快気分析

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自然災害 仕組みとアプローチ -  中央構造線と赤石構造線 そして井伊一族

2017-02-18 08:25:04 | 地震 津波

 戦国時代、井伊一族が強力になれない内に何故、今川氏や武田氏などの強力な大名に囲まれる事になってしまったのか?について分析して見ました。
 井伊直虎の居城、井伊谷城のある井伊谷とその周辺のエリアについて調べてみると、中央構造線とここから分岐した赤石構造線に挟まれた地域だとわかります。
 そして赤石構造線沿いには天竜川が流れ、中央構造線にはほぼこれに沿って豊川が流れており、これが当時とその以前から信州や甲州など、当時の甲斐との交通や物流の要となっていたはずで、周囲の複数の大名から牽制の対象になりやすかった事、そして海岸伝いで尾張と駿河との東西交通も南アルプス横断では無理で、やはりここ遠江や三河あたりを通るしか無いわけで、やはり交通や物流の要であったはずとなり、それは尾張や駿河や信州、甲州などの甲斐勢力から牽制の対象になりやすかったのだと思われます。
 丁度、今風に言えば当時は交差点のような機能を持つ場所だったので、周囲の政治、経済などのブロックである大名から影響を受けやすかったのでしょう。
 交通の要所と言う事は、そのエリアだけについての経済力は強くなりやすいのですが、一方ではこのように周囲の政治、経済などのブロックである大名同士の牽制の場、或いは大名からの牽制の場となりやすい、そう言う場所が三河や遠江だったと考えています。
 井伊一族の拠点、井伊谷も広義ではこうした交差点のような場所に有り、影響を受け続けていました。
 そして家康の松平氏(徳川氏)も同様です。家康に人質時代が有ったのもその影響と言えるのではないでしょうか。

引用開始 2件(一部抜粋)

http://www.osk.janis.or.jp/~mtl-muse/subindex03.htm
日本列島の骨組みを組み替えた大断層

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1489328179?__ysp=6LWk55%2Bz5qeL6YCg57ea
天竜川の所にある赤石構造帯とはどういうものですか、どのようにして出来たのですか。

中央構造線上の静岡県水窪から天竜市二俣を通り天竜河口沖へ赤石構造線、南信濃村和田から静岡県森町西方へ光明断が遠州灘へ向って分岐しています,この2本の断層にはさまれた帯状の地域が赤石構造帯です
赤石構造線にそって天竜川が流れています
西南日本は時計まわり回転で南下したため西南日本の東は伊豆、小笠原海底山脈と強く衝突し、くの字型に強くくい込みました
中央構造線が折れ曲がり赤石構造帯が生じ中央構造線と赤石構造線や光明断層を一直線に結んだ断層線を境に東側が60kmずれて動いたのです

引用終了


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