秀吉が瀬戸内海の海賊大名を巧妙に取り込み、その水軍力で支配を固めて行ったのは史実ですが、一方で家康は?と言うとそれなりに水軍強化をした形跡が残っています。
例えば家康が1593年に側室として迎えたお万(後の養珠院)は房総半島の安房水軍の主力である正木頼忠の娘ですが、よほど家康はこの養珠院にぞっこんだったのか、後に養珠院と家康との間に生まれた子が後に紀州徳川家の家祖である徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖である徳川頼房となっています。
何と徳川御三家の内、2つまでが正木氏の流れを汲んでいるのですね。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E7%8F%A0%E9%99%A2
養珠院(ようじゅいん、天正5年(1577年)/天正8年(1580年) - 承応2年8月22日(1653年10月13日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の側室。紀州徳川家の家祖徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖徳川頼房の母。名は万(まん、旧字体:萬)。
以下の呼称は実名の万で統一する。
生涯
出自については『寛政重修諸家譜』などでは勝浦城主正木頼忠と智光院との間に生まれた娘とあり、『南紀徳川史』では河津城主蔭山氏広と智光院との間に生まれた娘もしくは冷川村百姓夫婦の娘など諸説ある。また母とされる智光院は『寛政重修諸家譜』などでは北条氏隆の娘[1]とあり、『南紀徳川史』では田中泰行の娘(板部岡江雪斎の姉、氏隆養女)という説がある。血筋は三浦義村の娘矢部禅尼を先祖に持つ三浦宗家の末裔である。
天正5年(1577年)4月4日、三浦庶流の正木頼忠を父として生まれたが、同年8月正木憲時の挙兵により勝浦城から三原(和田町)に移り、その後、小田原に居住した。天正12年(1584年)、母親が蔭山氏広と再婚したことより蔭山一族となったとされる[2]。小田原征伐の際に蔭山氏広は山中城籠城軍に加わるも、落城時に脱出し居城の河津城に戻ったが、伊豆国修善寺にて蟄居したと伝わる。一説に伊豆国冷川村の出身で幼いころに百姓である両親と死別した。
引用終了
その正木氏ですが、次の史料によると里見氏だけでなく内房の正木氏は北条方として勢力が有ったようになっています。
引用開始(一部抜粋)
https://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/kanzenban/kan_3shou/k3shou_2/k3shou_2.html
内房正木氏
正木氏登場のなぞ 戦国時代の房総に里見氏とともに現われてきた有力な豪族に正木氏があります。
(中略)
亡命から十四年後の永正五年(一五〇八)に里見義通が鶴谷八幡宮(館山市)に奉納した棟札では、正木氏には安房国主の里見義通につぐナンバー2の国衙奉行人という地位が与えられてるのです。亡命してきたうえまだ十代の少年が、ナンバー2の地位にあるの不合理だというのです。しかも正木氏はこれ以後も決して里見氏の家臣ではなく、里見氏とは同等の立場の戦国武将であり、里見氏に協力をする独立性の強い存在でありつづけていました。永正五年の時点で安房国のナンバー2の地位にあるのは、すでに安房国内でも里見氏に次ぐ勢力をもっていたからこそといえます。そうした実力は正木氏がもっと早くから安房に土着し、三浦系
の武士たちの支持をえて着々と獲得した力だと考えられています。そして当主は通綱という名前が書かれています。当時の他の資料でも、正木氏は通綱という名でしかでてきていません。名前は時綱ではなく、義通から「通」の一字をもらって通綱と名乗っているのです。
(中略)
正木氏登場のなぞ
戦国時代の房総に里見氏とともに現われてきた有力な豪族に正木氏があります。三浦半島を中心に平安時代の末から鎌倉時代にかけて、房総半島にも勢力をのばして、東京湾の制海権を握っていた三浦氏の系統だといわれています。鎌倉幕府の有力御家人だった三浦氏や和田氏などは滅亡しましたが、その後も三浦半島にはその一族が勢力を持ちつづけ、三浦氏の家督も一族の中から相続するものがあり、戦国時代に北条早雲に滅ぼされるまでつづきました。三浦氏の一族には安房にも土着していったものが多く、多々良荘(富浦町)の多々良氏・佐久間郷(鋸南町)の佐久間氏・三原郷(和田町)の真田氏などが三浦一族とされています。安房を代表する武士である安西氏も三浦氏とつながる一族だといわれていたり、また三浦と安房を行き来して行動する糟屋氏などもいたりと、安房と三浦は強く結びついていました。この正木氏もこれまでは、明応三年(一四九四)の三浦氏の内部抗争に敗れた三浦時高の遺児が安房に
逃れて正木郷(館山市)に住み、正木時綱と名乗ったのが初代とされてきました。里見氏と同じように由緒のある武士が安房へ逃れてきたという話になっていたわけです。この時はまだ一、二歳の幼児でした。しかしこの話は不合理だということが以前から指摘されていました。
亡命から十四年後の永正五年(一五〇八)に里見義通が鶴谷八幡宮(館山市)に奉納した棟札では、正木氏には安房国主の里見義通につぐナンバー2の国衙奉行人という地位が与えられてるのです。亡命してきたうえまだ十代の少年が、ナンバー2の地位にあるの不合理だというのです。しかも正木氏はこれ以後も決して里見氏の家臣ではなく、里見氏とは同等の立場の戦国武将であり、里見氏に協力をする独立性の強い存在でありつづけていました。永正五年の時点で安房国のナンバー2の地位にあるのは、すでに安房国内でも里見氏に次ぐ勢力をもっていたからこそといえます。そうした実力は正木氏がもっと早くから安房に土着し、三浦系
の武士たちの支持をえて着々と獲得した力だと考えられています。そして当主は通綱という名前が書かれています。当時の他の資料でも、正木氏は通綱という名でしかでてきていません。名前は時綱ではなく、義通から「通」の一字をもらって通綱と名乗っているのです。
正木通綱がその勢力圏にしていたのは、正木氏が本城にしていたという山之城(鴨川市)がある長狭郡を拠点に、朝夷郡の北部(千倉町以北)にも及んだようです。三原郷の真田氏や久保郷(千倉町)の上野氏は正木氏の重臣になっています。丸山町から和田町・鴨川市にかけて正木氏の伝承やゆかりの寺院が多いのもそのためなのです。この地域には源頼朝の挙兵のときに三浦義澄が長狭氏を滅ぼして以来、三浦氏の影響力が浸透し残っていたということのようです。
通綱は里見義通・義豊のもとで、大永六年(一五二六)には里見氏の指示によって、北条氏の監視下にはいった品川方面への攻撃をおこなっています。この港湾都市品川をめぐる攻防は、もちろん水軍による攻撃です。これは正木氏が水軍をつかいこなすことができる海の領主という面をもっていたということで、それが正木氏の力の源でもあったのです。
そしてその力が里見氏の房総支配に大きな役割をはたし、また逆に里見氏を困難に陥れもしたのです。正木氏は独自の勢力として里見氏の歴史に大きな影響を与えました。
正木大膳
ところで、正木氏といえば正木大膳の名が里見氏の史書のなかによく出てきます。正木通綱も大膳亮とか大膳大夫などと名乗りました。この大膳というのは戦国期の正木氏歴代のなかに少なくとも四人登場します。こうした名乗りを官途といいますが、家ごとに歴代が同じ官途をつかうケースはごく一般的に行なわれていたことでした。
ひとりめが正木通綱で、天文二年(一五三三)に里見義豊に殺されて内乱のきっかけになった人物です。次にその跡を継いだ時茂が大膳亮と名乗りました。後世に槍の大膳と呼ばれて勇猛な武将として名を知られたのがこの時茂で、永禄十年の三船山合戦などで正木大膳の活躍する様子がえがかれていますが、じつは時茂は永禄四年(一五六一)に没しています。この大膳は当時から有名で、時茂は当時、房総からは遠くはなれた越前国の武将朝倉教景からさえも「人づかいの上手」と評されるほど、関東を代
表する武将として名を知られていました。
三人目が天正九年(一五八一)に里見義頼に滅ぼされた正木憲時です。四人目はその跡へ養子に入った二代目の正木時茂で、里見家が慶長十九年(一六一四)に滅びたときにいた大膳です。家を継ぐと名前も継ぐことから、正木大膳が百年にわたって活躍することになり、そのうえ時茂がふたりもいるため正木大膳についての混乱がおこりがちです。さらに戦国時代の正木氏には独自の勢力をもっていた家が三家あったことから、なおさら分かりにくさを増してくるので気をつけなくてはなりません。つぎにその三家について紹介しておきます。
三つの正木氏
正木氏は大きく分けるとふたつの系統ということになります。ひとつは内房の水上勢力を握っている正木氏で、もうひとつは外房に勢力を広げた正木氏です。そして外房の正木氏がさらにふたつの家に別れるのです。
内房に勢力をもった正木氏は、外房の正木氏よりも古くから安房に入りこんでいた三浦氏ではないかと考えられている一族です。外房の正木氏も含めて房総正木氏の本家にあたるかもしれないといわれています。その勢力圏は勝山城のある佐久間(鋸南町)あたりから百首城のある造海(富津市)にかけての海岸部が中心で、対岸の三浦半島にも古くから所領をもっていたようです。つまり三浦半島と内房を股にかけて活動する海の豪族といえる存在です。 正木氏はもともと安房国の国衙の役人だったのではないかと考えられています。それは東国経済の大動脈になっていた東京湾で、関銭徴収や海上勢力の支配などに関する権限は国衙がもっていたからです。役人として正木氏がその権限を握っていたからこそ、戦国時代になっても水軍などの海上勢力を動かすことができたのだというわけです。水軍を動かす力をもつ内房正木氏が、房総正木氏の本家といえる理由もそこにあるわけです。
内房正木氏
現在正木(館山市)という地名は国衙があった府中(三芳村)の隣にありますが、府中は慶長期には東国府とよばれて正木村のうちに含まれていました。国衙は正木郷のうちにあったわけで、そこを拠点にしていた正木氏が国衙の有力な役人だったことは充分に考えられるわけです。
この内房正木氏については、天文十六年(一五四七)に正木弥五郎が保田郷の地頭として現れるのが最初に確認できる人物です。もちろんそれ以前からこの地域に勢力をもっていたはずです。その後天文二十二年(一五五三)から二十四年にかけて、上総峰上城を中心とする湊川流域の勢力を組織して北条方として活動し、里見氏に対して逆乱とよばれる争乱を引き起こしています。天文年間の末から天正年間の初めにかけては金谷城(富津市)を拠点にしていて、正木兵部大輔が内房正木一族の中心人物でした。永禄二年(一五五九)には北条氏から三浦半島で高額の所領を与えられていて、里見氏にも敵対する独自の勢力だったことがわかります。永禄年間には里見氏に帰順しますが、同じ一族の正木淡路守が入れ替わって金谷城にはいったようです。
そして天正五年(一五七七)に里見氏が北条氏と和睦すると金谷城の役割は薄れ、淡路守は子源七郎とともに百首城に移って拠点とするようになり、兵部大輔の系統も安芸守が勝山城を拠点にするようになりました。百首の正木氏と勝山の正木氏は、ともに里見家のなかでは特別な家柄としての地位があったようで、天正十三年(一五八五)に里見義康が鶴谷八幡宮の神前で元服したときには、左右について介添えの役を勤めています。やがて義康の弟たちがそれぞれの家を継ぐことになり、里見家の御一門衆になりました。
引用終了
尚、田喜正木氏、勝浦正木氏についてもこの引用資料によく出ているのですが、正木氏が海賊豪族と陸域支配の豪族として、まるで正木氏の掌に里見氏も北条氏も乗せるかのように房総半島や東京湾の多くのエリアを実質支配していた事がわかります。
こうなるともう豪族とかでなく実質「海賊大名」なのではないかとも思えて来ます。
当時の家康は正木氏との縁組で江戸周辺の制海権を強化したかった、それはいずれ戦う事になるであろう秀吉の豊臣側勢力との戦闘準備だった、と言う事がわかるのは「関ヶ原の戦い」の後になってからだったのでしょう。
例えば家康が1593年に側室として迎えたお万(後の養珠院)は房総半島の安房水軍の主力である正木頼忠の娘ですが、よほど家康はこの養珠院にぞっこんだったのか、後に養珠院と家康との間に生まれた子が後に紀州徳川家の家祖である徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖である徳川頼房となっています。
何と徳川御三家の内、2つまでが正木氏の流れを汲んでいるのですね。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E7%8F%A0%E9%99%A2
養珠院(ようじゅいん、天正5年(1577年)/天正8年(1580年) - 承応2年8月22日(1653年10月13日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の側室。紀州徳川家の家祖徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖徳川頼房の母。名は万(まん、旧字体:萬)。
以下の呼称は実名の万で統一する。
生涯
出自については『寛政重修諸家譜』などでは勝浦城主正木頼忠と智光院との間に生まれた娘とあり、『南紀徳川史』では河津城主蔭山氏広と智光院との間に生まれた娘もしくは冷川村百姓夫婦の娘など諸説ある。また母とされる智光院は『寛政重修諸家譜』などでは北条氏隆の娘[1]とあり、『南紀徳川史』では田中泰行の娘(板部岡江雪斎の姉、氏隆養女)という説がある。血筋は三浦義村の娘矢部禅尼を先祖に持つ三浦宗家の末裔である。
天正5年(1577年)4月4日、三浦庶流の正木頼忠を父として生まれたが、同年8月正木憲時の挙兵により勝浦城から三原(和田町)に移り、その後、小田原に居住した。天正12年(1584年)、母親が蔭山氏広と再婚したことより蔭山一族となったとされる[2]。小田原征伐の際に蔭山氏広は山中城籠城軍に加わるも、落城時に脱出し居城の河津城に戻ったが、伊豆国修善寺にて蟄居したと伝わる。一説に伊豆国冷川村の出身で幼いころに百姓である両親と死別した。
引用終了
その正木氏ですが、次の史料によると里見氏だけでなく内房の正木氏は北条方として勢力が有ったようになっています。
引用開始(一部抜粋)
https://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/kanzenban/kan_3shou/k3shou_2/k3shou_2.html
内房正木氏
正木氏登場のなぞ 戦国時代の房総に里見氏とともに現われてきた有力な豪族に正木氏があります。
(中略)
亡命から十四年後の永正五年(一五〇八)に里見義通が鶴谷八幡宮(館山市)に奉納した棟札では、正木氏には安房国主の里見義通につぐナンバー2の国衙奉行人という地位が与えられてるのです。亡命してきたうえまだ十代の少年が、ナンバー2の地位にあるの不合理だというのです。しかも正木氏はこれ以後も決して里見氏の家臣ではなく、里見氏とは同等の立場の戦国武将であり、里見氏に協力をする独立性の強い存在でありつづけていました。永正五年の時点で安房国のナンバー2の地位にあるのは、すでに安房国内でも里見氏に次ぐ勢力をもっていたからこそといえます。そうした実力は正木氏がもっと早くから安房に土着し、三浦系
の武士たちの支持をえて着々と獲得した力だと考えられています。そして当主は通綱という名前が書かれています。当時の他の資料でも、正木氏は通綱という名でしかでてきていません。名前は時綱ではなく、義通から「通」の一字をもらって通綱と名乗っているのです。
(中略)
正木氏登場のなぞ
戦国時代の房総に里見氏とともに現われてきた有力な豪族に正木氏があります。三浦半島を中心に平安時代の末から鎌倉時代にかけて、房総半島にも勢力をのばして、東京湾の制海権を握っていた三浦氏の系統だといわれています。鎌倉幕府の有力御家人だった三浦氏や和田氏などは滅亡しましたが、その後も三浦半島にはその一族が勢力を持ちつづけ、三浦氏の家督も一族の中から相続するものがあり、戦国時代に北条早雲に滅ぼされるまでつづきました。三浦氏の一族には安房にも土着していったものが多く、多々良荘(富浦町)の多々良氏・佐久間郷(鋸南町)の佐久間氏・三原郷(和田町)の真田氏などが三浦一族とされています。安房を代表する武士である安西氏も三浦氏とつながる一族だといわれていたり、また三浦と安房を行き来して行動する糟屋氏などもいたりと、安房と三浦は強く結びついていました。この正木氏もこれまでは、明応三年(一四九四)の三浦氏の内部抗争に敗れた三浦時高の遺児が安房に
逃れて正木郷(館山市)に住み、正木時綱と名乗ったのが初代とされてきました。里見氏と同じように由緒のある武士が安房へ逃れてきたという話になっていたわけです。この時はまだ一、二歳の幼児でした。しかしこの話は不合理だということが以前から指摘されていました。
亡命から十四年後の永正五年(一五〇八)に里見義通が鶴谷八幡宮(館山市)に奉納した棟札では、正木氏には安房国主の里見義通につぐナンバー2の国衙奉行人という地位が与えられてるのです。亡命してきたうえまだ十代の少年が、ナンバー2の地位にあるの不合理だというのです。しかも正木氏はこれ以後も決して里見氏の家臣ではなく、里見氏とは同等の立場の戦国武将であり、里見氏に協力をする独立性の強い存在でありつづけていました。永正五年の時点で安房国のナンバー2の地位にあるのは、すでに安房国内でも里見氏に次ぐ勢力をもっていたからこそといえます。そうした実力は正木氏がもっと早くから安房に土着し、三浦系
の武士たちの支持をえて着々と獲得した力だと考えられています。そして当主は通綱という名前が書かれています。当時の他の資料でも、正木氏は通綱という名でしかでてきていません。名前は時綱ではなく、義通から「通」の一字をもらって通綱と名乗っているのです。
正木通綱がその勢力圏にしていたのは、正木氏が本城にしていたという山之城(鴨川市)がある長狭郡を拠点に、朝夷郡の北部(千倉町以北)にも及んだようです。三原郷の真田氏や久保郷(千倉町)の上野氏は正木氏の重臣になっています。丸山町から和田町・鴨川市にかけて正木氏の伝承やゆかりの寺院が多いのもそのためなのです。この地域には源頼朝の挙兵のときに三浦義澄が長狭氏を滅ぼして以来、三浦氏の影響力が浸透し残っていたということのようです。
通綱は里見義通・義豊のもとで、大永六年(一五二六)には里見氏の指示によって、北条氏の監視下にはいった品川方面への攻撃をおこなっています。この港湾都市品川をめぐる攻防は、もちろん水軍による攻撃です。これは正木氏が水軍をつかいこなすことができる海の領主という面をもっていたということで、それが正木氏の力の源でもあったのです。
そしてその力が里見氏の房総支配に大きな役割をはたし、また逆に里見氏を困難に陥れもしたのです。正木氏は独自の勢力として里見氏の歴史に大きな影響を与えました。
正木大膳
ところで、正木氏といえば正木大膳の名が里見氏の史書のなかによく出てきます。正木通綱も大膳亮とか大膳大夫などと名乗りました。この大膳というのは戦国期の正木氏歴代のなかに少なくとも四人登場します。こうした名乗りを官途といいますが、家ごとに歴代が同じ官途をつかうケースはごく一般的に行なわれていたことでした。
ひとりめが正木通綱で、天文二年(一五三三)に里見義豊に殺されて内乱のきっかけになった人物です。次にその跡を継いだ時茂が大膳亮と名乗りました。後世に槍の大膳と呼ばれて勇猛な武将として名を知られたのがこの時茂で、永禄十年の三船山合戦などで正木大膳の活躍する様子がえがかれていますが、じつは時茂は永禄四年(一五六一)に没しています。この大膳は当時から有名で、時茂は当時、房総からは遠くはなれた越前国の武将朝倉教景からさえも「人づかいの上手」と評されるほど、関東を代
表する武将として名を知られていました。
三人目が天正九年(一五八一)に里見義頼に滅ぼされた正木憲時です。四人目はその跡へ養子に入った二代目の正木時茂で、里見家が慶長十九年(一六一四)に滅びたときにいた大膳です。家を継ぐと名前も継ぐことから、正木大膳が百年にわたって活躍することになり、そのうえ時茂がふたりもいるため正木大膳についての混乱がおこりがちです。さらに戦国時代の正木氏には独自の勢力をもっていた家が三家あったことから、なおさら分かりにくさを増してくるので気をつけなくてはなりません。つぎにその三家について紹介しておきます。
三つの正木氏
正木氏は大きく分けるとふたつの系統ということになります。ひとつは内房の水上勢力を握っている正木氏で、もうひとつは外房に勢力を広げた正木氏です。そして外房の正木氏がさらにふたつの家に別れるのです。
内房に勢力をもった正木氏は、外房の正木氏よりも古くから安房に入りこんでいた三浦氏ではないかと考えられている一族です。外房の正木氏も含めて房総正木氏の本家にあたるかもしれないといわれています。その勢力圏は勝山城のある佐久間(鋸南町)あたりから百首城のある造海(富津市)にかけての海岸部が中心で、対岸の三浦半島にも古くから所領をもっていたようです。つまり三浦半島と内房を股にかけて活動する海の豪族といえる存在です。 正木氏はもともと安房国の国衙の役人だったのではないかと考えられています。それは東国経済の大動脈になっていた東京湾で、関銭徴収や海上勢力の支配などに関する権限は国衙がもっていたからです。役人として正木氏がその権限を握っていたからこそ、戦国時代になっても水軍などの海上勢力を動かすことができたのだというわけです。水軍を動かす力をもつ内房正木氏が、房総正木氏の本家といえる理由もそこにあるわけです。
内房正木氏
現在正木(館山市)という地名は国衙があった府中(三芳村)の隣にありますが、府中は慶長期には東国府とよばれて正木村のうちに含まれていました。国衙は正木郷のうちにあったわけで、そこを拠点にしていた正木氏が国衙の有力な役人だったことは充分に考えられるわけです。
この内房正木氏については、天文十六年(一五四七)に正木弥五郎が保田郷の地頭として現れるのが最初に確認できる人物です。もちろんそれ以前からこの地域に勢力をもっていたはずです。その後天文二十二年(一五五三)から二十四年にかけて、上総峰上城を中心とする湊川流域の勢力を組織して北条方として活動し、里見氏に対して逆乱とよばれる争乱を引き起こしています。天文年間の末から天正年間の初めにかけては金谷城(富津市)を拠点にしていて、正木兵部大輔が内房正木一族の中心人物でした。永禄二年(一五五九)には北条氏から三浦半島で高額の所領を与えられていて、里見氏にも敵対する独自の勢力だったことがわかります。永禄年間には里見氏に帰順しますが、同じ一族の正木淡路守が入れ替わって金谷城にはいったようです。
そして天正五年(一五七七)に里見氏が北条氏と和睦すると金谷城の役割は薄れ、淡路守は子源七郎とともに百首城に移って拠点とするようになり、兵部大輔の系統も安芸守が勝山城を拠点にするようになりました。百首の正木氏と勝山の正木氏は、ともに里見家のなかでは特別な家柄としての地位があったようで、天正十三年(一五八五)に里見義康が鶴谷八幡宮の神前で元服したときには、左右について介添えの役を勤めています。やがて義康の弟たちがそれぞれの家を継ぐことになり、里見家の御一門衆になりました。
引用終了
尚、田喜正木氏、勝浦正木氏についてもこの引用資料によく出ているのですが、正木氏が海賊豪族と陸域支配の豪族として、まるで正木氏の掌に里見氏も北条氏も乗せるかのように房総半島や東京湾の多くのエリアを実質支配していた事がわかります。
こうなるともう豪族とかでなく実質「海賊大名」なのではないかとも思えて来ます。
当時の家康は正木氏との縁組で江戸周辺の制海権を強化したかった、それはいずれ戦う事になるであろう秀吉の豊臣側勢力との戦闘準備だった、と言う事がわかるのは「関ヶ原の戦い」の後になってからだったのでしょう。