
耕人に傾き咲けり山ざくら 大串 章
長い冬が終わると農家は一挙に忙しくなる
農作業は季節ごとに決まったような仕事が山積である
山の斜面の桜がほころんできた
農夫をやさしく包み込んでいるようにも見える
春は生けるものみなうらやかに忙しい
(小林たけし)
山の段々畑。作者は、そこで黙々と耕す農夫の姿を遠望している。山の斜面には一本の山桜があり、耕す人に優しく咲きかかるようにして花をつけている。いつもの春のいつもと変わらぬ光景だ。今年も、春がやってきた。農村に育った読者には、懐しい感興を生む一句だろう。「耕人」という固い感じの文字と「山ざくら」というやわらかい雰囲気の文字との照応が、静かに句を盛り上げている。作者自註に、こうある。「『傾き咲けり』に山桜のやさしさが出ていればよいと思う。一句全体に生きるよろこびが出ていれば更によいと思う」。山桜の名所として知られるのは奈良の吉野山だが、このようにぽつりと一本、人知れず傾き立っている山桜も捨てがたい。古来詩歌に詠まれてきた桜は、ほとんどが「山桜」だ。ソメイヨシノは明治初期に東京の染井村(豊島区)から全国に広まったというから、新興の品種。あっという間に、桜の代表格の座を占めたようだ。だから「元祖」の桜のほうは、わざわざ「山桜」と表記せざるを得なくなったのである。不本意だろう。『朝の舟』(1978)所収。(清水哲男)
【耕】 たがやし
◇「耕」 ◇「耕す」 ◇「春耕」(しゅんこう) ◇「耕人」 ◇「耕牛」(こうぎゅう) ◇「耕馬」(こうば) ◇「耕耘機」
田返すの意。冬の間手入れをしない田や畑の土を起こして、植え付けの準備をする。かって、春の野良には、営々として鋤鍬をふる人や、牛や馬にすきをひかせて、着々と土を鋤起こして行く真剣な姿が見えたが、今では機械化され大分様子が違ってきた。
例句 作者
月山の雪振り向かず耕せり 吉田鴻司
遠目には耕しの鍬遅きかな 福永鳴風
春耕や熊野の神を住まはせて 鈴木太郎
耕して天にのぼるか対州馬 角川源義
耕人に余呉の汀の照り昃り 長谷川久々子
耕牛やどこかかならず日本海 加藤楸邨
気の遠くなるまで生きて耕して 永田耕一郎
春耕の振り向けば父き消ゆるかな 小澤克己
耕してふるさとを捨てぬ一俳徒 大木さつき
耕していちにち遠き父祖の墓 黛 執