読書日記

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ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅 レイチェル・ジョイス 講談社

2024-07-03 12:54:39 | Weblog
 本書は最近映画になった「ハロルド・フライのまさかの旅立ち」の原作で、2012年に発表されたが、著者としては小説デビュー作で、いきなり英国文学最高の賞であるマン・ブッカー賞にノミネートされて大きな反響を呼んだ。もとはBBCのテレビ・ラジオに二十本を超える作品を提供してきた脚本家であったようだが、読んでいて登場人物の描き方が粒だっており、その片鱗をうかがわせる。その点で映画にし易い作品だと言えよう。映画の方はまだ未見だが、早くしないと終わってしまいそうだ。

 主人公はハロルド・フライ、65歳、長年勤めたビール工場を定年退職して半年が経つ。内向的で人づきあいが苦手、家では結婚して45年になる妻のモーリーンとは昔から関係は冷えたままだ。秀才の息子はケンブリッジ大学に行っていたが精神を病んで自死してしまった。一般的に言うと、厳しい老後を送りつつあるという状況だ。そんな中、フライのもとに一通の手紙が届く。手紙の主はクウイニー・ヘネシーという女性で、ビール工場時代の同僚である。彼女は20年も前に突然彼の前から姿を消したのだが、がんで余命いくばくもないという内容だった。フライはこの女性に世話になったことがあり、返事をしたためて投函しようとしたが、それよりもこのまま歩いて彼女のもとに歩いていけば、彼女の命を救えるかもしれないと思うようになった。そこでフライが住んでいるキングスブリッジから彼女がいるベリックまで800キロの道のりを歩き始める。

 小説は目的地にたどり着くまでの87日間の旅行記だ。途中、メディアの知るところとなり、それぞれの悩みを抱えた人や思惑を持った人を引き寄せて集団が作られ、「二十一世紀の巡礼の旅」などともてはやされたりもする。その中で様々な人間と交流する様子が生き生きと描かれる。今まで家に閉じこもりがちだったフライにとって新しい世界が開けていく。歩くうちにハロルドの心が徐々に開かれ、今まで直視することを避けてきた家族との過去のあれこれがよみがえってくる。旅先から妻に出す手紙や電話によって、冷え切っていた妻の気持ちも次第にほぐれていく。息子の早世はこの家族にとって痛恨の出来事だったが、この無理筋とも思える巡礼の旅によってその悲しみが昇華される記述は見事というほかはない。もと同僚のクウイニー・ヘネシーの死は避けられないが、彼女を献身対象とすることで、自身の苦悩から解放されていくという構図はまさに巡礼の旅そのものだ。この巡礼に参加した人々もそれぞれの人生があり、読者はそれを読んで、自分の今の境遇を相対化することができる。ここら辺、映画はどう描いているのか見てみたいものだ。

 800キロ離れた女性のもとに歩いていくというのは悟りを開くための旅と言えないこともなく、その強固な意志は宗教心と言ってもいいかもしれない。この旅を終えたフライは神や仏との機縁を持ちえたという意味で宗教者である。聖である。晩年になってこれを体験できたことはなんと幸福なことか。

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