すずりんの日記

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小説「ある男の物語」(終)

2005年12月03日 | 小説「ある男の物語」
 私は、待合室の長椅子で、抱えていた頭を上げ、主治医を探しに行った。主治医は、夕方までの外来の診察を終えた直後に、和子の病室に居合わせた看護士から、和子が再び昏睡状態になったことを聞き、私を探していたらしい。私が病室に戻ると、今人工呼吸器を付けたところです、と言った。そして、奥さんが何か言葉を発したことを聞きました、何と言ったんです?と、私と一緒に病室を出た。
 私は、和子が「死んだ方がマシ」と言った事を話し、少し間を置いて、人工呼吸器を止めてくれるように頼んだ。主治医は、和子のその言葉を、和子が私の苦労を想って死にたがっている言葉だと信じ、わかりました、残念ですが、奥さんの精神的な苦痛を第一に取り除いてあげましょう、とつぶやいた。そして、それは数日後、実行された。

 こうして和子は、5年と41日の入院生活と、59年と5ヶ月余の人生を、―――あっけなく、あまりにもあっけなく―――終えた。


 城山さん、あんたは和子の死後、マスコミの報道競争によって勃発した尊厳死論争で私に群がってきた人たちの中で、唯一私の味方に立っていてくれた。あんたから、和子の死ぬ権利を堂々と主張していきたいのだと熱っぽく語られた時、私は嬉しかった。本当に、とっても嬉しかった。しかし、私が今までのことを語る時が、この遺書以外にあったとしたら、たぶん、あの出会いの時しか無かったかもしれない。和子の死は、和子自身が望んだ死ではなく、私が一時の感情で手を下した殺人だったと。和子の人権を擁護し、世間に問題を提起したかったのではない。私はあの一瞬のちっぽけな怒りで、和子の生きる権利を断ち切った極悪人なのだ、と。
 あんたは、息子たちの死んだ事故の関係者や、私と和子が入院していた病院の医師等から熱心に取材を行い、私は、私を当時のマスコミ報道競争の被害者であると信じて、その正当性を語るあんたの熱意に、真実を語ることができなかった。


 城山さん、私はこれから死のうと思う。同じ死ぬなら、せめて和子との思い出の地で、と思っている。
 和子の死から今日まで思い出すのは、不思議と、彼女の笑顔ばかりだった。彼女の笑顔は、一度たりとも、私を責め立てたり、落ち込ませたり、怒らせたり、不快にさせたりしなかった。死んでからの和子は、私を惹きつけて放さず、彼女はこの10年で、私の中でとても魅力的になっていった。・・・だからこそ、10年経った今、和子の居る所に、―――愛する人の居る場所に―――往こうと思ったのだ。

 ただ最後に、あんたにだけは真実を残して逝かなければならないと思っていた。

 城山さん、和子が死んでからの10年間、私の一番近いところにいつも居てくれたあんたを騙し続けていた、せめてものお詫びだ。
 
 この遺書の処分は、あんたに任せるよ。


 城山さん、本当に、すまなかった。世話になった。ありがとう。


                      水谷 秀男





3、老人の遺書Ⅱ
 
城山は、水谷老人の遺書を、もう一度だけ、噛み締めるように読み、そして、その文面のまま、城山の受け持つページに連載した。「ある老人の遺書」という表題の下には、水谷秀男の名前が、あの封筒の本人の筆跡のまま載せられていた。


 そして、城山は、その論争から姿を消した。



(終わり)

コメント (2)
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