読書日記

いろいろな本のレビュー

資本主義と闘った男 佐々木実 講談社

2019-06-25 11:56:37 | Weblog
 副題は「宇沢弘文と経済学の世界」で、宇沢の年代記に近代経済学の流れをオーバーラップさせたもので、アメリカの著名な経済学者とのインタビューを交えた力作である。レオン・ワルラスが1870年代に創始した「一般均衡理論」から始まって、新古典派経済学とケインズ経済学との関係、そして新自由主義経済学の跋扈と流れていくが、それに宇沢がどう関わったのかを時系列にそって描いている。
 宇沢弘文(1928~2014)は鳥取県米子市生まれ。3歳のとき東京に転居。府立一中 一高 東大数学科卒。絵にかいたようなエリートである。生命保険会社勤務の後、経済学に転じ、1956年にスタンフオード大学に留学、ケネス・アロー教授の指導を受けた。数学から経済学というと、小室直樹と同じパターンだが、小室は在野の学者として終わったが、宇沢は東大教授まで上り詰めたところが顕著な差である。しかし宇沢が1964年に36歳でシカゴ大学教授になったにも関わらず、1964年に東大助教授として戻った(翌年教授)理由は、当時のシカゴ大学経済学部の同僚との確執があったためと言われている。当時のシカゴ大は、ハイエクやサミュエルソン、フリードマンがノーベル経済学賞を受賞するなど、マネタリズムを筆頭とする反ケインズ諸学派が台頭してくる中で、宇沢のケインズ「一般理論」に立ち返って不均衡動学理論を構築する試みが時代錯誤と評価され、注目が集まらなくなったのだ。シカゴ大では数式を使って、経済的効率を求めるという流儀が主流になっており、宇沢はこれに対して異を唱えていた。特にフリードマンとの確執は宇沢の帰国に大きな影響を与えた。
 経済学者ラッピングの告白によれば、「シカゴで受けた教育は、グローバル・システムに真摯な態度で言及するということがありませんでした。閉鎖経済についての教育でしかありませんでした。私が憂慮していたさまざまな問題、即ち外交政策や軍事力・戦争について考える際、シカゴ大学の世界に対する認識は適切ではなかったのです」ということで、宇沢の苦悩がわかる。それを証明するかのように、アラン・エントフオヘンという若い新古典派の経済学者がベトナム戦争中、32歳で国防次官補になり、戦争の効率化をマクナマラのもとでやったことが衝撃的だった。そのとき彼は「キル・レーシオ」という概念を開発したと言われている。それは「ベトコン」一人を殺すのにいくらかかるかということを計算して、国防費を効率化することによってできるだけ最小にしようとするものである。これが経済学の役目だとすると、そうじゃないでしょうと言いたくなる。
 宇沢は帰国後、社会問題であった公害による環境問題に関心を寄せ、自動車を批判した。そして効率重視の過度な市場競争は、格差を拡大させ社会を不安にさせるとフリードマンの市場競争第一主義を批判した。東大教授といういわば権力の中枢にいる学者の発言と行動ゆえ大きなインパクトがあった。小室直樹の在野精神がここで宇沢にとり付いたかのような印象を受ける。人生とは面白いものだ。
 最近の経済学の流れについて、フランスの経済学者トマ・ピケティは「率直に言わせてもらうと、経済学という学問分野は、まだ数学だけの、純粋理論的でしがしば極めてイデオロギー偏向を伴った憶測だのに対するガキっぽい熱情を克服できておらず、そのために歴史研究やほかの社会科学との共同作業が犠牲になっている。経済学者たちはあまりにしばしば、自分たちの内輪でしか興味を持たれないような、どうでもいい数学問題ばかりに没頭している。この数学への変質ぶりは、科学っぽく見せるにはお手軽な方法だが、それをいいことに、私たちの住む世界が投げかけるはるかに複雑な問題には答えずに済ませているのだ」と述べている。これはいみじくもラッピングの告白と一致する。何のための経済学かもう一度考える必要がある。宇沢の晩年の思想はそれを指摘している。人間の生活安定・格差解消に答え得る経済学の構築が急務で、これを実現できる研究にノーベル経済学賞を与えるべきだろう。デリバティブのような金融商品を編み出して、貧乏人から金をむしり取るようなシステムを考え出したような連中にノーベル賞を与えてはいけない。