ブラジルの奥地を旅行すれば必ず蟻の山が見える
この演劇のタイトルになっている『白蟻の巣』とは一体何を意味しているのであろうか。
まず、上掲の画像を見ていただきたい。
そもそも白蟻といっても日本のものとは種類がまったく違う蟻で、大地に土と自らの排泄物によって、ときには人の背丈ほどの巨大な蟻
塚を築くのである。
一つの蟻塚には数百万の蟻がおり、その蟻が居を移し空になった塚には二度と戻ることはないという。
『白蟻の巣』の初版本
わたしは若いころから「戯曲」を読むのが好きで、あるとき本屋さんで手にしたのが三島由紀夫の『白蟻の巣』という単行本だ。高校生の
ころだった。
奥付をみると、昭和31年1月25日発行の版元は新潮社で、定価220円とある。
もちろん、むさぼるように読み耽った。そしてこの戯曲の上演を待ち望んでいた。強い感銘を受けたからだ。
のちに青年座が『白蟻の巣』を1955年に初演したことを知った。
長い間、再演を待っていたが、やっと今年になって、34歳の新鋭演出家谷賢一で、しかも日本の現在演劇の本丸といわれる新国立
劇場でこの戯曲が上演される。
青年座の上演以来、じつに62年ぶりの上演である。
地元の兵庫県芸術文化ホールでも巡演されるらしいが、やはり、あの呼吸感まで伝わる新国立劇場で観たいと、わたしの心は躍った。
ブラジルのコーヒー農園を舞台に、元華族の農園主・刈谷義郎(平田満)と妻妙子 (安蘭けい)、同じ屋敷に住む運転手の百鳥健次
(石田佳史)と妻啓子(村山絵梨)の物語である。
妙子と健次はかつて心中末遂を起こしたが、主人刈谷の"寛大さ”で、二人を許し、同居させていた。
刈谷の”寛大さ”が、逆にじわじわと皆を絡めとり、真綿でくるんだように締めつけてゆく。
平たくいえば、三島好みの”不倫”のおはなし。
(上段・安蘭けい 下段・平田満 村川絵梨 石田征史)
「寛容な主人」の苅屋が逆に見えない檻 を作り、奇妙な崩れそうなバランスを保っている。そんな難役を平田満がことさら力まず
懸命に好演。無気力、無関心な刈谷の役作りをしている。
対する妻妙子を演じる安蘭けいは、高貴で美しいが、一見、生ける屍と三島戯曲にあるが、「生ける屍」の下に熱いマグマと情熱を感
じさせたのはさすが。
とはいえ、長セリフになると、宝塚調が見え隠れするのは是非もないが、夫への不満から、いろんな過ちを犯し、挙げ句にお抱え運転手
と心中未遂をするような女性には見えてこない。
百島健次の石田征史は、つか劇団を皮切りに蜷川の舞台に数多く立っているベテランだが、妙子が夢中になるだけの説得力がない
のがいちばんの欠点。
ブラジル生まれの運転手夫婦。生まれ出る新しい血を演じる妙子(村川絵梨)は、感情が一気に溢れ出す終幕は圧巻。
ブラジルの強烈な太陽が昇ってくるあたりから、台詞のテンポが昂ってくる、計算された演技に感心した。
難を云えば、三島独特のレトリッツクがいささか会得されてないためか、啓子という人物像があまり伝わってこない。
「『日本に帰りたいと云っていたのに』と葬式で言われたい」という雇用人・大杉(半海一晃)が、本作品いちばんの出来。
三島がおおよそイメージしたであろう大杉になっていた。芝居に「ウソ」を感じさせないところがよい。
意表をついたのは土岐研一の舞台美術。
舞台奥の紗幕と、ベット、食卓などの家具だけのシンプルなもの。
紗幕が劇の進行によって血を流したように真っ赤になったり、ブラジルの照りつける太陽光線に変化する。
ひりひりと焼きつくような見苦しい空気の中、ブラジル農園の表現が、照明や音響でそれなりに効果をあげていた。
芸術監督である宮田慶子さんが、三島由紀夫の戯曲は、「最後のセリフのためにあるような気がする」と語った。
これはまさしく「正論」だとわたしも同感である。
のちの三島の大作『サド侯爵夫人』、『鹿鳴館』、そして『黒蜥蜴』も鋭く磨かれ、凝縮された台詞で幕になる.
この『白蟻の巣』では
刈屋 :(呟くごとく) ………とてもそんなことが……
これは「許し」に関わることであり、そこには「決められない日本」「他者依存」など、いまの日本人として受け止めなければならない
"三島からのメッセージ”が込められているような思いがしてならない。
(2017・3・16 新国立劇場 小劇場で所見)
『愛の渇き』は、三島由紀夫の小説でも最高作の一つです。
また、三島は日活の『愛の渇き』を見て、「市川崑の『炎上』とならび、映画化の最高作だ」と言ったそうです。
映画は見ておりませんが、『愛の渇き』を改めて読んでみて、なるほどと思いました。ご教示ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします。(しゅんじ)