副題は、インド「不可触民」の実像 である。インドは今や中国に代わって大国の地位を獲得しつつあるが、国内に眼を向けるとカースト制度による混沌があるようだ。著者はフイールドワークによって、不可触民(ダリト)の実相を報告してくれている。フイールドワークは国情の把握に有力な方法だが、現地の協力者を探すのが大変な苦労だ。これは『中国農村の現在』(中公新書)でも同じだった。中国では国内の政治体制による困難さがあり、インドではカースト制度による差別問題の困難さがある。でもこれだけの本にまとめたのは賞賛に値する。
著者によると、カーストとは、結婚、職業、食事などに関して様々な規制を持つ排他的な人口集団である。各カースト間の分業によって保たれる相互依存の関係と、ヒンズー教的価値観によって上下に序列化された身分関係が結び合わさった制度である。バラモン クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラの下に位置付けられているのが不可触民(ダリト)で皮革加工、清掃など穢れとされる職業に従事する。この身分差別はヒンズー教と関わっているところがポイントで、仏教が衆生済度を旨としているところと大いに違っている。宗教が民衆を分断するというのはどういうことなのであろうか。私はこの問題には不案内だが、研究する価値はありそうだ。
冒頭に二人の政治家の紹介がある。一人は非暴力主義不服従による独立運動を展開したM・F・ガーンディー。もう一人は不可触民廃止運動を強力に展開したB・R・アンベードカルである。ガーンディーはカーストについては肯定的で、職業の世襲を重視し、先祖伝来の職業を継承することは社会的義務と主張していた。一方アンベードカルは不可触民差別の元凶はヒンズー教と考え、死去二か月前に仏教に改宗した。二人の死後、それぞれ「ハリジャン運動」「ダリト運動」として継承されている。ガーンディーは不可触民制を差別する側の心の問題と捉え差別するカースト・ヒンズーの改心によって問題を克服しなければならないと説いた。それに対してアンベードカルは不可触民が非差別的状況から抜け出すにはカースト・ヒンズーの憐憫にすがるのではなく、不可触民自身が教育を受けて広い視野を持ち従属的状況を自覚し、自力で改革に取り組まなければならないことを主張し続けた。 個人的にはアンベードカルの主張の方がわかりやすくて正論だと思う。学歴によって差別を乗る超えるというのは日本でもあることだからだ。しかし、本書後半で不可触民出身の高学歴カップルの話題が載っているが、その出自を隠すことに精力を費やす苦労が語られる。また高等教育での差別によって自殺者が増加しているという話を聞くと差別意識を払拭することの難しさを思わざるを得ない。
さて不可触民の生活実態はどうかという問題だが、第三章の「清掃カーストたちの現在」と第四章の「インド社会で垣間見られるとき」に詳しい。ここはフイールドワークの成果だと言える。指定カースト「清掃人」の中でも「屎尿処理」とそれ以外の「清掃人」の扱いは明確に区別されると書かれている。中でも汲み取り式便所を掃除する「屎尿処理」はヒンズー教で最も不浄視され過酷な労働を強いられている。汲み取り式便所は乾式便所と言われるが、これを手作業で掃除する女性の写真が載せられているが言葉を失う。これはヒンズー教の浄・不浄の観念のもとで発達した身分意識だが、人権侵害の何物でもない。同じページにムンバイの下水清掃人の写真もあるが、三人の男性の体は汚物まみれだ。このトイレ問題は社会の民度をはかるメルクマールになるので、国を挙げてキャンペーンを今以上に強力に展開する必要があるだろう。それにしても「屎尿処理人」のカーストが解放されない限り解決は難しそうだ。
それと「清掃カースト」の住居のにおいと彼らの食事(豚食と飲酒)が感覚的に差別感情を引き起こしやすいという指摘だ。ヒンズー教ではイスラム教と同様豚は不浄の動物と考えられ忌避の対象である。このにおいと食事は日々の生活を構成する重要な要素であるので、この点から言っても、差別意識を助長することはあっても、払拭するのは困難だ。時間が解決するという問題でもないので、IT王国インドの行方はそれほどバラ色ではない。全体主義国家中国のように9億の農民を犠牲にするという政策を臆面もなくとれるならいいが、インドは一応民主主義国家を標榜している手前、不可触民(ダリト)問題はを放置できないだろう。アンベードカルが不可触民差別の元凶はヒンズー教と考えたのは正鵠を得ている。宗教に組み込まれた差別問題は難問である。日本の部落問題の比ではない。
著者によると、カーストとは、結婚、職業、食事などに関して様々な規制を持つ排他的な人口集団である。各カースト間の分業によって保たれる相互依存の関係と、ヒンズー教的価値観によって上下に序列化された身分関係が結び合わさった制度である。バラモン クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラの下に位置付けられているのが不可触民(ダリト)で皮革加工、清掃など穢れとされる職業に従事する。この身分差別はヒンズー教と関わっているところがポイントで、仏教が衆生済度を旨としているところと大いに違っている。宗教が民衆を分断するというのはどういうことなのであろうか。私はこの問題には不案内だが、研究する価値はありそうだ。
冒頭に二人の政治家の紹介がある。一人は非暴力主義不服従による独立運動を展開したM・F・ガーンディー。もう一人は不可触民廃止運動を強力に展開したB・R・アンベードカルである。ガーンディーはカーストについては肯定的で、職業の世襲を重視し、先祖伝来の職業を継承することは社会的義務と主張していた。一方アンベードカルは不可触民差別の元凶はヒンズー教と考え、死去二か月前に仏教に改宗した。二人の死後、それぞれ「ハリジャン運動」「ダリト運動」として継承されている。ガーンディーは不可触民制を差別する側の心の問題と捉え差別するカースト・ヒンズーの改心によって問題を克服しなければならないと説いた。それに対してアンベードカルは不可触民が非差別的状況から抜け出すにはカースト・ヒンズーの憐憫にすがるのではなく、不可触民自身が教育を受けて広い視野を持ち従属的状況を自覚し、自力で改革に取り組まなければならないことを主張し続けた。 個人的にはアンベードカルの主張の方がわかりやすくて正論だと思う。学歴によって差別を乗る超えるというのは日本でもあることだからだ。しかし、本書後半で不可触民出身の高学歴カップルの話題が載っているが、その出自を隠すことに精力を費やす苦労が語られる。また高等教育での差別によって自殺者が増加しているという話を聞くと差別意識を払拭することの難しさを思わざるを得ない。
さて不可触民の生活実態はどうかという問題だが、第三章の「清掃カーストたちの現在」と第四章の「インド社会で垣間見られるとき」に詳しい。ここはフイールドワークの成果だと言える。指定カースト「清掃人」の中でも「屎尿処理」とそれ以外の「清掃人」の扱いは明確に区別されると書かれている。中でも汲み取り式便所を掃除する「屎尿処理」はヒンズー教で最も不浄視され過酷な労働を強いられている。汲み取り式便所は乾式便所と言われるが、これを手作業で掃除する女性の写真が載せられているが言葉を失う。これはヒンズー教の浄・不浄の観念のもとで発達した身分意識だが、人権侵害の何物でもない。同じページにムンバイの下水清掃人の写真もあるが、三人の男性の体は汚物まみれだ。このトイレ問題は社会の民度をはかるメルクマールになるので、国を挙げてキャンペーンを今以上に強力に展開する必要があるだろう。それにしても「屎尿処理人」のカーストが解放されない限り解決は難しそうだ。
それと「清掃カースト」の住居のにおいと彼らの食事(豚食と飲酒)が感覚的に差別感情を引き起こしやすいという指摘だ。ヒンズー教ではイスラム教と同様豚は不浄の動物と考えられ忌避の対象である。このにおいと食事は日々の生活を構成する重要な要素であるので、この点から言っても、差別意識を助長することはあっても、払拭するのは困難だ。時間が解決するという問題でもないので、IT王国インドの行方はそれほどバラ色ではない。全体主義国家中国のように9億の農民を犠牲にするという政策を臆面もなくとれるならいいが、インドは一応民主主義国家を標榜している手前、不可触民(ダリト)問題はを放置できないだろう。アンベードカルが不可触民差別の元凶はヒンズー教と考えたのは正鵠を得ている。宗教に組み込まれた差別問題は難問である。日本の部落問題の比ではない。