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仕組みとアプローチ -  水野忠重はなぜ「本能寺の変」で脱出できたのか? 家康と明智光秀と水野一族を結ぶもの

2023-07-09 11:25:29 | 家康
 本能寺の変では織田方でしかも京都にいながら脱出に成功できた人達がいます。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89

また刈谷城主の水野忠重(宗兵衛)も、長益同様に信忠に従って妙覚寺から二条御新造に移ったが、難を逃れて、しばらく京都に潜伏位した後、脱出している[190]。『三河物語』によれば、長益だけでなく、山内康豊(一豊の弟)も狭間をくぐって脱出したと云う[153]。

引用終了

 しかしいくら「潜伏」と言ったって当時の明智勢は相当な残党狩りを行っていたわけで、そんなに簡単に見つからないようにできるものなのか? この「潜伏」とは後付けの口実に過ぎないのではないか?と個人的に考えてしまうので、追跡調査してみました。
 今年2月18日の当ブログ記事、サブタイトル「家康と土岐一族の関係 そして水野氏も」の中で書いたのですが、

 「西郷局が母方ではあるものの土岐一族の流れを引いているのは調べているうちに簡単にわかりますが、水野信元も土岐一族、それも明智光秀とも縁戚関係であったと言うのは意外でした。」

 と言う事で水野信元の弟である水野忠重は明智光秀の縁戚にあたるわけです。
 そして緒川水野氏や刈谷水野氏とは違っていても分家筋である常滑水野氏の水野守隆も本能寺の変に関係していて、次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%AE%88%E9%9A%86

水野守隆
(中略)
妻 水野信元娘
(中略)
常滑水野氏は緒川水野氏や刈谷水野氏の分家筋に当たる。
(中略)
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変では安土城で明智光秀に供奉したため、戦後に居城を没収された(『当代記』)[3]。その後は山城国嵯峨に隠遁し、慶長3年(1598年)4月21日に没した[1]。



引用終了

 この状況から水野守隆が実は明智方にかなり深く関与していて明智光秀に働きかけ、水野忠重、勝成父子の脱出をサポートした、と言う可能性はかなり高いと考えています。
 「水野忠重 家康 影武者」などでネット検索すると「水野忠重が家康の影武者をやっていた事もある」と多くのデータが出て来ますが、家康とそれだけに容姿が似ている水野忠重が明智勢に見つからずに果たして脱出できたのでしょうか?
 この点から「明智勢は最初から家康を討つつもりなど無かったし、水野忠重、勝成父子の脱出をサポートした」と言うロジックは十分に考えられると思っています。
 見落としてはならない点がもう一つあり、それは「山内康豊(一豊の弟)も狭間をくぐって脱出したと云う」と言う事です。
 この後、関ヶ原の戦いの前段階で各武将が東軍に着くか、西軍に着くかで迷っていた時に山内一豊が家康に全面的に協力する方針を採ったのを切っ掛けに、各諸将が次々と東軍側につき、その功績で山内一豊は土佐の大名となりました。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E4%B8%80%E8%B1%8A

山内一豊
(中略)
戦後は小山会議で去就を決めかねていた諸侯を徳川加担に向かわせた発言が功績として評価され、土佐国一国・9万8,000石を与えられた。後に、高直しにより20万2,600石を幕府から認められている。

引用終了

 山内一豊は弟の山内康豊を通じて家康と水野一族の強固な軍事連携システムを知っていたからこそ東軍が必ず勝つと信じていたから、或いは本能寺の変の時に水野一族のサポートで脱出させてもらった恩が有ったからではないでしょうか。


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