快気分析

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仕組みとアプローチ -  安土城の天主等が焼失した件について 更にわかりやすく書いてみます

2018-12-06 17:32:39 | 明智光秀
 前回の記事について更にわかりやすく、次のようにまとめ直しました。
 
1. 当時の秀吉は既に武力、治安面で京都や安土周辺エリアについて制圧をすでにできていたはずであり、その気になれば安土城を焼失させないような守備体制などやれば簡単に出来る状況だった。

2. 当時の秀吉は仮に安土城が何者かによって焼失しても原因を他の勢力や自軍の失火などにすりかえたり、その逆にしてしまうと言う情報操作、統制をできる位に治安、情報操作の力を既に持っていた。

3. なので秀吉の意図で焼失しても他の勢力のせいにしてしまう事もできたし、逆に反秀吉勢力によって焼失が発生しても原因不明にも出来た。

4. 誰も安土城の天主等を焼いた首謀者と名乗り出たがらなかった理由としては本能寺の変の黒幕と思われたくなかったから、と言うのは明らか。

5. これは織田方の残った家臣らだけでなく朝廷、イエズス会、更には反信長勢力らも同様。

6. 安土城の天主等に消えて欲しいと思っていたのはイエズス会なのは明らか。
 そしてそのレベルまでで無くとも、朝廷、特に正親町天皇もこれに近い感情は可能性としては多少有ったかもしれないがここは微妙。
 少なくとも有って欲しいとは思っていなかった事は確か。

7. なので秀吉は安土城の天主等を焼いたか、或いは焼けるのを放任し、原因不明のままとした。

8. 仮に明智方の残党が焼いたとしても、それだとまだ明智方が篭城などして粘り強く抵抗している事になり、反織田勢力を結集させてしまうのでそのような史実にはしたくなかった。

9. 仮に盗賊などによる焼失とすると秀吉方の治安維持能力がまだ不十分なレベルと言う印象になる恐れが有ったので、これも反織田勢力を結集させてしまう可能性があり、そのような話にはしたくなかった。

10. なので実行者がわかってもウヤムヤにしたし、わからなかったら尚更そのままにした。

11. 真実を知った者がそれを褒美目当てなどで秀吉らに報告した場合、それが秀吉の意向通りでない場合には暗殺した。

12. 大掛かりに安土城全体について解体か焼き払いをするとなると、その時既に亡き主君であった信長が残した城を無くしてしまう、という反主君思想にもなる可能性が有ったので城自体は残したままにするのは秀吉のスタンスとしては当然だった。更に天主等等が無くても、安土城の軍事的機能については今後の権力争いの為に残しておくと言うのが秀吉の方針だったと考えられる。

仕組みとアプローチ -  安土城の天主等を焼失させたのは誰か? 中世の記録の多くは有力者に都合良く作られた、と言う典型例

2018-12-06 13:33:12 | 明智光秀
 信長が建てた安土城ですがその天守閣は山崎の戦いのすぐ後に焼失しました。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%9F%8E

安土城

(中略)

天主・本丸の焼失

前述したように、安土城天主及びその周辺の本丸等の建造物は、山崎の戦いの後まもなくして焼失している。ただし、焼失したのは天主や本丸などであり、後に織田秀信が二の丸に入城したように、城としては十分に機能していた。

焼失の原因についてはいくつかの説がある。

明智秀満軍が敗走の際に放火したとの説(『秀吉事記』『太閤記』)。しかし、安土で出火があったとされるのは6月15日(『兼見卿記』)で、その日、秀満は坂本城で堀秀政の軍に包囲されていたこと、また、秀満は坂本城での自刃の際、光秀収集の名刀や茶器、書画を堀直政に引き渡してから坂本城に火を放っていることから濡れ衣と考えられる[7]。
秀満のあと伊勢国から入った織田信雄軍が彼の残党を炙り出すため、城下に放火したのが天主に延焼したという説。これは、ルイス・フロイスの報告や『日本西教史』収載の当時の宣教師の記述(日本耶蘇会年報)によるもので、その記述には「信雄が暗愚だったので放火した」とある。しかし、焼失しているのは天主、本丸付近だけなので城下からの類焼は考えにくい。
略奪目的で乱入した野盗や土民が放火したとする説。
落雷によって焼失したとする説。

林屋辰三郎は3の説を挙げており[8]、熱田公も「山崎の戦後の混乱の中で略奪に入った野盗の類が放火した、とみるのが自然であろうか」としている[7]。高柳光寿は2の信雄下手人説を採用しており、『秀吉事記』の記事は信雄がまだ大勢力を有していた時期に成立したものであることから、秀吉と信雄との関係を顧慮して秀満のせいに仕立てられたのではないかと考証している[9]。

なお、加越能文庫の「松雲公採集遺編類纂」中の文書に、天正6年5月に一度天主が倒壊したとの記述があるが、他の資料にはその記録がなく、真偽は不明であるのが現状。

引用終了

 筆者の個人的な考えに過ぎませんが、結局は当時このエリアを軍事、治安の面で制圧していた秀吉が焼失を容認した、と言う事ではないでしょうか。
 では秀吉が名乗らなかったのは何故か?

 答えは簡単です。
 主君であった信長の象徴とも言える安土城天主及びその周辺の本丸等の建造物を焼き払うなどと言う事は秀吉の汚名となるのは明らかだったはずで、名乗るはずなど有りません。
 信長の他の家臣らも同様です。
 では秀吉の方針ではなかったのか?と言うとそうではないと考えています。
 イエズス会の施設である安土のセミナリヨを眼下に見下すように安土城天主を建て、我こそが神であると自らを神格化し始めた信長のシンボルにイエズス会は早く消してしまいたかったはずであり、以前の記事で書きましたが、秀吉がイエズス会と裏取引していたと考えられる以上、その意向に沿う事となったのは当然となります。
 では秀吉が例えば明智方の残党などがこの天主を焼失させたようにでっち上げなかったのは何故なのか?
 当時の情勢ならば秀吉が安土城の天主等に放火した者を捏造して処刑する事など簡単に出来たはずなのに、です。
 このついては、状況を分析すればすぐにわかります。
 例えば明智方の残存勢力が未だ安土城を占拠、篭城して粘っている、と言う事になると上杉、高野衆、伊賀衆、その他、反織田勢力を勢い付かせてしまい、秀吉にとっては不利となるからではないでしょうか。
 それで結局は誰が実行したかがウヤムヤな「歴史の記録」となる。
 それでは引用資料にある通り、イエズス会の記述として「信雄が暗愚だったので放火した」と有るのは何故か。
 それはイエズス会がキリシタンになろうとしない信雄を悪く書いて、実質キリシタンになっていた信孝の方を擁立しようと考えていたから、だと見られます。
 そしてこれらが何を意味するのか? となるとやはり本能寺の変と山崎の戦いはやはりイエズス会も含む反信長勢力の影響が大きかった、と言う事になり、その証拠としてキリシタン武将は本能寺の変と山崎の戦いを通して殆んど落命していない、と言う事が有ります。
 尚、朝廷についても当時は既に反信長の色彩が濃かったようなのでイエズス会にやや近いスタンスだったのかも知れませんが、城を焼き払う部隊を直接持っていたとは考えにくく、やはり朝廷の願望をも巧みに読んだ秀吉が(盗賊であれ何であれ)原因不明の焼失を誘導、或いは放置、その実行者も容認したのだとするのが無理のないロジックかと思います。
 そしてもう一つ、安土城の天主等焼失の件に限らず、多く残っている歴史の記述ですが、上記の例の通り、「当時の有力な勢力の利害計算によって捏造される」と言う事がかなり多かったのではないでしょうか。
 「有力な各勢力が複数有りその各々の利害が違えばそれぞれ記録として残す記述の内容は違って来る」、そう言う事なのではないでしょうか。