沖に降る小雨に入るや春の雁 黒柳召波
季語、春の雁の本意からすると掲句の雁は母恋う姿だろうか
この小雨は春の雨とも違って寂しい雨を呈している
小雨に入るや 「残る雁」の生末の悲劇も予感させる
(小林たけし)
井本農一・尾形仂編『近世四季の秀句』(角川書店)の「春雨」の項で、国文学者の日野龍夫がいきなり「春雨は、すっかり情趣が固定してしまって、陳腐とはいうもおろかな季語である」と書いている。「月様、雨が。春雨じゃ、濡れてゆこう。駕篭でゆくのはお吉じゃないか、下田みなとの春の雨」では、なるほど現代的情趣の入り込む余地はない。そこへいくと近世の俳人たちは「いとも素直に春雨の風情を享受した」ので、情緒纏綿(てんめん)たる名句を数多く残したと日野は書き、この句が召波の先生であった蕪村の「春雨や小磯の小貝ぬるるほど」などとともに、例証としてあげられている。蕪村の句も見事なものだが、召波句も絵のように美しい。同時代の人ならばうっとりと、この情景に心をゆだねることができただろう。しかし、こののびやかさはやはり日野の言うように、残念ながら現代のものではない。だから、この句を私たちが味わうためには、どこかで無理に自分の感性を殺してかからねばならぬ、とも言える。これはいつの時代にも付帯する後世の人間の悪条件ではあるが、その「悪」の比重が極端に加重されてきたのが「現代」である。(清水哲男)
春の雁/晩春/残る雁
春に見る雁であり、病気やけが等で群からはずれ、仲間が北方へ
帰った後も残っている雁をもいう。
くらくらと日の燃え落ちし春の雁 藤田湘子
天心にして脇見せり春の雁 永田耕衣
春の雁手控に紅にじみたる 沼尻巳津子
胸過ぎる人皆遠し春の雁 清水八重子
貧交の誰彼とほし春の雁 上田五千石
天心にして脇見せり春の雁 永田耕衣
春の雁手控に紅にじみたる 沼尻巳津子
胸過ぎる人皆遠し春の雁 清水八重子
貧交の誰彼とほし春の雁 上田五千石