快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  竹束と長篠の戦い

2023-06-25 13:37:41 | 家康
 何故か長篠の戦いの合戦絵図等で殆んど描かれていない竹束の謎ですが、更に追跡してみたいと思います。
 もう一度、竹束とは

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9D%9F

竹束(たけたば)は、日本の盾の一種。竹把とも書く。竹を束ねて縄で縛ったもの。したがって、形状は円柱形になる。戦国時代から江戸時代にわたり使用された。
(中略)
戦国時代以降、合戦において火縄銃が大量に使用されるようになると、従来の木の板による盾では防ぎきれなくなってきたため考案された。当時の火縄銃は、弾丸が大きいため破壊力は大きかったが、一方で弾丸が丸い形をしており、施条も無かったため、貫通力は弱かった。このため、火縄銃の弾丸は竹束を貫通することができず、材料の調達が容易であったことから全国的に広まった。ただし比較的燃えやすいという欠点もある。
大きさは小型のもので長さ六尺(約180cm)・幅一尺(約30cm)、対大筒用の大型のもので長さ八尺(約240cm)・幅四尺(約120cm)程のものが使用された。またそれらは兵が持って使用する他に、木の盾の前面に並べて立てかけるものや、それに車輪をつけて移動できるようにしたものがあった[1]。この他にも、九鬼水軍が囲船(かこいぶね)に大量の竹束で船壁や屋根を覆って、軍船の防弾を高めるのに利用した[2][3]。
防具ではあるが、陣営の守備用というより、攻城用武具として多く使用された。『別所長治記』には、神吉城を織田信忠軍が攻めた際、攻城戦に竹束を用いる戦術を知らなかった中国側の武将である別所長治がまたたく間に攻め寄せられてしまったと記されており、従来の籠城戦しか知らなかった武将相手には効果があったという記述がなされている。

他の使用方法として、攻め入りやすいように、通路状に竹束を配置し、これを「竹束道( - みち)」といった[4]。この使用法の場合、車輪付き大盾と比べ、攻め入るのに大量の竹束が必要となる上に、移動範囲も限定されるため、火攻めに会う危険性がある。

引用終了

 と言う事で「火攻めに弱いケースも有る」と言う点については「青竹は燃えにくい」と以前の記事で書きました。
 ただ青竹については「孟宗竹が未だ無かった16世紀や17世紀では真竹や破竹などで強度が十分な青竹なんてそう多くなかったかも知れない」と言う点と、もう一つ、青竹でも火攻めに遭った場合に問題となる事が有ります。
 それは「竹はそのまま火で熱せられたり燃やされると中の空気が膨張して破裂する」と言う点です。
 なので例え青竹であっても何の対策もしていなければ破裂(大した爆発ではないものの死傷事故につながるような危険なケースも有ります)する可能性も高いわけで、やはりそのままでは火攻めには使いにくいと思われます。
 但し対策としておそらく当時でも考えられて実行されていたであろう事はと言うと「竹の各節々に小穴を開けて空気を逃がす」と言う事かと思われます。
 小さな穴程度なら竹束の強度に殆ど影響はないわけで、こうした事も当時では軍事技術として重宝されたのではないか、と考えています。
 では「ドリルなど無かった当時にどうやって小さな穴を開けたのか?」と言う点については当時でも「キリ」程度は有ったはずなのでそう困難は事ではなかったでしょう。ただ時間は結構かかったかも知れません。
 いずれにしても長篠の戦いでは長篠城を攻めていた武田軍に対し、守備する奥平勢が大鉄砲も使って反撃していたと言う事実が有るのなら、武田軍はそれを想定して「対大筒用の大型のもので長さ八尺(約240cm)・幅四尺(約120cm)程のものが使用された」とある通りで、大筒までとは行かなくてもかなり大き目の竹束を使って進撃しないといけなくなったとすれば、本来なら竹束は盾のように歩兵らを守るような使い方をしないといけないのが、武田軍が馬防柵で大き目の竹束をくぐらせる時には短時間であってもそれが出来ずに、竹束に守られなくなるわけで、その一瞬を織田・徳川勢が鉄砲や弓、槍などで狙い集中攻撃した、と言う状況だったように思えます。
 

仕組みとアプローチ -  武田信玄の家臣が発明した竹束 そしてその武田軍が大敗した長篠の戦い

2023-06-25 10:38:45 | 家康
 竹束は長篠の戦いの時には既に武田軍でかなり使われていたはずなのは明らかだと考えていますが、この戦いについて火縄銃の数とか武田騎馬隊とか或いは馬防柵ばかりが分析テーマとして採り上げられ、何故か竹束についての総数や使われ方について着目した論議は殆ど見当たりません。
 当ブログの今月記事 

仕組みとアプローチ -  続編 不可解な合戦絵図しか残っていない「長篠の戦い」
2023/06/18 19:28:3

仕組みとアプローチ -  不可解な合戦絵図しか残っていない「長篠の戦い」
2023/06/18 19:15:12

 で書いた通りで本当は竹束が武田勢、織田徳川勢で果たしてどの位使われて鉄砲から防御していたのかと言うのは重要なテーマと考えています。
 ところでその竹束ですが、当時は通常の火縄銃を想定して作られていた為、長篠城攻めで城を守る奥平勢が使ったと言われる「大鉄砲」には通用しない事がわかり、急遽その対策として竹束の改造がなされた可能性が有るかと思われます。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

長篠の戦い
(中略)
長篠城攻城戦
1万5000の武田の大軍に対して、長篠城の守備隊は500人の寡兵であったが、200丁の鉄砲や大鉄砲を有しており、また周囲を谷川に囲まれた地形のおかげで武田軍の猛攻に何とか持ちこたえていた。しかし兵糧蔵の焼失により食糧を失い、数日以内に落城必至の状況に追い詰められた。

引用終了

 難攻不落の長篠城と言えどもやはり大鉄砲が従来の竹束では対応できないものだった可能性は高いでしょう。
 この大鉄砲を当然ながら徳川勢が使っている可能性について武田軍側は考えていたはずなので、そうすると竹束の改造型を作成したりとかしなければなりません。
 ところがその竹ですが当時の森林にどれだけ有ったのでしょうか?
 もしかしてと言う程度ですが、竹束に適した太さ等の竹は案外「品薄状態」だったかも知れません。
 何故かと言うと長篠の戦いは天正3年5月21日(当時のユリウス暦で1575年6月29日。現在のグレゴリオ暦に換算すると1575年7月9日)と言う事で、去年以前に生育した竹は既に使われてしまっていた可能性が高く、またその年に生えて来た竹は7月初旬では青竹で未だ柔らかく鉄砲の弾を十分に防ぐ事など出来ません。
 私はこの6月にタケノコが更に伸びた1~数メートルのものをよく伐採しますが、直径4cm前後のものでも塩ビ管とかを切るパイプソーで簡単に切れてしまいます。
 こんなのではとても竹束として使うのは無理ですから、武田軍がどうやって竹束に適した竹を確保できたのか?地元でもない武田軍はアウェイである長篠周辺では強度の十分なものを、もしかしたら十分に確保できていなかったのではないか?と言う見方もしています。
 真相がどうだったのかはまだわかっていませんが、少なくとも長篠の戦いの合戦絵図等で主な装備であるはずの竹束が殆ど描かれていない、と言うのはやはり何かあるのだと思っています。




仕組みとアプローチ -  馬防柵と長篠の戦い 実は馬防柵と言うよりも「竹束を外す為の仕掛け」だったと思う理由

2023-06-24 21:34:39 | 家康
 長篠の戦いでは馬防柵が武田騎馬隊の突撃を阻止した面が大きいと言う説が多いのですが、よく見るとその馬防柵の位置については少しおかしな点が有るのに気が付きます。
 「馬防柵  長篠の戦い」などのキーワードで画像検索すると様々な写真や絵図などが出て来ます。
 その内、確かに武田騎馬隊の突進を防いでいる位置のものも有りますが、家康や信長の陣地が有る山などから見て最も手前の馬防柵は小高い山のまさに直前に構築されているのがわかります。
 これは変ですね。
 小高い山には木々が繁っていて仮に武田騎馬隊が馬防柵が無かったとしても騎馬隊での進撃は無理なはずだったと考えるのが普通です。
 では何故、このような位置に馬防柵が有ったのか?
 この点について個人的にはこう考えています。
 「山の木々が生い茂るエリアの際の所の馬防柵は武田騎馬隊を防止するためのものではなく」、「武田側の歩兵、特に竹束を盾にして進撃する武田側の歩兵がこの馬防柵をくくり抜ける際にはどうしても竹束を通す為に一時的に竹束を盾としての位置や姿勢を崩す為、歩兵が竹束に守られていない状況が発生し、そこを織田徳川勢による銃撃や弓矢や槍などで致命傷を負わせる事ができるもの」。
 こう考えると辻褄が合うのです。
 つまり馬防柵の内で少なくとも山から見て最も手前に有る木立の際のものは「武田騎馬隊から身を守る為と言うよりも、竹束を盾にして攻め寄せる歩兵部隊が竹束を外す瞬間を作ってしまうためのものだった」と言えるのではないでしょうか。

仕組みとアプローチ -  不可解な合戦絵図しか残っていない「長篠の戦い」

2023-06-18 19:15:12 | 家康
 「長篠の戦い」についは諸説ありまして当ブログでは「鉄砲の三段撃ちは有った」とする見解です。
 関連するブログ記事は、

仕組みとアプローチ -  火縄銃の三段撃ちと2001年の映画「スターリングラード」の狙撃場面の類似点と相違点
2021/03/31 19:00:30
仕組みとアプローチ -  鉄砲三段撃ちと明智光秀は関連性が有った、と筆者が見る理由  その13
2020/01/05 08:58:42
仕組みとアプローチ -  鉄砲三段撃ちと明智光秀は関連性が有った、と筆者が見る理由  その12
2020/01/03 08:58:55
仕組みとアプローチ -  長篠の戦いに関する史料に於ける矛盾点や疑問点 その2
2019/12/30 19:47:07
仕組みとアプローチ -  鉄砲三段撃ちと明智光秀は関連性が有った、と筆者が見る理由  その6
2019/12/24 17:44:14
仕組みとアプローチ -  鉄砲三段撃ちと明智光秀は関連性が有った、と筆者が見る理由  その2
2019/12/23 22:17:07

あたりなのですがその後、更に長篠の戦いについて知れべていると驚くべき事実がわかりました。
 それは「竹束に関する事」なのですが、竹束って実は武田信玄の家臣が発明したもののようです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%80%89%E4%B8%B9%E5%BE%8C%E5%AE%88

米倉 丹後守(よねくら たんごのかみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。米倉重継とも。甲斐武田氏の家臣で足軽大将[1]。
略歴
『甲陽軍鑑』によれば、丹後守は土豪の出身で、初めは二十人衆頭(旗本)の一人であったという[2]。平山優は『甲陽軍鑑』に登場し、確実な史料で実在を確認できる武田家の足軽大将のうち、丹後守は甲斐出身者の甲斐衆のなかで最も身分の低い人物であったと推定している[3]。

丹後守は武田家譜代家老の甘利虎泰・昌忠(信忠)の同心として活躍し[2]、「武田法性院信玄公御代惣人数事」『甲陽軍鑑』によれば、永禄10年(1567年)に甘利信忠が死去した際に、信忠の子・信頼が幼少であったため名代を務めたという[1]。『甲陽軍鑑』によれば、丹後守は城攻めに際して竹束を束ねて敵方の鉄砲から身を隠し、城際まで攻め入る戦術を考案したとする逸話を記している[1]。
]
『寛永伝』によれば、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで死去する[1]。『甲陽軍鑑』によれば、長篠の戦いでは武田側の布陣のうち左翼の山県昌景隊に甘利信頼と推定される「あまり衆」が属しており、同心として武川衆のうち米倉氏らが付属している[4]。
(中略)
『寛永伝』によれば、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで死去する[1]。『甲陽軍鑑』によれば、長篠の戦いでは武田側の布陣のうち左翼の山県昌景隊に甘利信頼と推定される「あまり衆」が属しており、同心として武川衆のうち米倉氏らが付属している[4]。

引用終了

 火縄銃からの銃弾から防御できる竹束を発明したのは実は武田信玄の家臣である米倉 丹後守と言う事なですが、その米倉 丹後守が竹束も活用せずに長篠の戦いで戦死、しかもそうした武田軍が長篠の戦いで竹束もろくに使わずに無謀な騎馬軍団による突撃なんてするはずはありません。
 ところがです、長篠の戦の合戦絵図、合戦図屏風には竹束が書かれているものが有りません。
 つまり「これらの合戦絵図には真実が書かれていない」、と言う事になります。
 なのでこれらの合戦絵図は「不可解」なんです。
 考えられるのは、これの合戦絵図は徳川幕府による「軍事機密に関する情報統制」が敷かれていたせいではないか、と言う事です。

仕組みとアプローチ -  家康とホトトギス 「(家康を)泣かせるような事をして来る者こそ懐かせてみせよホトトギス」

2023-06-17 08:39:31 | 家康
 戦国武将とホトトギスの話で信長、秀吉、家康の比較で有名なものは殆ど誰もが聞いた事のあるあの言葉です。

信長「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」
秀吉「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」
家康「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」

 これなんですが、家康は確かに「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」と言う面も有りますが、これよりもっと家康やその重臣らの優れた面を表現できる言葉が有ると思っています。
 それは、

家康「(家康を)泣かせるような事をして来る者こそ懐かせてみせよホトトギス」

 家康は自分を困らせる位の猛者を有能と見て敵対するのではなく、寧ろその能力を利用すべく味方になったり、或いは味方に引き入れる天才(重臣らも含めれば天才集団)だったのではないでしょうか。
 強圧的な信長の下では捨て駒にされないようにしながらももうまく信長の期待に応え、武田氏滅亡時は有能な家臣らを徳川勢の味方となるように引き入れ、そして秀吉と小牧長久手の戦いの後でも何とかうまく話し合って配下となりながらも秀吉に暗殺されるわけでもなく、そして秀吉の死を待って最後は天下を取りました。
 ある意味で家康は秀吉以上の「人たらし」、或いは対人攻略の天才だったのかも知れません。