前回や以前の記事で書きました通り、井伊一族は難しい立場をどう乗越えるかで、少なくとも名目は女性である直虎を城主にしたようでした。
井伊直虎が実は男だったかどうかについては、以前の記事で書きました通りであまり気にしてもも意味は無いと考えていましたが、ネットなどを見ていると熱い論議がなされているようなので、今回はこの点を記事にしてみました。
実際に女性だったとする説の例は次のものです。
引用開始(一部抜粋)
http://news.goo.ne.jp/article/dot/entertainment/dot-2017012600151.html
「大河ドラマ」時代考証者が「男性説」に反論…「直虎が女性だった」と断言できる根拠
小和田氏は、新史料によって新たに浮上した「直虎=男性」説に反論している。理由は主に次の3点だ。
・史料は聞き書きなので、江戸時代の井伊家の家臣にこうした伝承があったといったことは分かっても、信憑性は薄い。
・仮に、新野左馬助親矩のおいが井伊次郎を名乗ったとしても、新史料で「井伊次郎=直虎」という記述はない。
・井伊氏の惣領の仮名(けみょう)は代々、「次郎」で、だからこそ、龍潭寺(りょうたんじ)の南渓和尚も、惣領直盛の一人娘の出家に際し、次郎法師という名を与えた。次郎法師がいるのに、別の人間が次郎を名乗るとは考えにくい。
新たに見つかった史料が1735年(享保20年)に編集されたものである点から小和田氏は、「江戸時代の人にとっては“おんな城主”の存在を考えにくかったのでは? 大名の無嗣断絶の例が多く“家督は男が継ぐ”という先入観があり、このような伝承ができたとも考えられる」と指摘する。そのうえで、あらためて「次郎法師(直虎)が一時的にではあれ、井伊谷を支配していたことは次郎法師の印判状(『龍潭寺文書』)の存在によって明らか」と、「直虎=おんな城主」説を力説した。
引用終了
まず直虎が女性だったかどうかについてですが、結論から書きますと筆者も井伊直虎が実際に女性だったと考えています。
ただその理由となると、これは筆者の見方に過ぎませんが、引用した資料にある点以外にも有ると見てます。
例えば実は男だったのではないか?と推定される古文書などが出て来るのは、城主の直虎が出す書状などの実務を実際は南渓和尚がサポートしているうちに女性の表現に編集しないまま送ってしまった場合、或いは直虎本人が書いたりチェックしたりする場合でも城主からの書状が男が書いた文体の方が都合が良かった場合などが有ったのが要因ではなかったかと考えています。
ただ生まれたばかりの直虎は実は男だったのを、井伊家の家系断絶を避ける為に親族や知人、或いはこれに限らず選りすぐりの聡明な小さな女子に親族が摩り替えたと言う可能性は有ると思います。
親族を見るとわかりますが、直虎の祖父の子孫は直虎が生まれるまで、井伊家は男ばかりなのです。
それで女姓を一人存在させておく事で万が一のリスクに備えるようにした、と言う可能性は十分有り、その摩り替えの前に記録された資料を判断材用にされた可能性がある、と言うのも或いは有るのかも知れないとは思うのです。
いずれにしても筆者は有る程度の年齢から直虎は実際に女性だったと考えています。
そして実際に女性だったと考えるもう一つの理由は、井伊領が間接的には今川氏真の配下であったわけですから、今川氏との軍議など多くの会合などに出席していないわけは無い事で、この時に男が女装していたらわかるだろうと言うものです。
更に直虎のいる城内の家臣には今川氏真の息がかかった者も少なくなかったと見られる事から、いくら何でも男が女装していたとしてら見破られるだろうと思われるのです。
そして男が女装したのが今川氏真の知る所となれば、本当に直虎は命を狙われたと考えるのが普通ではないでしょうか。
以上の事から、少なくとも有る程度の年齢からは実際に女性だった、と見ています。
果たして真相はどうだったのでしょうか。
井伊直虎が実は男だったかどうかについては、以前の記事で書きました通りであまり気にしてもも意味は無いと考えていましたが、ネットなどを見ていると熱い論議がなされているようなので、今回はこの点を記事にしてみました。
実際に女性だったとする説の例は次のものです。
引用開始(一部抜粋)
http://news.goo.ne.jp/article/dot/entertainment/dot-2017012600151.html
「大河ドラマ」時代考証者が「男性説」に反論…「直虎が女性だった」と断言できる根拠
小和田氏は、新史料によって新たに浮上した「直虎=男性」説に反論している。理由は主に次の3点だ。
・史料は聞き書きなので、江戸時代の井伊家の家臣にこうした伝承があったといったことは分かっても、信憑性は薄い。
・仮に、新野左馬助親矩のおいが井伊次郎を名乗ったとしても、新史料で「井伊次郎=直虎」という記述はない。
・井伊氏の惣領の仮名(けみょう)は代々、「次郎」で、だからこそ、龍潭寺(りょうたんじ)の南渓和尚も、惣領直盛の一人娘の出家に際し、次郎法師という名を与えた。次郎法師がいるのに、別の人間が次郎を名乗るとは考えにくい。
新たに見つかった史料が1735年(享保20年)に編集されたものである点から小和田氏は、「江戸時代の人にとっては“おんな城主”の存在を考えにくかったのでは? 大名の無嗣断絶の例が多く“家督は男が継ぐ”という先入観があり、このような伝承ができたとも考えられる」と指摘する。そのうえで、あらためて「次郎法師(直虎)が一時的にではあれ、井伊谷を支配していたことは次郎法師の印判状(『龍潭寺文書』)の存在によって明らか」と、「直虎=おんな城主」説を力説した。
引用終了
まず直虎が女性だったかどうかについてですが、結論から書きますと筆者も井伊直虎が実際に女性だったと考えています。
ただその理由となると、これは筆者の見方に過ぎませんが、引用した資料にある点以外にも有ると見てます。
例えば実は男だったのではないか?と推定される古文書などが出て来るのは、城主の直虎が出す書状などの実務を実際は南渓和尚がサポートしているうちに女性の表現に編集しないまま送ってしまった場合、或いは直虎本人が書いたりチェックしたりする場合でも城主からの書状が男が書いた文体の方が都合が良かった場合などが有ったのが要因ではなかったかと考えています。
ただ生まれたばかりの直虎は実は男だったのを、井伊家の家系断絶を避ける為に親族や知人、或いはこれに限らず選りすぐりの聡明な小さな女子に親族が摩り替えたと言う可能性は有ると思います。
親族を見るとわかりますが、直虎の祖父の子孫は直虎が生まれるまで、井伊家は男ばかりなのです。
それで女姓を一人存在させておく事で万が一のリスクに備えるようにした、と言う可能性は十分有り、その摩り替えの前に記録された資料を判断材用にされた可能性がある、と言うのも或いは有るのかも知れないとは思うのです。
いずれにしても筆者は有る程度の年齢から直虎は実際に女性だったと考えています。
そして実際に女性だったと考えるもう一つの理由は、井伊領が間接的には今川氏真の配下であったわけですから、今川氏との軍議など多くの会合などに出席していないわけは無い事で、この時に男が女装していたらわかるだろうと言うものです。
更に直虎のいる城内の家臣には今川氏真の息がかかった者も少なくなかったと見られる事から、いくら何でも男が女装していたとしてら見破られるだろうと思われるのです。
そして男が女装したのが今川氏真の知る所となれば、本当に直虎は命を狙われたと考えるのが普通ではないでしょうか。
以上の事から、少なくとも有る程度の年齢からは実際に女性だった、と見ています。
果たして真相はどうだったのでしょうか。