個人的な見方と言う程度ですが、明智光秀が出雲・石見への国替え(但し毛利氏より勝ちとっての話)を悪く思っていなかったと考えられる事は以前に記事にした通りです。
それまでに光秀が任されていたエリアに対して、果たして未練が無かったのか?と言えばそれは確かに多少は有ったかも知れませんが、(御料地で全てが光秀方の収入になるわけではないにしても)石見銀山だけで当時百万石相当だったとする説が有るくらいで、更にそれに農林水産物、そして交易ルートの陸上、海上交通利権などを考えるとどう見てもかなりの加増だったと考えざるを得ません。
光秀の嫡男、明智十五郎(明智光慶)の将来も考えると、やはり加増の話は悪くなかったはずだと考えています。
それまで光秀が深めてきた地元の人達との繋がりは一度有る程度は切れる事になるのは損失であり惜しいかも知れませんが、逆にこんな話も有ります。
引用開始(一部抜粋)
https://tanba.jp/2018/08/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80%E3%80%8C%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E6%94%BB%E3%82%81%E3%80%8D-%E4%BB%8A%E3%81%AB%E4%BC%9D%E3%82%8F%E3%82%8B%E5%9C%B0%E5%85%83%E6%82%B2%E8%A9%B1%EF%BC%8F%E5%85%B5%E5%BA%AB/
明智光秀「丹波攻め」 今に伝わる地元悲話/兵庫・丹波市
明智光秀の戦国武将としての一大事業だった丹波攻めによって制圧された兵庫県丹波市には、丹波攻めにまつわる悲話の伝承がいくつも残る。
水源を明智軍にもらした老婆
写真・ムクの大木の下にまつられている「禄老爾権現」=兵庫県丹波市市島町で
“丹波の赤鬼”との異名をとった赤井悪右衛門直正が城主として君臨した同市春日町の黒井城。山頂に構える山城だった黒井城を落とすのに手を焼き、攻めあぐねた光秀軍は、一計をめぐらし、城の生活用水を止めることを考えた。
しかし、必死で水源を探したものの、見つからない。そんな時、ある老婆がうっかりと水源のありかをもらしてしまう。
水源を知った光秀軍によって城への樋水路が壊された黒井城は天正7年(1579年)、ついに落城。後日、赤井軍の残党が城の生命線であった水源をもらしたこの老婆を含めた一族を殺害した。
時を経て、老婆の血筋の者がその死を悼んで供養塚を建てた。その一つが、「禄老爾(ろくろうじ)権現」。山城の黒井城跡が遠望できる同市市島町美和という村里にひっそりと祠がまつられている。
引用終了
信長の命令とは言え、力で押さえつけた面は武将であれば殆んどの場合は有ったわけでそれだけ地元民の中には光秀を恨む者も確かにいたのでしょう。
その点から考えると当時の織田方の勢力増大から見て、毛利氏の抵抗はあまり考えられず、ほぼスムーズに出雲・石見を領有できる見込みが高いと光秀も考えていたと思います。
なので明智光秀は出雲・石見の地元民からそう恨まれるような事をせずとも新しいエリアで領民などに馴染む事もできる可能性は高かったわけで、これも明智光秀が出雲・石見への国替えを悪く思ってはいなかった要素の一つと見て良いのかも知れません。
ついでながらですが、秀吉はこの出雲・石見を光秀には取られたくなかったんでしょうね。
それにしても信長が「毛利氏とそして隣接する長宗我部氏の二つの勢力を同時に攻めるなどと言う愚行を強行しようとした」のは何故でしょう。
信長が四国の長宗我部氏を攻めず柔軟策を続け、毛利氏を一点集中で攻めればもっと簡単に毛利氏は降伏したはずで、この出雲・石見も手に入るはずだったわけですが、信長と長宗我部氏の対立を煽ったのが秀吉だったのは明らかなようです。
それまでに光秀が任されていたエリアに対して、果たして未練が無かったのか?と言えばそれは確かに多少は有ったかも知れませんが、(御料地で全てが光秀方の収入になるわけではないにしても)石見銀山だけで当時百万石相当だったとする説が有るくらいで、更にそれに農林水産物、そして交易ルートの陸上、海上交通利権などを考えるとどう見てもかなりの加増だったと考えざるを得ません。
光秀の嫡男、明智十五郎(明智光慶)の将来も考えると、やはり加増の話は悪くなかったはずだと考えています。
それまで光秀が深めてきた地元の人達との繋がりは一度有る程度は切れる事になるのは損失であり惜しいかも知れませんが、逆にこんな話も有ります。
引用開始(一部抜粋)
https://tanba.jp/2018/08/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80%E3%80%8C%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E6%94%BB%E3%82%81%E3%80%8D-%E4%BB%8A%E3%81%AB%E4%BC%9D%E3%82%8F%E3%82%8B%E5%9C%B0%E5%85%83%E6%82%B2%E8%A9%B1%EF%BC%8F%E5%85%B5%E5%BA%AB/
明智光秀「丹波攻め」 今に伝わる地元悲話/兵庫・丹波市
明智光秀の戦国武将としての一大事業だった丹波攻めによって制圧された兵庫県丹波市には、丹波攻めにまつわる悲話の伝承がいくつも残る。
水源を明智軍にもらした老婆
写真・ムクの大木の下にまつられている「禄老爾権現」=兵庫県丹波市市島町で
“丹波の赤鬼”との異名をとった赤井悪右衛門直正が城主として君臨した同市春日町の黒井城。山頂に構える山城だった黒井城を落とすのに手を焼き、攻めあぐねた光秀軍は、一計をめぐらし、城の生活用水を止めることを考えた。
しかし、必死で水源を探したものの、見つからない。そんな時、ある老婆がうっかりと水源のありかをもらしてしまう。
水源を知った光秀軍によって城への樋水路が壊された黒井城は天正7年(1579年)、ついに落城。後日、赤井軍の残党が城の生命線であった水源をもらしたこの老婆を含めた一族を殺害した。
時を経て、老婆の血筋の者がその死を悼んで供養塚を建てた。その一つが、「禄老爾(ろくろうじ)権現」。山城の黒井城跡が遠望できる同市市島町美和という村里にひっそりと祠がまつられている。
引用終了
信長の命令とは言え、力で押さえつけた面は武将であれば殆んどの場合は有ったわけでそれだけ地元民の中には光秀を恨む者も確かにいたのでしょう。
その点から考えると当時の織田方の勢力増大から見て、毛利氏の抵抗はあまり考えられず、ほぼスムーズに出雲・石見を領有できる見込みが高いと光秀も考えていたと思います。
なので明智光秀は出雲・石見の地元民からそう恨まれるような事をせずとも新しいエリアで領民などに馴染む事もできる可能性は高かったわけで、これも明智光秀が出雲・石見への国替えを悪く思ってはいなかった要素の一つと見て良いのかも知れません。
ついでながらですが、秀吉はこの出雲・石見を光秀には取られたくなかったんでしょうね。
それにしても信長が「毛利氏とそして隣接する長宗我部氏の二つの勢力を同時に攻めるなどと言う愚行を強行しようとした」のは何故でしょう。
信長が四国の長宗我部氏を攻めず柔軟策を続け、毛利氏を一点集中で攻めればもっと簡単に毛利氏は降伏したはずで、この出雲・石見も手に入るはずだったわけですが、信長と長宗我部氏の対立を煽ったのが秀吉だったのは明らかなようです。