快気分析

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仕組みとアプローチ -  前田利家と山内一豊の共通点

2024-03-17 20:51:55 | 火山 地震 津波 
 前田利家と山内一豊の共通点。
 わかりにくいようですが、実は似た点が有ると思っています。
 前田利家の加賀は当時の日本海側航路(西廻り航路)の要所、山内一豊の土佐は当時の帆船では東廻り航路ではなかったものの「いざ江戸に攻め込むなら軍用船の軍事拠点となり得る要所」でした。
 そんな危ないエリアから国替えもされずに家康から任されていたと言うのはまあ余程に徳川家からのの信用がないと有りえない事だったかと思います。
 もう一つ、前田利家と山内一豊の共通点ですが親族が大地震で亡くなっている点です。
 
引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E7%A7%80%E7%B6%99

前田 秀継(まえだ ひでつぐ)は、戦国時代の武将。津幡城、今石動城、木舟城主。前田利春の六男。母は長齢院(竹野氏女)。前田利家の弟。
(中略)
天正13年(1585年)4月、津幡から越中攻略の重要拠点として築城された今石動城へと入城[1]。同年5月、佐々軍5000、今石動城へと攻め寄せる(今石動合戦)。秀継は寡兵ながら利秀と共に今石動城を死守、援軍が到着するまで持ち堪えて神保氏張、佐々平左衛門らを敗走せしめる軍功を挙げた。この功により豊臣秀吉から黄金100両と御道服を授けられたという。

同年8月8日、豊臣秀吉、10万を率いて佐々成政討伐へと向かう。28日、成政が降伏して越中平定(富山の役)。利家は新たに越中三郡を与えられ、秀継は越中国木舟城主に任ぜられ4万石を領する。同年11月29日、天正地震により木舟城が全壊し、秀継夫妻は圧死した[1]。その遺領は子の利秀が継いだ。なお秀継は天神を篤く信仰していたことが知られている[2][3]。

引用終了

 山内一豊はと言うと、

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%9C%B0%E9%9C%87

天正地震(てんしょうじしん)は、安土桃山時代の天正13年11月29日(1586年1月18日)に日本の中部地方で発生した巨大地震である。
(中略)
琵琶湖 - 下坂浜千軒遺跡(しもさかはませんけんいせき)となる現長浜市の集落が液状化現象により、水没した[32]。秀吉の築いた近江長浜城を山内一豊(妻は見性院)が居城としていたが全壊し、一人娘与祢(よね)姫(数え年6歳)と乳母が圧死した(『一豊公記』)。また家老の乾和信夫妻も死亡したが、見性院は無事であった。

引用終了

 当時は大地震で亡くなるか、戦闘でなくなるか、病気でなくなるか、とかで例え有力武将やその親族であっても長年生きていられる確率は決して高くはなかったようです。



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