快気分析

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仕組みとアプローチ -  北条氏の忍び集団「乱破」と家康を守った伊賀衆の関係

2023-01-22 11:59:08 | 家康
 前回記事の続きになります。
 北条氏の忍び集団「乱破」について追跡して調べていると目に留った記事が有りました。
 民話ではありますが自治体の公式ページに書かれている事です。

引用開始(一部抜粋)

https://www.city.yokohama.lg.jp/konan/shokai/bunkazai/minwa/minw-36.html

日野にあった「風魔の里」
最終更新日 2022年2月22日
港南区の民話

日野にあった「風魔の里」 日野

時は戦国の世,天下は大いに乱れ,日本の各地は多くの武将によって支配されていました。
とくに,関東地方のあたりは,小田原の北条,甲斐の武田,越後の上杉という有名な武将が現れて戦をくりかえしていました。
その中でも,甲斐の武田には透波,小田原の北条氏には乱破という陰の集団,忍者の軍団がいて,それぞれ敵見方の情報を集めて,激しい戦をしていました。
そのころ,港南区を含む武蔵と相模の国の一帯は,小田原北条氏の支配下にありましたが,その小田原に従った武士たちの配置を記した「小田原衆所領役帳」という記録があります。
そして,その記録の中に,この話の秘密がかくされているのです。
小田原に,戦国大名としてノロシをあげたのは,北条早雲という人で,この人は最初,駿河の今川氏に仕えていましたが,やがて伊豆の韮山の城主として独立します。
しかし,出身はよくわかっていないのです。ある時は,伊勢新九郎と名乗っていましたが,その子の二代目,氏綱の時代から北条を名乗るようになり,後北条氏と呼ばれるようになりました。
その北条早雲の三男に,北条幻庵という人がいるのです。そして,その幻庵が,久良岐郡の日野を支配し,さらに「検地(土地の広さを調べること)の結果,余分が出た分をその妻に与えた」という記録があるのです。
この北条幻庵は大変長生きをし,兄の氏綱以下,数代の北条当主を支えた「北条の影」のような人物で,小田原北条の陰の宰相と呼ばれた,謎の人物です。
小田原北条の独自の戦術として,情報の収集があったと述べましたが,戦争をしかける前に,風魔と呼ばれる「忍」の集団を派遣して,敵の情報を完全に把握し,また,敵の後方を混乱させるために,破壊活動を行ったりしました。
その「しのび」の集団の頭を,風魔小太郎と言いました。さらに,その風魔一族などを陰で指揮したのが,北条幻庵ではないかと考えられているのです。
ある書物には,その北条幻庵の代官所ともいえる陣屋は,日野の清水橋付近にあったのではないかと記しています。
(中略)
では,どうして小田原北条氏はこの日野を,このような情報の中心地としたのでしょうか?
そこで考えられることは,日野が笹下の間宮氏の後背地であるということです。
この時代も,信用のおける家臣を近くにおき,領内を統制しました。
小田原北条氏も,親類筋を御家門衆と呼んで信用できる一族として扱い,最初に家臣となった武士たちを伊豆衆と呼んで,親衛隊に組み入れていました。
しかし,相模に古くから土着して,後から小田原に従った武士たちは,あまり信用できない家臣として戦闘部隊に組織替えされて,前線に送り出されたのです。
そのようなわけで,相模衆十四家に属する笹下の間宮氏は,もともとは信用されない家臣であったので,監視されていたものと思われます。
かつて,戦国の時代,草深い武蔵と相模の国境の古道を,情報伝達の「忍者の道」として,陰の世界で使っていたと考えれば,「武相国境の道」を背後に背負った日野,清水橋周辺は「風魔の里」のひとつとも考えることもできるのです。
ちなみに,南区に宝林寺というお寺があり,ここも久良岐郡と橘樹郡との境の古道を,後ろに背負って建っているのです。
この寺を開いたのは,伊賀国名張の城主,服部庵道甫という人で,彼も小田原北条氏に所属する伊賀の忍者の出身であるとされています。

引用終了

 伊賀衆と北条氏の「乱破(大将が風魔)」は関係が有ったとするのが有力な説です。
 どうりで。

仕組みとアプローチ -  秀吉はなぜ家康を暗殺できなかったのか?

2023-01-22 11:25:06 | 家康
 本能寺の変の後、日本をほぼ統一したのは秀吉で、ほぼ独裁者となったわけですがそんな秀吉に次ぐ二番手は家康でした。
 私だけでなく秀吉は家康を警戒し、できれば討ってしまいたかったのだろうと考えている人は今も多いと思いますがどうでしょう。
 当然、家康はそのような事を想定していて、例えば1586年に家康は秀吉から上洛するように言われた時は、秀吉が妹である朝日姫を正妻として家康に嫁がせていたにも関わらず家康はそれだけでは警戒を緩めず、なかなか上洛しない為、秀吉は母である大政所をその見舞いとして岡崎に送る事になり、つまり人質を2人差し出したわけで、それでやっと家康は上洛したのは既に知られている話です。
 その後、大政所は1587年に岡崎から秀吉の所に戻り、朝日姫は1590年に死没となり家康側には秀吉の人質がいなくなったのですが、それでも1595年に家康は秀吉の命令で上洛したのです。そしてそれにもかかわらず、どういうわけか秀吉に暗殺されませんでした。
 これは一体どう言う事でしょうか?
 考えられるのは2つだけ。
 1つは家康が秀吉を既に心底から信用していたから。
 もう1つは秀吉は家康を討とうとしたら即座に反対に暗殺される、と恐れていたから。
 結論から言うと個人的には後者の方だと考えています。
 何故かと言うと、家康が秀吉を心底信用しているなどとは考えられるワケもなく、そして家康が既に多くの「忍びの部隊」を既に配下に入れていたから、と思うからです。
 家康が伊賀越えをした時に、伊賀衆と言う忍者集団の護衛が有った点も大きかったと言うのは定説ですが、何も伊賀衆だけでなく、例えば旧武田氏の忍び集団である「三ツ者」や「信濃巫」、旧北条氏の忍びと夜討ち部隊である「乱波(風魔はその大将)」なども既に家康の徳川勢に取り込まれおり、そしてそれなりの待遇を受けていたのではないでしょうか。

引用開始 3件(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%B1%E6%B3%A2

乱波(らっぱ)とは、三浦浄心の『北条五代記』(寛永18年・1641年刊)に用例のある、戦国大名に扶持(雇用)されて、他国に忍び入り夜討ちなどをする集団である。風魔は乱波の大将として知られた。
少し時代が下って、元禄年間の『奥羽永慶軍記』の佐竹北条合戦の話にも用例がある[1]。
19世紀初の『武家名目抄』は、透波(すっぱ)と乱波の違いについて、密かに活動するものを「透波」、騒がしく動静が整わないものを「乱波」と呼ぶと解釈しながら、同じ意味とも解釈し、関東では「乱波」、甲斐以西では「透波」という地理的な使い分けがあった、とも解釈している。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%84%E8%80%85

三ツ者(みつもの)は、日本の戦国時代の大名・武田信玄が組織したとされる隠密(いわゆる忍者)の集団。ただし、戦国期の確実な史料や記録で「三ツ者」という呼称や存在は確認できない[1]。江戸時代初期に成立した『万川集海』『甲陽軍鑑』に、武田信玄が「軍事の要」に間見・見分・目付の「三者」を用いたという記述があることから広まったものと考えられる[1][2]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A9%E3%81%8D%E5%B7%AB%E5%A5%B3

歩き巫女(あるきみこ)は、かつて日本に多く存在した巫女の一形態である。

概要
特定の神社に所属せず、全国各地を遍歴し祈祷・託宣・勧進などを行うことによって生計を立てていた。旅芸人や遊女を兼ねていた歩き巫女も存在した。そのため、遊女の別名である白湯文字、旅女郎という呼称でも表現される。鳴弦によって託宣を行う梓巫女、熊野信仰を各地に広めた熊野比丘尼などが知られる。

ワカ(若宮と呼ばれる神社に仕えていた巫女)アガタ シラヤマミコ モリコ(山伏の妻)などもおり、総じて神を携帯し各地を渡り歩き竈拂ひ(かまどはらひ)や口寄せを行ったらしい。

信濃巫
現在の長野県東御市から出て、日本各地を歩いた歩き巫女。戦国時代には望月千代女が甲斐武田氏のためにこの巫女を訓練し、情報収集に使ったと言われる。これが、くの一として呼称されることがある。

引用終了

 と言うわけで武田氏や北条氏を滅ぼした時にその家来達だけでなく、配下の「忍び衆」も巧妙に家康配下に取り込んで行った家康が仮に1595年当時既に「大半の忍者グループの総元締め」みたいな存在になっていたとすれば、秀吉は家康配下の忍びによる情報収集(城内の女スパイも含めて)や暗殺部隊による襲撃を恐れて、とても家康を討つ試みなどできなかったのだろうと考えています。