快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  本能寺の変 無謀な襲撃を更に分析 その2 足利義昭が身の危険を感じていた可能性は高い

2018-12-03 13:17:02 | 明智光秀
 本能寺の変に至る経緯では足利義昭の影響が大きいと見られる事は前回の記事で書いた通りです。
 ではその足利義昭ですが、相当に追い詰められていたと個人的には考えています。
 その理由は単純明快。
 1565年に松永久通と三好三人衆は三好義継とともに足利義昭の兄、足利義輝を襲撃して殺害したわけです。
 三好氏はその後は織田信長と対立して弱体化しますが。三好氏の子孫である三好康長は信長の家臣となり、結局長宗我部に破れて行方不明となりますが。その後も三好氏の子孫である十河存保が秀吉と縁戚関係となり三好義堅ちお名乗って力をつけ始めをました。
 足利義昭にしてみれば「兄貴は三好一族に殺された。俺も三好氏と同盟関係と同様になり、力をつけた信長に殺されるのではないか」と考えるのは当然の事かと考えられます。
 窮鼠猫を噛む。
 足利義昭の持ち駒である旧足利幕府奉公衆らを捨て駒にしてでも何とか窮地を脱しないといけない、考えても不思議では無かったと思われます。

仕組みとアプローチ -  本能寺の変 無謀な襲撃を更に分析 足利義昭が伊勢貞興ら旧室町幕府奉公衆を「捨て駒」に使った可能性

2018-12-03 00:44:34 | 明智光秀
 前回の記事では「毛利氏はそうした偽情報を足利義昭に信じ込ませ、足利義昭は秀吉と毛利氏の共謀関係を知らずに」と書いたのですが、その後もう少し状況を分析、再考察して見ると、何も足利義昭が偽情報を掴まされたケースだけではない可能性もある事がわかって来ました。
 起こり得た事象は次の3通りです。
 
1.足利義昭が毛利氏から「上洛させる」と言う偽情報を掴まされてそのまま伊勢貞興らに流した。
2.毛利氏の方針がどうであろうと足利義昭は上洛できるというようないい加減な話を伊勢貞興らに流した。
3.足利義昭の上洛は無しと言う方針を毛利氏、或いは秀吉、或いは双方から既に確認していたが、伊勢貞興らにウソをついた。

 本来ならば伊勢貞興ら旧室町幕府奉公衆は足利義昭にとっては持ち駒だったはずです。
 なのに何故「捨て駒」として使ってまで信長、信忠を襲撃する必要が有ったのか?
 それは単純明快です。
 信長による中国攻め(毛利攻め)が実行されると、もう足利義昭には後が無いからです。
 再度どかかへ追放されるとしても今度は信長を恐れて各武将も受け入れを拒否するかもしれず、征夷大将軍の官位を剥奪されるだけでなく処刑も考えなくてはならない状況に追い込まれたのではないでしょうか。
 そうなるともう伊勢貞興ら旧室町幕府奉公衆らがどうなろうと知った事ではなく、彼らを捨て駒にしてでも信長抹殺をしなければならなくなり、ウソでも何でも並べて旧室町幕府奉公衆らに働きかけた可能性は高いと見られます。
 そして旧室町幕府奉公衆の中でも年齢と経験が有る細川藤孝はこの情報が怪しいと判断していた為、本能寺の変には参加せず、更に後に剃髪し明智光秀の与力からも離脱したのではないでしょうか。
 明智光秀もそれに近い判断だった可能性が有るので信長襲撃は考えておらず、だからこそアリバイ工作などする必要も考えていなかった為、逆に信長襲撃犯の証拠に解釈されてしまう愛宕百韻の連歌を詠んでしまった、と言う所かと思われます。
 旧室町幕府奉公衆の中でも伊勢貞興らはまだ若かった事も有り、細川藤孝の様にリスク思考をしなかった為、追い詰められた心境だった斉藤利三と共に信長襲撃を計画、実行してしまった、と言う事かと考えています。
 いずれにしても結果として信長と光秀らによる中国攻め(毛利攻め)は中止となり、変の後も暫く足利義昭はそのままの地位を保てた、と言う事となりました。