【師走 2009・東京】のトップは「泉岳寺」です。
講談風に申せば、
「時は元禄14年12月15日、辰の上刻。2,3日降りつづきたる大雪は、夜前より晴れわたりて、今日は一天四方雲もなき上天気。見事、吉良上野介を討ち取った一行が、めざすは芝高輪泉岳寺!!」の名調子になりましょう。
現在では都営地下鉄「浅草線」泉岳寺駅から西へ歩くこと2分。
曹洞宗江戸三ヵ寺のひとつである「泉岳寺」があります。
つまり、ここが元禄の世を揺るがした赤穂四十七士の眠る兆域。
いまも線香の煙が絶えることがないという。
● 山 門 ●
画像↑山門の二階部分には十六羅漢が安置されています。
「泉岳寺」の額は、晋唐の墨跡研究者であった大野約庵による書だそうです。
● 本 堂 ●
かつての本堂は空襲にあい焼失、現本堂は昭和28年12月14日に落成した鎌倉様式の建築です。
本堂の正面に掲げられている「獅子吼」の額は「ししく」と読むそうで、お釈迦様の説法のことを指すらしいです。
● 四十七士墓所案内図 ●
時は元禄16年2月4日。赤穂義士が切腹したあと、直ちにこの地に埋葬されました。
この案内図をよく見ると墓碑は48基ありますよね。
アレッ!!一人多いのではと思われませんか?
そのことは、のちにお話致しましょう。
● 浅野家の墓所 ●
あまり上演されたことがありませんが、真山青果に『泉岳寺』というお芝居があります。
その中で「三代将軍家光の頃、その命によりて赤穂浅野家の香花院となり、同家累代の兆域がその境内にある」
とト書きに記されています。
● 浅野内匠頭 瑤泉院の墓所 ●
瑤泉院があまりにも美人なので、吉良上野介が横恋慕したのが刃傷の原因だという説もあるようです。
● 大石内蔵助墓所 ●
「昼行灯!!」とか「大石でのうて小石じゃ!!」ともいわれましたが・・・
没46歳とはまだお若い。働きざかりですよね。
「指導力発揮せず」、「肝心なことは先送り」。
どこかの国の首相とはチガイマス。
● 大石主税墓所 ●
歌舞伎のお役でいえば、主税は音羽屋の尾上松也くんに演らせればムチャうまい。
没16歳とは、石川遼クンとほぼ同じ年齢ですよね。
● 四十七士の墓所 ●
四十七士のほかに、本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対にあい討ち入り前に切腹したのが萱野三平です。
画像で萱野三平の墓があるのは、供養墓として建てられたものです。
ですから、赤穂義士四十七士なのに、墓碑が48あるのです。
もうひとり、それは寺坂右衛門です。
寺坂は本懐成就後、瑤泉院など関係者に討ち入りを報告して廻り、83歳の天寿を全うしました。寺坂の墓は、萱野と同じく供養碑にすぎません。
いずれ寺坂については、明治座公演『最後の忠臣蔵』の主人公であり、【師走 2009・東京】の最終章で詳しくお話したいと思います。
● 線香屋のおやじに睨まれました ●
線香一束 100円。
参拝客のほとんどが買い求めていました。
買わないのはワタクシだけ。
線香も買わずに写真だけ撮るので、線香屋の親父さんがワタクシを睨みつけました。
● 大石内蔵助銅像 陣太鼓 ●
この銅像は浪曲の桃井軒雲右衛門の発願により鑄造されたものです。
内蔵助が当時の元禄陣羽織を身につけ、連判状を手にして江戸の空をじっとにらんでいる姿を表しています。
「山鹿せんべい」など売っている参道のみやげもの屋さん。
陣太鼓の看板がおもしろい。
「あれは、まさしく山鹿流の陣太鼓!!」
歌舞伎の『松浦の太鼓』での松浦候の名場面があります。
このほか、吉良上野介の首級を洗ったという「首洗い井戸」。
浅野内匠頭が田村邸の庭先で切腹した際に、その血が飛び散ったという「血染の梅」「血染の石」がありますが、古典落語の「火焔太鼓」ではありませんが、なんだか嘘っぽいので割愛させていただきました。
次回は、神田・神保町の古典喫茶「ミロンガ ヌオーバ」をアップしますね。