快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  かごめかごめ そして徳川家光と明智光秀

2018-12-16 10:35:20 | 明智光秀
 「かごめかごめ」と明智光秀について関連させる考え方が有るようです。
 言葉の解釈と言うのは様々に出来る事が多いので、明智光秀と関連させるように解釈できる例も有るのですが、前回の記事の主旨から考えると個人的には次の様にも解釈できます。

 「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる」は「逆臣のレッテルを貼られてしまった明智一族はいつ名誉を回復できるのか」 

 「夜明けの晩に」は「本能寺の変が起きた明け方の直前である晩に」

 「 鶴と亀と滑った」は「 鶴と亀と統った」とも解釈されているのですが「秀忠」と「家光」の「忠」と「家」を除去(滑った)すると、

 「後ろの正面だあれ?」 それは残った字で「光秀」となります。

 もう一つの解釈で、
 「 鶴と亀と統った」を
 「秀忠」と「家光」の「忠」と「家」を合わせた「家忠」つまり家光に決める前の当初案と解釈すると、

 「後ろの正面だあれ?」 それは残った字で「光秀」となります。

 この歌が江戸時代初期から有ったのかどうかは不明なのですが解釈としてはどうでしょうか。

仕組みとアプローチ -  徳川家光や明智光秀、そして「頼」の字がつく名前と土岐一族

2018-12-16 10:01:50 | 明智光秀
 明智光秀と天海の関連性を示す要素としてよく言われるのが、徳川家光と言う名前の構成です。
 家康の家と光秀の光を合わせたもの、と言う事ですがこの名を決めたのは天海ではなく崇伝だったようです。
 家光の父、秀忠の名も合わせて次の通りとなっています。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0

秀忠
(中略)
この上洛中の1月15日に秀吉に拝謁した長丸は元服して秀吉の偏諱を受けて秀忠と名乗ったとされ(『徳川実紀』)、秀吉から、豊臣姓を与えられる[注釈 1][5]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%85%89

家光
(中略)
崇伝の記した『本光国師日記』には、当初は「家忠」を勘案したが、平安時代の公卿の左大臣藤原家忠の諱と同じとなることから、改めて「家光」を選定したとある。「家」は明らかに家康の「家」で、以後の徳川将軍家ではこの「家」が嫡男の諱に使用する通字となった。

引用終了

 当初は「家忠」を勘案した、と言うのは家康の家と秀忠の忠を合わせたものでごく自然ですが、この案と家光の関係は次の通りです。
秀忠 第二代将軍
家忠 第三代将軍の名 当初案
家光 第三代将軍の名 決定
   秀忠と家光から家忠の字を除くと光秀となる。

 名を決めたのが天海でないのは、天海にするとあまりにも露骨に正体を示す事になってしまうからではないでしょうか。
 そして仮に明智光秀を主君討ちをした逆臣として悪のレッテルを貼っていたのなら、決して「光」の字を徳川将軍の名に採り入れる事はないはず、と個人的には考えています。
 その証拠とも言える事ですが、豊臣秀吉の「秀」と言う字は秀吉自身が名を与えた徳川秀忠、結城秀康の2人以外にはその後は15代徳川将軍に至るまでつけられていません。
 それだけでなく尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家と言う徳川御三家についてもその最終当主に至るまで「秀」の名はつけられていないのです。
 反対に例えば水戸光圀にも「光」の字が入っています。
 秀吉の「秀」はつけず、光秀の「光」はつける例が有る、と言うのは明らかに明智光秀を称えていたからではないか、と思っています。
 そしてもう一つ、紀伊徳川家、水戸徳川家の当主には「頼」の字が多く入っている事が多い事が調べればすぐにわかります。
 実はその字の由来はやはり土岐一族なのではないかとこれも個人的にではあるのですが考えています。

引用開始 2件(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E6%B0%8F

常陸土岐氏
土岐光定の六男土岐定親の子、師親が美濃国恵那郡遠山荘の原郷に居住し原氏を称したことから「土岐原氏(ときはらし)」とも呼ばれている。南北朝期に原秀成は山内上杉家の惣政所職の重臣となり常陸国に下って信太荘の管理を行った。後に東条荘、伊南荘に領域を広げ江戸崎土岐氏、竜ヶ崎土岐氏の二氏に分かれ栄えた。後に江戸崎土岐氏が統一して宗家より土岐治頼を迎える。戦国時代には後北条氏に服属を余儀なくされる。そして、江戸崎城の後を継いだ治綱と竜ヶ崎城の胤倫との兄弟の不和対立が顕在化し、小田原征伐においてともに滅亡した。竜ヶ崎城主であった土岐胤倫は幼子頼房、重臣と共に城を脱出して諸国を流浪したが、胤倫は流浪の果ての慶長4年(1599年)に没したといわれている。頼房はその後徳川家康に拝謁し、駿河国内で知行を与えられ、名字を母方の豊島に改めた。その後紀州徳川家の家臣として大坂の陣にて活躍する。後に土岐朝治の時に徳川吉宗に召し出され土岐氏に復姓し江戸幕府旗本となる

(中略)

上総土岐氏

万喜城に拠ったため万喜土岐氏とも呼ばれる。上杉氏の惣政所職として常陸に下った土岐原秀成は伊南荘を時政に任せ万喜城城主とした。原頼元は土岐宗家より9代守護土岐政房の弟、土岐頼房を迎えた。頼房の孫、土岐為頼は、房総の覇権をめぐって里見氏と後北条氏とが対立するなかでたくみに身を処し勢力を維持したが、為頼の死後、土岐頼春(義成)の代に小田原征伐が勃発、頼春(義成)は後北条氏方に与したために滅亡し城は消滅した。

引用終了

 佐竹氏が関ヶ原の戦いの後、ほぼ中立だったにかかわらずリベンジされたようにも見える処遇を受けたと言うのは常陸と上総の土岐一族がかなり生き残っていて徳川幕府内部で暗に強い影響力を持っていた為と見ています。