『十三夜』 上野山中 松村雄基(左) 波乃久里子(右)
最近は”季節感”がなくなった。演劇の世界も例外ではない。はやい話が真夏に雪の芝居がうたれたりする。その無神経さには、おどろくばかり。
今月の三越劇場も「新派名作劇場」と銘打って樋口一葉の『十三夜』と村松梢風の『残菊物語』の2本立。季節外れだが、昨夏には久保田万太郎の『蛍』
をやり、興業元の松竹さんも苦肉の策だろう。
「十三夜」はおせきに波乃久里子、「残菊物語」の二代目菊之助には歌舞伎から市川春猿の出演。菊之助の乳母お徳に水谷八重子の顔ぶれである。
ところで、三越劇場では年に3回ほど新派をやるが、観客は高齢者ばかり。若い女性は皆無といっていいだろう。
いまどき”新派”なんて、時代に迎合しなくなっていることは確かだが、いまなお劇場に足をむける「新派フアン」がいることも確かである。
『 十三夜 』
幕開きの『十三夜』は、これ現代劇なのと思わせるほど、そぎ落とされた装置に目をうたがった。
さほど大きくない三越劇場に、二重だけの構成舞台。奥手には次の場を見込んでの、枝さし交わした老木の群れ。
これでは、どこかのご別荘か、山荘に見えてしまう。
斉藤主計の住居は、狭い、みだてのない、きわめて古ぼけた上野新坂下の借家でなければならない。
上野の停車場から、蒸気機関車の音がきこえて、格子戸から月のひかりがさしこまなければならない。
あえて明治の情緒に欠けているとは云わない。「一葉の世界」を描くのには、必要なのではないだろうか。今回いかに作品のエッセンスだけを重視した構
成舞台であったにしろ、美術さんの能力を問いたいのである。
それと、今回は主人公せきの弟亥之助は登場させない。二場の口笛は擬音ですませている。
二場の上野山中などは、わずか10分である。
一時間足らずの上演時間に、台詞もかなりカットされている。往年の一葉フアンにとっては物足りない舞台になった。
蛇足ながら、一葉の”十三夜”は、ラジオの幸田弘子さのの朗読がいちばんだという世評がある。私もカセットできいたがたしかに逸品である。
そこから、たしかな”一葉の世界”が匂ってくる。明治の風の音もきこえてくるような気がする。
さて、波乃久里子のせきは持役だけに達者である。師匠の初代水谷八重子を想わせるところが、何か所かある。
素直に、ことに二場での複雑な思いで実家をあとにした心情が、あざやかに表現されて胸を打つ。良家のご新造さんらしい雰囲気もある。
凛(りん)とした姿勢も端正で、うつくしい。
対する俥夫の録之助は松村雄基。新派初出演である。どちらかといえば、”色悪”を得意とする役者さんである。
久里子のせきとバランスは崩してはいないものの、芝居があまりにも現代劇ポイ。
浅草雷門でたむろしている観光客相手の俥夫とあまり変らないのである。
せきへの恋情もあまり伝わってこない。とはいえ、落ちぶれた生活の虚しさに耐えきれない録之助を垣間見せたのは評価 したい。
彼のブログにこう発信している。「Χ月Χ日 何もかも失った録之助は人力車の俥夫。
足も毎回、メークで泥まみれを表現します。本物のワラジは結構痛く、ボロの衣裳と合わせて、役の気持ちを盛り上げてくれます 」と、。
斉藤主計は立花昭二、、母親もよは伊藤みどり。
『残菊物語』
『残菊物語』は五世尾上菊五郎の養子となった二世尾上菊之助の実話を、村松梢風が戯曲化、明治12(1879)年10月明治座にて
花柳章太郎の菊之助、初世水谷八重子のお徳で初演されている。
今回、その菊之助に挑むのが歌舞伎の市川惷猿。はじめての立役である。
春猿はご存知だろうが、女形である。「滝の白糸」の白糸はすんなりとけ込んで、なんの抵抗もなく見られた。
しかし、同じ立役でも『明治一代女』の仙枝役ならまだしも、今回の演目には馴染んでいないようである。
新派と歌舞伎(旧派)には”芸”のちがいがある。二世水谷、瀬戸、波乃の新派女優陣との絡みに、かなりの距離があるように思えてならない。
弟(丑之助の乳母)のお徳の二世水谷八重子は、心根の美しさ、気高さが伝わって来ない。
最近の水谷八重子は体型がでっぷり太って、おばちゃんである。役作り云々よりも、そのことが気になる。
ただ、序幕の菊五郎の家の塀外の場、暇を出されたお徳(水谷八重子)が、裏口から寂しく去る場は、「チョン」と柝がはいって印象的だった。
上手に、菊五郎の本妻(波乃久里子)、下手にお徳(水谷八重子)。随一のイキの合った瞬間である。
芝居好きには、たまらない場面である。
それにしても最近の新派劇は、「NHKの芸能百選」ではないが、”放送時間の関係で一部割愛してお送りします”的になってしまっている。残念なことだ。
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