すずりんの日記

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小説「雪の降る光景」第4章1

2008年09月13日 | 小説「雪の降る光景」
 私は、痛みに悲鳴をあげ続けている体をゆっくりと折り曲げ、その、冷たいコンクリートの床に腰を下ろした。このような所に来なくても、私は遅かれ早かれ、癌に蝕まれた体が死の淵にたたずむ時を迎えていただろう。しかし私の魂は、この場所で葬られなければならないことを知り、激痛と拒食で麻痺した体をこの場所まで連れて来たのだ。
 窓一つ無い真っ暗な空間を見上げて、外には大きな満月が光り輝いていたことを思い出した。私がやって来た死のシャワー室からは、見えるはずのない月が、笑っているように見えた。微笑んでいるのではない。嘲っているのだ。私はその月から目を放すことができなかった。顔を背けてまた目をやった時、そこに、変わらない満月があるのが恐かった。瞬きをした次の瞬間、変わらずに瞬きをしないでじっと私を見つめている満月を見るのが恐かった。怯えているのではなかった。魅せられていた。
 規則正しく並んでいるシャワー口は、私以外の誰かの方を向いていた。あの月が、ここで死んでいった者たちの視線であったとしても、決して私は驚きはしないだろう。ここで死んでいった何百万ものユダヤ人の眼が、私が死んでいくのを瞬きもせずに固唾を呑んで見つめていた。人肉の朽ちた臭いとも、大量の血が四方の壁から染み出してくる臭いとも、毒ガスが空間に微かに漂っている臭いともつかない、カビ臭いじめじめした臭いが、私を窒息させようとしていた。
 2日前、ボルマンは病室に来て、エバを伴って私に会うという私の提案を総統が承諾したと報告した。
「ただし、多忙のため、君に会う時間が取れるのは3日後になりそうだ。」
その予定は明日だった。彼はそれだけ伝えると、茶目っ気を残して足早に帰って行った。癌に侵され続けていてもなお、抗癌剤等の薬剤を受け付けず、痛みも訴えず、正常な経過を示さない私の体に、彼は未来の医学を託すべきサンプルとしての魅力を必要としなくなったらしい。あの日以来、ボルマンは私を探るような目で見ることは無くなった。と同時に、私に対しての罪悪感も姿を消してしまった。彼は今までと何ら変わることなく、あの無邪気な笑顔で、これからも、アドルフ・ヒトラーを崇拝し、民衆を狂気へと陥れていくのだ。
 あの時ボルマンは気がついたであろうか。私の眼球が微かに光を失いつつあったことを。私の胃袋が徐々に自らその内壁をただれさせていたことを。私の全身が間もなく、風化してしまうであろうことを。


(つづく)
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