さなのだ

2018年04月06日 13時15分06秒 | 日記

以下は前章の続きである

川島少将の告白 親ソ派も… 

ハバロフスク裁判の被告と証人の多くが帰国後堅く口を閉ざしているなか、川島清少将と三友一男軍曹の二人が手記を残している。

それぞれ『蘇武の賦』と『細菌戦の罪-イワノボ将官収容所虜囚記』という。

前者は私家版であり、今までほとんど知られていない貴重な記録である。 

川島清少将は昭和217月、ハバロフスクの「赤の監獄」で内務省(MVD、のちのKGB)の秘密警察から関東軍防疫給水部の細菌戦準備の研究について厳しい追及を受けることになる。

MVDは「細菌戦準備が天皇の命令によるもの」であることを執拗に追及してきたが、川島はそれを固く否定して譲らなかった。 

ソ連側も川島が将官であることからさすがに手荒な真似はできなかったようだ。

「取調べも大体紳士的であり、言葉遣いも鄭重であった」が威嚇することもあり、取調べは延々と3ヵ月も続いたのである。

孤立無援のなかで川島は「己れの精神力の弱さを悲しみながらも、一日一日を必死に戦った」辛さをこう語る。 

《執拗な、繰り返し追及してくる彼らの辛辣な訊問に、私は心身共に疲れ果てていた。出口のない絶望の日々が、私を打ちのめしていた》 

川島清は取調べについては言葉少なであり、具体的な生々しいやり取りは記していない。

おそらく書くに書けなかったのだろう。

子息の川島洋が「あとがき」に書き留めていることはきわめて示唆的である。 

洋は、父の清が新聞の折り込み広告の裏に鉛筆で書いた原稿を原稿用紙に書き写す作業をしていたが、「赤の監獄」の章にきたとき思わず息を呑んだという。 

《いつもは広告の裏面に鉛筆で丁寧に書かれた父の筆跡が、この時は千々に乱れて書体をなさず、震えおののくように行間も乱れ、そこには言い難い苦悶とも呻吟とも知れぬものが、見るも無残な姿で深い翳りを落としていたのです。(中略)そのとき「監獄での監禁と訊問のとき」からすでに20数年たった今でも、そのときの不安と絶望は、父の心奥深く抉り、それが原稿の乱れとなっていたのではないでしょうか》 

そうに違いない。

収容所国家ソ連、その悪名高いMVDの取調べは現在の我々には想像を絶する苛酷さなのだ。

帰還後何10年か経ってもシベリアの悪夢にうなされるという人が少なからずいたほどである。 

この稿続く。


見るも無残な姿で深い翳りを落としていたのです。(中略)そのとき「監獄での監禁と訊問のとき」からすでに20数年たった今でも

2018年04月06日 13時13分29秒 | 日記

以下は前章の続きである

川島少将の告白 親ソ派も… 

ハバロフスク裁判の被告と証人の多くが帰国後堅く口を閉ざしているなか、川島清少将と三友一男軍曹の二人が手記を残している。

それぞれ『蘇武の賦』と『細菌戦の罪-イワノボ将官収容所虜囚記』という。

前者は私家版であり、今までほとんど知られていない貴重な記録である。 

川島清少将は昭和217月、ハバロフスクの「赤の監獄」で内務省(MVD、のちのKGB)の秘密警察から関東軍防疫給水部の細菌戦準備の研究について厳しい追及を受けることになる。

MVDは「細菌戦準備が天皇の命令によるもの」であることを執拗に追及してきたが、川島はそれを固く否定して譲らなかった。 

ソ連側も川島が将官であることからさすがに手荒な真似はできなかったようだ。

「取調べも大体紳士的であり、言葉遣いも鄭重であった」が威嚇することもあり、取調べは延々と3ヵ月も続いたのである。

孤立無援のなかで川島は「己れの精神力の弱さを悲しみながらも、一日一日を必死に戦った」辛さをこう語る。 

《執拗な、繰り返し追及してくる彼らの辛辣な訊問に、私は心身共に疲れ果てていた。出口のない絶望の日々が、私を打ちのめしていた》 

川島清は取調べについては言葉少なであり、具体的な生々しいやり取りは記していない。

おそらく書くに書けなかったのだろう。

子息の川島洋が「あとがき」に書き留めていることはきわめて示唆的である。 

洋は、父の清が新聞の折り込み広告の裏に鉛筆で書いた原稿を原稿用紙に書き写す作業をしていたが、「赤の監獄」の章にきたとき思わず息を呑んだという。 

《いつもは広告の裏面に鉛筆で丁寧に書かれた父の筆跡が、この時は千々に乱れて書体をなさず、震えおののくように行間も乱れ、そこには言い難い苦悶とも呻吟とも知れぬものが、見るも無残な姿で深い翳りを落としていたのです。(中略)そのとき「監獄での監禁と訊問のとき」からすでに20数年たった今でも、そのときの不安と絶望は、父の心奥深く抉り、それが原稿の乱れとなっていたのではないでしょうか》 

そうに違いない。

収容所国家ソ連、その悪名高いMVDの取調べは現在の我々には想像を絶する苛酷さなのだ。

帰還後何10年か経ってもシベリアの悪夢にうなされるという人が少なからずいたほどである。 

この稿続く。


「赤の監獄」の章にきたとき思わず息を呑んだという。《いつもは広告の裏面に鉛筆で丁寧に書かれた父の筆跡が

2018年04月06日 13時12分09秒 | 日記

以下は前章の続きである

川島少将の告白 親ソ派も… 

ハバロフスク裁判の被告と証人の多くが帰国後堅く口を閉ざしているなか、川島清少将と三友一男軍曹の二人が手記を残している。

それぞれ『蘇武の賦』と『細菌戦の罪-イワノボ将官収容所虜囚記』という。

前者は私家版であり、今までほとんど知られていない貴重な記録である。 

川島清少将は昭和217月、ハバロフスクの「赤の監獄」で内務省(MVD、のちのKGB)の秘密警察から関東軍防疫給水部の細菌戦準備の研究について厳しい追及を受けることになる。

MVDは「細菌戦準備が天皇の命令によるもの」であることを執拗に追及してきたが、川島はそれを固く否定して譲らなかった。 

ソ連側も川島が将官であることからさすがに手荒な真似はできなかったようだ。

「取調べも大体紳士的であり、言葉遣いも鄭重であった」が威嚇することもあり、取調べは延々と3ヵ月も続いたのである。

孤立無援のなかで川島は「己れの精神力の弱さを悲しみながらも、一日一日を必死に戦った」辛さをこう語る。 

《執拗な、繰り返し追及してくる彼らの辛辣な訊問に、私は心身共に疲れ果てていた。出口のない絶望の日々が、私を打ちのめしていた》 

川島清は取調べについては言葉少なであり、具体的な生々しいやり取りは記していない。

おそらく書くに書けなかったのだろう。

子息の川島洋が「あとがき」に書き留めていることはきわめて示唆的である。 

洋は、父の清が新聞の折り込み広告の裏に鉛筆で書いた原稿を原稿用紙に書き写す作業をしていたが、「赤の監獄」の章にきたとき思わず息を呑んだという。 

《いつもは広告の裏面に鉛筆で丁寧に書かれた父の筆跡が、この時は千々に乱れて書体をなさず、震えおののくように行間も乱れ、そこには言い難い苦悶とも呻吟とも知れぬものが、見るも無残な姿で深い翳りを落としていたのです。(中略)そのとき「監獄での監禁と訊問のとき」からすでに20数年たった今でも、そのときの不安と絶望は、父の心奥深く抉り、それが原稿の乱れとなっていたのではないでしょうか》 

そうに違いない。

収容所国家ソ連、その悪名高いMVDの取調べは現在の我々には想像を絶する苛酷さなのだ。

帰還後何10年か経ってもシベリアの悪夢にうなされるという人が少なからずいたほどである。 

この稿続く。


おそらく書くに書けなかったのだろう。子息の川島洋が「あとがき」に書き留めていることはきわめて示唆的である。 

2018年04月06日 13時11分01秒 | 日記

以下は前章の続きである

川島少将の告白 親ソ派も… 

ハバロフスク裁判の被告と証人の多くが帰国後堅く口を閉ざしているなか、川島清少将と三友一男軍曹の二人が手記を残している。

それぞれ『蘇武の賦』と『細菌戦の罪-イワノボ将官収容所虜囚記』という。

前者は私家版であり、今までほとんど知られていない貴重な記録である。 

川島清少将は昭和217月、ハバロフスクの「赤の監獄」で内務省(MVD、のちのKGB)の秘密警察から関東軍防疫給水部の細菌戦準備の研究について厳しい追及を受けることになる。

MVDは「細菌戦準備が天皇の命令によるもの」であることを執拗に追及してきたが、川島はそれを固く否定して譲らなかった。 

ソ連側も川島が将官であることからさすがに手荒な真似はできなかったようだ。

「取調べも大体紳士的であり、言葉遣いも鄭重であった」が威嚇することもあり、取調べは延々と3ヵ月も続いたのである。

孤立無援のなかで川島は「己れの精神力の弱さを悲しみながらも、一日一日を必死に戦った」辛さをこう語る。 

《執拗な、繰り返し追及してくる彼らの辛辣な訊問に、私は心身共に疲れ果てていた。出口のない絶望の日々が、私を打ちのめしていた》 

川島清は取調べについては言葉少なであり、具体的な生々しいやり取りは記していない。

おそらく書くに書けなかったのだろう。

子息の川島洋が「あとがき」に書き留めていることはきわめて示唆的である。 

洋は、父の清が新聞の折り込み広告の裏に鉛筆で書いた原稿を原稿用紙に書き写す作業をしていたが、「赤の監獄」の章にきたとき思わず息を呑んだという。 

《いつもは広告の裏面に鉛筆で丁寧に書かれた父の筆跡が、この時は千々に乱れて書体をなさず、震えおののくように行間も乱れ、そこには言い難い苦悶とも呻吟とも知れぬものが、見るも無残な姿で深い翳りを落としていたのです。(中略)そのとき「監獄での監禁と訊問のとき」からすでに20数年たった今でも、そのときの不安と絶望は、父の心奥深く抉り、それが原稿の乱れとなっていたのではないでしょうか》 

そうに違いない。

収容所国家ソ連、その悪名高いMVDの取調べは現在の我々には想像を絶する苛酷さなのだ。

帰還後何10年か経ってもシベリアの悪夢にうなされるという人が少なからずいたほどである。 

この稿続く。


執拗な、繰り返し追及してくる彼らの辛辣な訊問に、私は心身共に疲れ果てていた。出口のない絶望の日々が、私を打ちのめし

2018年04月06日 13時09分48秒 | 日記

以下は前章の続きである

川島少将の告白 親ソ派も… 

ハバロフスク裁判の被告と証人の多くが帰国後堅く口を閉ざしているなか、川島清少将と三友一男軍曹の二人が手記を残している。

それぞれ『蘇武の賦』と『細菌戦の罪-イワノボ将官収容所虜囚記』という。

前者は私家版であり、今までほとんど知られていない貴重な記録である。 

川島清少将は昭和217月、ハバロフスクの「赤の監獄」で内務省(MVD、のちのKGB)の秘密警察から関東軍防疫給水部の細菌戦準備の研究について厳しい追及を受けることになる。

MVDは「細菌戦準備が天皇の命令によるもの」であることを執拗に追及してきたが、川島はそれを固く否定して譲らなかった。 

ソ連側も川島が将官であることからさすがに手荒な真似はできなかったようだ。

「取調べも大体紳士的であり、言葉遣いも鄭重であった」が威嚇することもあり、取調べは延々と3ヵ月も続いたのである。

孤立無援のなかで川島は「己れの精神力の弱さを悲しみながらも、一日一日を必死に戦った」辛さをこう語る。 

《執拗な、繰り返し追及してくる彼らの辛辣な訊問に、私は心身共に疲れ果てていた。出口のない絶望の日々が、私を打ちのめしていた》 

川島清は取調べについては言葉少なであり、具体的な生々しいやり取りは記していない。

おそらく書くに書けなかったのだろう。

子息の川島洋が「あとがき」に書き留めていることはきわめて示唆的である。 

洋は、父の清が新聞の折り込み広告の裏に鉛筆で書いた原稿を原稿用紙に書き写す作業をしていたが、「赤の監獄」の章にきたとき思わず息を呑んだという。 

《いつもは広告の裏面に鉛筆で丁寧に書かれた父の筆跡が、この時は千々に乱れて書体をなさず、震えおののくように行間も乱れ、そこには言い難い苦悶とも呻吟とも知れぬものが、見るも無残な姿で深い翳りを落としていたのです。(中略)そのとき「監獄での監禁と訊問のとき」からすでに20数年たった今でも、そのときの不安と絶望は、父の心奥深く抉り、それが原稿の乱れとなっていたのではないでしょうか》 

そうに違いない。

収容所国家ソ連、その悪名高いMVDの取調べは現在の我々には想像を絶する苛酷さなのだ。

帰還後何10年か経ってもシベリアの悪夢にうなされるという人が少なからずいたほどである。 

この稿続く。


「取調べも大体紳士的であり、言葉遣いも鄭重であった」が威嚇することもあり、取調べは延々と3ヵ月も続いたのである

2018年04月06日 13時08分46秒 | 日記

以下は前章の続きである

川島少将の告白 親ソ派も… 

ハバロフスク裁判の被告と証人の多くが帰国後堅く口を閉ざしているなか、川島清少将と三友一男軍曹の二人が手記を残している。

それぞれ『蘇武の賦』と『細菌戦の罪-イワノボ将官収容所虜囚記』という。

前者は私家版であり、今までほとんど知られていない貴重な記録である。 

川島清少将は昭和217月、ハバロフスクの「赤の監獄」で内務省(MVD、のちのKGB)の秘密警察から関東軍防疫給水部の細菌戦準備の研究について厳しい追及を受けることになる。

MVDは「細菌戦準備が天皇の命令によるもの」であることを執拗に追及してきたが、川島はそれを固く否定して譲らなかった。 

ソ連側も川島が将官であることからさすがに手荒な真似はできなかったようだ。

「取調べも大体紳士的であり、言葉遣いも鄭重であった」が威嚇することもあり、取調べは延々と3ヵ月も続いたのである。

孤立無援のなかで川島は「己れの精神力の弱さを悲しみながらも、一日一日を必死に戦った」辛さをこう語る。 

《執拗な、繰り返し追及してくる彼らの辛辣な訊問に、私は心身共に疲れ果てていた。出口のない絶望の日々が、私を打ちのめしていた》 

川島清は取調べについては言葉少なであり、具体的な生々しいやり取りは記していない。

おそらく書くに書けなかったのだろう。

子息の川島洋が「あとがき」に書き留めていることはきわめて示唆的である。 

洋は、父の清が新聞の折り込み広告の裏に鉛筆で書いた原稿を原稿用紙に書き写す作業をしていたが、「赤の監獄」の章にきたとき思わず息を呑んだという。 

《いつもは広告の裏面に鉛筆で丁寧に書かれた父の筆跡が、この時は千々に乱れて書体をなさず、震えおののくように行間も乱れ、そこには言い難い苦悶とも呻吟とも知れぬものが、見るも無残な姿で深い翳りを落としていたのです。(中略)そのとき「監獄での監禁と訊問のとき」からすでに20数年たった今でも、そのときの不安と絶望は、父の心奥深く抉り、それが原稿の乱れとなっていたのではないでしょうか》 

そうに違いない。

収容所国家ソ連、その悪名高いMVDの取調べは現在の我々には想像を絶する苛酷さなのだ。

帰還後何10年か経ってもシベリアの悪夢にうなされるという人が少なからずいたほどである。 

この稿続く。


MVD、のちのKGB)の秘密警察から関東軍防疫給水部の細菌戦準備の研究について厳しい追及を受けることになる

2018年04月06日 13時07分35秒 | 日記

以下は前章の続きである

川島少将の告白 親ソ派も… 

ハバロフスク裁判の被告と証人の多くが帰国後堅く口を閉ざしているなか、川島清少将と三友一男軍曹の二人が手記を残している。

それぞれ『蘇武の賦』と『細菌戦の罪-イワノボ将官収容所虜囚記』という。

前者は私家版であり、今までほとんど知られていない貴重な記録である。 

川島清少将は昭和217月、ハバロフスクの「赤の監獄」で内務省(MVD、のちのKGB)の秘密警察から関東軍防疫給水部の細菌戦準備の研究について厳しい追及を受けることになる。

MVDは「細菌戦準備が天皇の命令によるもの」であることを執拗に追及してきたが、川島はそれを固く否定して譲らなかった。 

ソ連側も川島が将官であることからさすがに手荒な真似はできなかったようだ。

「取調べも大体紳士的であり、言葉遣いも鄭重であった」が威嚇することもあり、取調べは延々と3ヵ月も続いたのである。

孤立無援のなかで川島は「己れの精神力の弱さを悲しみながらも、一日一日を必死に戦った」辛さをこう語る。 

《執拗な、繰り返し追及してくる彼らの辛辣な訊問に、私は心身共に疲れ果てていた。出口のない絶望の日々が、私を打ちのめしていた》 

川島清は取調べについては言葉少なであり、具体的な生々しいやり取りは記していない。

おそらく書くに書けなかったのだろう。

子息の川島洋が「あとがき」に書き留めていることはきわめて示唆的である。 

洋は、父の清が新聞の折り込み広告の裏に鉛筆で書いた原稿を原稿用紙に書き写す作業をしていたが、「赤の監獄」の章にきたとき思わず息を呑んだという。 

《いつもは広告の裏面に鉛筆で丁寧に書かれた父の筆跡が、この時は千々に乱れて書体をなさず、震えおののくように行間も乱れ、そこには言い難い苦悶とも呻吟とも知れぬものが、見るも無残な姿で深い翳りを落としていたのです。(中略)そのとき「監獄での監禁と訊問のとき」からすでに20数年たった今でも、そのときの不安と絶望は、父の心奥深く抉り、それが原稿の乱れとなっていたのではないでしょうか》 

そうに違いない。

収容所国家ソ連、その悪名高いMVDの取調べは現在の我々には想像を絶する苛酷さなのだ。

帰還後何10年か経ってもシベリアの悪夢にうなされるという人が少なからずいたほどである。 

この稿続く。


前者は私家版であり、今までほとんど知られていない貴重な記録である。

2018年04月06日 13時06分13秒 | 日記

以下は前章の続きである

川島少将の告白 親ソ派も… 

ハバロフスク裁判の被告と証人の多くが帰国後堅く口を閉ざしているなか、川島清少将と三友一男軍曹の二人が手記を残している。

それぞれ『蘇武の賦』と『細菌戦の罪-イワノボ将官収容所虜囚記』という。

前者は私家版であり、今までほとんど知られていない貴重な記録である。 

川島清少将は昭和217月、ハバロフスクの「赤の監獄」で内務省(MVD、のちのKGB)の秘密警察から関東軍防疫給水部の細菌戦準備の研究について厳しい追及を受けることになる。

MVDは「細菌戦準備が天皇の命令によるもの」であることを執拗に追及してきたが、川島はそれを固く否定して譲らなかった。 

ソ連側も川島が将官であることからさすがに手荒な真似はできなかったようだ。

「取調べも大体紳士的であり、言葉遣いも鄭重であった」が威嚇することもあり、取調べは延々と3ヵ月も続いたのである。

孤立無援のなかで川島は「己れの精神力の弱さを悲しみながらも、一日一日を必死に戦った」辛さをこう語る。 

《執拗な、繰り返し追及してくる彼らの辛辣な訊問に、私は心身共に疲れ果てていた。出口のない絶望の日々が、私を打ちのめしていた》 川島清は取調べについては言葉少なであり、具体的な生々しいやり取りは記していない。

おそらく書くに書けなかったのだろう。

子息の川島洋が「あとがき」に書き留めていることはきわめて示唆的である。 

洋は、父の清が新聞の折り込み広告の裏に鉛筆で書いた原稿を原稿用紙に書き写す作業をしていたが、「赤の監獄」の章にきたとき思わず息を呑んだという。 

《いつもは広告の裏面に鉛筆で丁寧に書かれた父の筆跡が、この時は千々に乱れて書体をなさず、震えおののくように行間も乱れ、そこには言い難い苦悶とも呻吟とも知れぬものが、見るも無残な姿で深い翳りを落としていたのです。(中略)そのとき「監獄での監禁と訊問のとき」からすでに20数年たった今でも、そのときの不安と絶望は、父の心奥深く抉り、それが原稿の乱れとなっていたのではないでしょうか》 

そうに違いない。

収容所国家ソ連、その悪名高いMVDの取調べは現在の我々には想像を絶する苛酷さなのだ。

帰還後何10年か経ってもシベリアの悪夢にうなされるという人が少なからずいたほどである。 

この稿続く。


ハバロフスク裁判の被告と証人の多くが帰国後堅く口を閉ざしているなか、川島清少将と三友一男軍曹の二人が手記を残して

2018年04月06日 13時05分20秒 | 日記

以下は前章の続きである

川島少将の告白 親ソ派も… 

ハバロフスク裁判の被告と証人の多くが帰国後堅く口を閉ざしているなか、川島清少将と三友一男軍曹の二人が手記を残している。

それぞれ『蘇武の賦』と『細菌戦の罪-イワノボ将官収容所虜囚記』という。

前者は私家版であり、今までほとんど知られていない貴重な記録である。 

川島清少将は昭和217月、ハバロフスクの「赤の監獄」で内務省(MVD、のちのKGB)の秘密警察から関東軍防疫給水部の細菌戦準備の研究について厳しい追及を受けることになる。

MVDは「細菌戦準備が天皇の命令によるもの」であることを執拗に追及してきたが、川島はそれを固く否定して譲らなかった。 

ソ連側も川島が将官であることからさすがに手荒な真似はできなかったようだ。

「取調べも大体紳士的であり、言葉遣いも鄭重であった」が威嚇することもあり、取調べは延々と3ヵ月も続いたのである。

孤立無援のなかで川島は「己れの精神力の弱さを悲しみながらも、一日一日を必死に戦った」辛さをこう語る。 

《執拗な、繰り返し追及してくる彼らの辛辣な訊問に、私は心身共に疲れ果てていた。出口のない絶望の日々が、私を打ちのめしていた》 川島清は取調べについては言葉少なであり、具体的な生々しいやり取りは記していない。

おそらく書くに書けなかったのだろう。

子息の川島洋が「あとがき」に書き留めていることはきわめて示唆的である。 

洋は、父の清が新聞の折り込み広告の裏に鉛筆で書いた原稿を原稿用紙に書き写す作業をしていたが、「赤の監獄」の章にきたとき思わず息を呑んだという。 

《いつもは広告の裏面に鉛筆で丁寧に書かれた父の筆跡が、この時は千々に乱れて書体をなさず、震えおののくように行間も乱れ、そこには言い難い苦悶とも呻吟とも知れぬものが、見るも無残な姿で深い翳りを落としていたのです。(中略)そのとき「監獄での監禁と訊問のとき」からすでに20数年たった今でも、そのときの不安と絶望は、父の心奥深く抉り、それが原稿の乱れとなっていたのではないでしょうか》 

そうに違いない。

収容所国家ソ連、その悪名高いMVDの取調べは現在の我々には想像を絶する苛酷さなのだ。

帰還後何10年か経ってもシベリアの悪夢にうなされるという人が少なからずいたほどである。 

この稿続く。


このとき多くの日本人も抑留当初の第一次「戦犯」に次ぐ第二次「戦犯」として不当に裁かれ、米ソ冷戦の人質とされた

2018年04月06日 12時01分14秒 | 日記

以下は前章の続きである

大テロルの再来 

ハバロフスク裁判が行われた時期は、ソ連国内において大テロル(大粛清)で弾圧され10年の刑期を終えた元囚人が大規模に再逮捕された時期(1948年~49年)と重なる。

大テロルの再来である。

これは国際情勢の変化、つまり冷戦という新たな戦争が激化したことに伴う国内の引き締めと見られている。

このとき多くの日本人も抑留当初の第一次「戦犯」に次ぐ第二次「戦犯」として不当に裁かれ、米ソ冷戦の人質とされた(日ソ国交回復交渉の人質)。

ソ連の収容所(グラーク)は1950年代初頭に最大規模に達したのである。

この稿続く。


ハバロフスク裁判が行われた時期は、ソ連国内において大テロル(大粛清)で弾圧され10年の刑期を終えた元囚人が大規模に

2018年04月06日 12時00分22秒 | 日記

以下は前章の続きである

大テロルの再来 

ハバロフスク裁判が行われた時期は、ソ連国内において大テロル(大粛清)で弾圧され10年の刑期を終えた元囚人が大規模に再逮捕された時期(1948年~49年)と重なる。

大テロルの再来である。

これは国際情勢の変化、つまり冷戦という新たな戦争が激化したことに伴う国内の引き締めと見られている。

このとき多くの日本人も抑留当初の第一次「戦犯」に次ぐ第二次「戦犯」として不当に裁かれ、米ソ冷戦の人質とされた(日ソ国交回復交渉の人質)。

ソ連の収容所(グラーク)は1950年代初頭に最大規模に達したのである。

この稿続く。


NHKの番組制作局の中枢に私が比喩するところのスメルジャコフたちがうじゃうじゃいることに疑問の余地はないだろう。

2018年04月06日 11時56分45秒 | 日記

以下は前章の続きである

東京裁判での狙いが外れ? 

ソ連は拘束した関東軍の高級将校に東京裁判で「日本のソ連侵略計画」を証言させようとした。

77人の候補者リストから最終的に選ばれたのは関東軍参謀瀬島龍三中佐、関東軍参謀副長松村知勝少将、関東軍大陸鉄道隊長草葉辰巳中将の三人である。

草葉中将が証言する直前に服毒自殺するという痛ましい出来事があり、瀬島と松村の二人が昭和2110月に証言した。

だが、日本が「対ソ攻勢作戦計画」を有し、その準備をしたこと(関特演など)を侵略を実行したことと同罪と見なすというソ連の主張は容れられなかった。 

さらにソ連は第二陣として昭和22年秋、第3軍司令官村上啓作中将、満洲国総務長官武部六蔵、関東軍暗号課長松浦九州男の3人を東京裁判に引き出し日本の「侵略政策」を証言させようとした。

そのとき、細菌戦のため人体実験を行ったとする731部隊についても証言させようとも企図したが、これは不首尾に終わった。

米国が日本に引き揚げていた石井四郎中将ら731部隊関係者の戦犯免責を決めていたのでソ連の要求に応じなかったからである。 

ソ連側がこのとき証人として用意していたのが川島清少将と柄沢十三夫少佐だったようだ。

川島は昭和163月から昭和183月まで2年間、731部隊の第4部(細菌製造)部長を務めた。

柄沢は川島の配下で製造課長だった。

ともに細菌戦研究の実情をよく知る立場にあった。 

川島清の手記『蘇武の賦』によると、昭和226月、ハバロフスクからモスクワ近郊のクラスノゴルスク第27収容所へ空路移送されたという。

細菌戦関係者の12名と前記の村上啓作、武部六蔵、松浦九州男が一緒だった。

1ヵ月あまりしてから後者の三人だけが東京へ送られた。

結局、東京裁判に川島や柄沢を出廷させる企図が挫折したから、ソ連は新たに自前でハバロフスク裁判を企図したのに違いない。

この稿続く。

*こんなものを正しいとして大々的に或いは喜々として特集番組を作り日本及び日本国民を攻撃し続けるNHKの番組制作局の中枢に私が比喩するところのスメルジャコフたちがうじゃうじゃいることに疑問の余地はないだろう。このNHKの内部に居るスメルジャコフたちほど見下げ果てた連中もそうはいない。*


結局、東京裁判に川島や柄沢を出廷させる企図が挫折したから、ソ連は新たに自前でハバロフスク裁判を企図したのに違いない

2018年04月06日 11時55分21秒 | 日記

以下は前章の続きである

東京裁判での狙いが外れ? 

ソ連は拘束した関東軍の高級将校に東京裁判で「日本のソ連侵略計画」を証言させようとした。

77人の候補者リストから最終的に選ばれたのは関東軍参謀瀬島龍三中佐、関東軍参謀副長松村知勝少将、関東軍大陸鉄道隊長草葉辰巳中将の三人である。

草葉中将が証言する直前に服毒自殺するという痛ましい出来事があり、瀬島と松村の二人が昭和2110月に証言した。

だが、日本が「対ソ攻勢作戦計画」を有し、その準備をしたこと(関特演など)を侵略を実行したことと同罪と見なすというソ連の主張は容れられなかった。 

さらにソ連は第二陣として昭和22年秋、第3軍司令官村上啓作中将、満洲国総務長官武部六蔵、関東軍暗号課長松浦九州男の3人を東京裁判に引き出し日本の「侵略政策」を証言させようとした。

そのとき、細菌戦のため人体実験を行ったとする731部隊についても証言させようとも企図したが、これは不首尾に終わった。

米国が日本に引き揚げていた石井四郎中将ら731部隊関係者の戦犯免責を決めていたのでソ連の要求に応じなかったからである。 

ソ連側がこのとき証人として用意していたのが川島清少将と柄沢十三夫少佐だったようだ。

川島は昭和163月から昭和183月まで2年間、731部隊の第4部(細菌製造)部長を務めた。

柄沢は川島の配下で製造課長だった。

ともに細菌戦研究の実情をよく知る立場にあった。 

川島清の手記『蘇武の賦』によると、昭和226月、ハバロフスクからモスクワ近郊のクラスノゴルスク第27収容所へ空路移送されたという。

細菌戦関係者の12名と前記の村上啓作、武部六蔵、松浦九州男が一緒だった。

1ヵ月あまりしてから後者の三人だけが東京へ送られた。

結局、東京裁判に川島や柄沢を出廷させる企図が挫折したから、ソ連は新たに自前でハバロフスク裁判を企図したのに違いない。

この稿続く。

*こんなものを正しいとして大々的に或いは喜々として特集番組を作り日本及び日本国民を攻撃し続けるNHKの番組制作局の中枢に私が比喩するところのスメルジャコフたちがうじゃうじゃいることに疑問の余地はないだろう。このNHKの内部に居るスメルジャコフたちほど見下げ果てた連中もそうはいない。*