先日、ある人と話していて、こんな話になりました。
「例えば、ある人が車の免許を取ったとする。
免許を取るのは、ある程度万人ができる。
で、その人が、事故ったとする。
一度の事故くらいは、ある程度の人に可能性があるだろう。
でもそれ(事故)が、2回、3回となると、
その人は、車の運転の適性が無いと私は思うし、
私はその人に車の運転を止めるように言うだろうな。」
その人は、私が事故ったことがあることを
単純に皮肉って言ったんじゃなく
失敗も、数回ならある意味、見込みがあるのは認めるけど、
失敗が10回、20回なら、それは「向いてない」と判断する、
ということを言いたかったんですよね。
でも、その人が向いてる向いてない、の
「その線引き」って、どこなんでしょうね。
もっと言えば、その判断は、本人がすべきじゃないですかね。
例えば、20回失敗しても、21回目で成功するかもしれない。
それを、20回目で諦めてしまうか、
21回目の成功の可能性に挑戦するか、は本人次第。
そしてもっと言えば、その「失敗」の内容にもよりますよね。
その「失敗」が本当にそれだけしか意味を持たない「失敗」か、
後の成功のきっかけとなるものかは本人しかわからないし、
周囲の人間は、助言はできても、決断は本人しかできません。
周囲の人間が、それを「向いてないと判断する」ことは勝手ですけど、
それが、何の意味があるのか、と聞きたいです。
・・・と、久々に熱くなってしまいました
「例えば、ある人が車の免許を取ったとする。
免許を取るのは、ある程度万人ができる。
で、その人が、事故ったとする。
一度の事故くらいは、ある程度の人に可能性があるだろう。
でもそれ(事故)が、2回、3回となると、
その人は、車の運転の適性が無いと私は思うし、
私はその人に車の運転を止めるように言うだろうな。」
その人は、私が事故ったことがあることを
単純に皮肉って言ったんじゃなく

失敗も、数回ならある意味、見込みがあるのは認めるけど、
失敗が10回、20回なら、それは「向いてない」と判断する、
ということを言いたかったんですよね。
でも、その人が向いてる向いてない、の
「その線引き」って、どこなんでしょうね。
もっと言えば、その判断は、本人がすべきじゃないですかね。
例えば、20回失敗しても、21回目で成功するかもしれない。
それを、20回目で諦めてしまうか、
21回目の成功の可能性に挑戦するか、は本人次第。
そしてもっと言えば、その「失敗」の内容にもよりますよね。
その「失敗」が本当にそれだけしか意味を持たない「失敗」か、
後の成功のきっかけとなるものかは本人しかわからないし、
周囲の人間は、助言はできても、決断は本人しかできません。
周囲の人間が、それを「向いてないと判断する」ことは勝手ですけど、
それが、何の意味があるのか、と聞きたいです。
・・・と、久々に熱くなってしまいました
