明智光秀の明智氏は土岐一族ですが、天海は生誕地から考えても特に土岐一族ではないと思われます。
それでは全く土岐一族と接点が無かったのか?と言えば実はそうでは有りません。
引用開始 3件(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B5%B7
天海
天海の出自
『東叡山開山慈眼大師縁起』に「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名修理太夫平盛高の一族」と記されていることから、三浦氏の一族である蘆名氏の出自で、陸奥国に生まれたとされる。しかし同縁起には「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとある。また、「将軍義澄の末の御子といへる人も侍り」と足利将軍落胤説も同時に載せられている。姿を変えて生き残った明智光秀であるという説もある[1]。
須藤光暉『大僧正天海』では諸文献の比較検討により、蘆名氏の女婿である船木兵部少輔景光の息子であると結論づけている[2]。
(中略)
前半生
龍興寺にて随風と称して出家した後、14歳で下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して天台宗を学び近江国の比叡山延暦寺や園城寺、大和国の興福寺などで学を深めたという。[要出典]元亀2年(1571年)、織田信長により比叡山が焼き打ちに合うと武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住する。[要出典]その後、蘆名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住し、さらに上野国の長楽寺を経て天正16年(1588年)に武蔵国の無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市。のちの喜多院)に移り、天海を名乗ったとされる。[要出典]
喜多院住持
天海としての足跡が明瞭となるのは、無量寿寺北院に来てからである。この時、江戸崎不動院の住持も兼任していた。浅草寺の史料によれば北条攻めの際、天海は浅草寺の住職・忠豪とともに徳川家康の陣幕にいたとする。これからは、天海はそもそも家康のために関東に赴いたことがうかがえる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B4%8E%E4%B8%8D%E5%8B%95%E9%99%A2
江戸崎不動院(えどさきふどういん)は、茨城県稲敷市江戸崎[1]にある、天台宗の寺院。山号は医王山。寺号は東光寺。
概要
稲敷市江戸崎のほぼ中央に位置する高台にある寺院で、不動明王を本尊とし、「不動院」「不動尊院」など様々な呼ばれ方があるが、一般には「江戸崎不動院」の呼び名で親しまれる[2] 。 当時、随風と名乗っていた天海が、天正19年(1591年)から約17年間、住職を務め、江戸時代は天台宗の学問所である関東八檀林の一つとして栄えた。境内地は約5万3000平方メートルあり、明暦元年(1655年)徳川4代将軍・家綱の援助を受けて建てられた仁王門をはじめ、板碑、手水鉢、灯篭、宝篋印塔があり、さらに郷土の先人である大築由造や大久保英助の記念碑など多くの石造物も残されている。寺宝も多く、狩野探幽筆の雨海画像、東照権現神号、天海木像などを所蔵する[2] 。
歴史
開山については諸説あるが、嘉祥元年(848年)慈覚が開山し、文明2年(1470年)に幸誉が中興したとする説と[3]、文明2年に幸誉が開山したとする説がある[2] 。のちに衰退したが、歴代の江戸崎城主となった土岐原氏、蘆名氏の保護を受け、特に天正19年(1591年)に江戸崎城主であった蘆名盛重が、中興開山に随風(のちの天海)を第八世住職として迎え、諸堂を再建した[2] 。随風は、徳川家康の信任が厚く黒衣の宰相といわれた傑僧で、江戸崎不動院には約17年間ほど住んだといわれる[2] 。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%B0%8F#%E5%9C%9F%E5%B2%90%E6%B0%8F%E7%B3%BB%E5%8E%9F%E6%B0%8F
原氏 (土岐氏族)
土岐氏の中祖三代目土岐光定の六男、蜂屋氏の庶流で、南北朝時代に蜂屋定親(美濃国守護土岐頼貞の兄)の次男・師親が美濃国恵那郡遠山荘原郷(現在の岐阜県恵那市山岡町原)に住して原彦次郎を称したことに始まる。
那郡遠山荘原郷(現在の岐阜県恵那市山岡町原)に住して原彦次郎を称したことに始まる。
室町時代前期に師親の孫の秀成が足利尊氏関東管領上杉憲方の被官として、常陸国信太荘守護代として関東に下向した。以降、秀成の系統の原氏は江戸崎城を本拠として数代にわたって東条荘など常陸南部に勢力を持ち、さらにやはり上杉氏の上総にあった伊南荘も領した、この際、上記下総の千葉氏流原氏との区別の意味から土岐原とも称すようになる。
父秀成の後を継いだ憲秀・景秀父子は、小栗満重の乱の鎮圧では関東管領上杉憲実傘下として参戦し、上杉勢力の南常陸への進出に先鋒的な役割を果たした。その後、永享の乱・結城合戦と続く中で同地域の山内上杉家被官の国人一揆の組織「信太荘山内衆」の中心的存在になっていった。やがて、享徳の乱が始まると、常陸国の守護である佐竹氏の家督争いも絡んで信太荘も戦乱に巻き込まれる。原氏ら「信太荘山内衆」は佐竹実定(上杉憲実の養子)・大掾氏・小田氏と連携して古河を本拠とした足利成氏の軍と戦った。こうして地域における求心力を高めていき、上杉氏勢力の衰退後も独自の地域権力を確立した[2]。
同時に憲秀の弟の時成は嘉慶元年(1387年)に上総国に下向して、万喜氏(上総土岐氏)と称した。
戦国時代には土岐宗家から土岐治頼を養子に迎え入れ勢力の拡大を図るが、治頼の兄である土岐家最後の美濃守護土岐頼芸が斎藤道三によって美濃を追われ江戸崎に身を寄せた。土岐宗家が没落したため、土岐氏の再興を賭けて土岐を名乗ることとなる。しかし、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、後北条氏の傘下となっていたことから豊臣方の佐竹氏によって滅ぼされた。没落後、一時、豊島氏を名乗るが江戸時代徳川吉宗により土岐氏を回復し、子孫は旗本として存続した。
この系統とされる原氏の一族には、戦国時代に甲斐武田氏に仕え陣馬奉行として活躍した原昌俊・原昌胤父子や、織田政権・豊臣政権に仕え大名となった原長頼などがある。
引用終了
天海が「住持も兼任していた」と言う「江戸崎不動院」は「土岐原氏」とのかかわりが深く、その「土岐原氏」は「上総土岐氏」との関わりが深かったのでした。
明智光秀が仮に生きて匿われていたとすれば、その場所は常陸土岐氏か上総土岐氏の所領だった可能性は少なく有りません。
それでは全く土岐一族と接点が無かったのか?と言えば実はそうでは有りません。
引用開始 3件(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B5%B7
天海
天海の出自
『東叡山開山慈眼大師縁起』に「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名修理太夫平盛高の一族」と記されていることから、三浦氏の一族である蘆名氏の出自で、陸奥国に生まれたとされる。しかし同縁起には「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとある。また、「将軍義澄の末の御子といへる人も侍り」と足利将軍落胤説も同時に載せられている。姿を変えて生き残った明智光秀であるという説もある[1]。
須藤光暉『大僧正天海』では諸文献の比較検討により、蘆名氏の女婿である船木兵部少輔景光の息子であると結論づけている[2]。
(中略)
前半生
龍興寺にて随風と称して出家した後、14歳で下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して天台宗を学び近江国の比叡山延暦寺や園城寺、大和国の興福寺などで学を深めたという。[要出典]元亀2年(1571年)、織田信長により比叡山が焼き打ちに合うと武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住する。[要出典]その後、蘆名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住し、さらに上野国の長楽寺を経て天正16年(1588年)に武蔵国の無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市。のちの喜多院)に移り、天海を名乗ったとされる。[要出典]
喜多院住持
天海としての足跡が明瞭となるのは、無量寿寺北院に来てからである。この時、江戸崎不動院の住持も兼任していた。浅草寺の史料によれば北条攻めの際、天海は浅草寺の住職・忠豪とともに徳川家康の陣幕にいたとする。これからは、天海はそもそも家康のために関東に赴いたことがうかがえる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B4%8E%E4%B8%8D%E5%8B%95%E9%99%A2
江戸崎不動院(えどさきふどういん)は、茨城県稲敷市江戸崎[1]にある、天台宗の寺院。山号は医王山。寺号は東光寺。
概要
稲敷市江戸崎のほぼ中央に位置する高台にある寺院で、不動明王を本尊とし、「不動院」「不動尊院」など様々な呼ばれ方があるが、一般には「江戸崎不動院」の呼び名で親しまれる[2] 。 当時、随風と名乗っていた天海が、天正19年(1591年)から約17年間、住職を務め、江戸時代は天台宗の学問所である関東八檀林の一つとして栄えた。境内地は約5万3000平方メートルあり、明暦元年(1655年)徳川4代将軍・家綱の援助を受けて建てられた仁王門をはじめ、板碑、手水鉢、灯篭、宝篋印塔があり、さらに郷土の先人である大築由造や大久保英助の記念碑など多くの石造物も残されている。寺宝も多く、狩野探幽筆の雨海画像、東照権現神号、天海木像などを所蔵する[2] 。
歴史
開山については諸説あるが、嘉祥元年(848年)慈覚が開山し、文明2年(1470年)に幸誉が中興したとする説と[3]、文明2年に幸誉が開山したとする説がある[2] 。のちに衰退したが、歴代の江戸崎城主となった土岐原氏、蘆名氏の保護を受け、特に天正19年(1591年)に江戸崎城主であった蘆名盛重が、中興開山に随風(のちの天海)を第八世住職として迎え、諸堂を再建した[2] 。随風は、徳川家康の信任が厚く黒衣の宰相といわれた傑僧で、江戸崎不動院には約17年間ほど住んだといわれる[2] 。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%B0%8F#%E5%9C%9F%E5%B2%90%E6%B0%8F%E7%B3%BB%E5%8E%9F%E6%B0%8F
原氏 (土岐氏族)
土岐氏の中祖三代目土岐光定の六男、蜂屋氏の庶流で、南北朝時代に蜂屋定親(美濃国守護土岐頼貞の兄)の次男・師親が美濃国恵那郡遠山荘原郷(現在の岐阜県恵那市山岡町原)に住して原彦次郎を称したことに始まる。
那郡遠山荘原郷(現在の岐阜県恵那市山岡町原)に住して原彦次郎を称したことに始まる。
室町時代前期に師親の孫の秀成が足利尊氏関東管領上杉憲方の被官として、常陸国信太荘守護代として関東に下向した。以降、秀成の系統の原氏は江戸崎城を本拠として数代にわたって東条荘など常陸南部に勢力を持ち、さらにやはり上杉氏の上総にあった伊南荘も領した、この際、上記下総の千葉氏流原氏との区別の意味から土岐原とも称すようになる。
父秀成の後を継いだ憲秀・景秀父子は、小栗満重の乱の鎮圧では関東管領上杉憲実傘下として参戦し、上杉勢力の南常陸への進出に先鋒的な役割を果たした。その後、永享の乱・結城合戦と続く中で同地域の山内上杉家被官の国人一揆の組織「信太荘山内衆」の中心的存在になっていった。やがて、享徳の乱が始まると、常陸国の守護である佐竹氏の家督争いも絡んで信太荘も戦乱に巻き込まれる。原氏ら「信太荘山内衆」は佐竹実定(上杉憲実の養子)・大掾氏・小田氏と連携して古河を本拠とした足利成氏の軍と戦った。こうして地域における求心力を高めていき、上杉氏勢力の衰退後も独自の地域権力を確立した[2]。
同時に憲秀の弟の時成は嘉慶元年(1387年)に上総国に下向して、万喜氏(上総土岐氏)と称した。
戦国時代には土岐宗家から土岐治頼を養子に迎え入れ勢力の拡大を図るが、治頼の兄である土岐家最後の美濃守護土岐頼芸が斎藤道三によって美濃を追われ江戸崎に身を寄せた。土岐宗家が没落したため、土岐氏の再興を賭けて土岐を名乗ることとなる。しかし、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、後北条氏の傘下となっていたことから豊臣方の佐竹氏によって滅ぼされた。没落後、一時、豊島氏を名乗るが江戸時代徳川吉宗により土岐氏を回復し、子孫は旗本として存続した。
この系統とされる原氏の一族には、戦国時代に甲斐武田氏に仕え陣馬奉行として活躍した原昌俊・原昌胤父子や、織田政権・豊臣政権に仕え大名となった原長頼などがある。
引用終了
天海が「住持も兼任していた」と言う「江戸崎不動院」は「土岐原氏」とのかかわりが深く、その「土岐原氏」は「上総土岐氏」との関わりが深かったのでした。
明智光秀が仮に生きて匿われていたとすれば、その場所は常陸土岐氏か上総土岐氏の所領だった可能性は少なく有りません。