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仕組みとアプローチ -  明智光秀の代理人は存在したのか? 常陸の土岐一族滅亡に対するリベンジに見えなくもないこの史実

2018-12-11 09:25:08 | 明智光秀
 天海が土岐一族と接点が有ったのは前回の記事で書いた通りです。
 その接点の舞台となった江戸崎を中心とするエリアですが当時は常陸土岐氏である土岐原氏が領有していたようです。
 そしてのその後は次のような経緯となったようです。

引用開始 2件(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%B0%8F#%E5%8E%9F%E6%B0%8F_(%E5%9C%9F%E5%B2%90%E6%B0%8F%E6%97%8F)

原氏 (土岐氏族)
(中略)
戦国時代には土岐宗家から土岐治頼を養子に迎え入れ勢力の拡大を図るが、治頼の兄である土岐家最後の美濃守護土岐頼芸が斎藤道三によって美濃を追われ江戸崎に身を寄せた。土岐宗家が没落したため、土岐氏の再興を賭けて土岐を名乗ることとなる。しかし、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、後北条氏の傘下となっていたことから豊臣方の佐竹氏によって滅ぼされた。没落後、一時、豊島氏を名乗るが江戸時代徳川吉宗により土岐氏を回復し、子孫は旗本として存続した。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B4%8E%E4%B8%8D%E5%8B%95%E9%99%A2

江戸崎不動院(えどさきふどういん)は、茨城県稲敷市江戸崎[1]にある、天台宗の寺院。山号は医王山。寺号は東光寺。

概要
稲敷市江戸崎のほぼ中央に位置する高台にある寺院で、不動明王を本尊とし、「不動院」「不動尊院」など様々な呼ばれ方があるが、一般には「江戸崎不動院」の呼び名で親しまれる[2] 。 当時、随風と名乗っていた天海が、天正19年(1591年)から約17年間、住職を務め、江戸時代は天台宗の学問所である関東八檀林の一つとして栄えた。境内地は約5万3000平方メートルあり、明暦元年(1655年)徳川4代将軍・家綱の援助を受けて建てられた仁王門をはじめ、板碑、手水鉢、灯篭、宝篋印塔があり、さらに郷土の先人である大築由造や大久保英助の記念碑など多くの石造物も残されている。寺宝も多く、狩野探幽筆の雨海画像、東照権現神号、天海木像などを所蔵する[2] 。

歴史
開山については諸説あるが、嘉祥元年(848年)慈覚が開山し、文明2年(1470年)に幸誉が中興したとする説と[3]、文明2年に幸誉が開山したとする説がある[2] 。のちに衰退したが、歴代の江戸崎城主となった土岐原氏、蘆名氏の保護を受け、特に天正19年(1591年)に江戸崎城主であった蘆名盛重が、中興開山に随風(のちの天海)を第八世住職として迎え、諸堂を再建した[2] 。随風は、徳川家康の信任が厚く黒衣の宰相といわれた傑僧で、江戸崎不動院には約17年間ほど住んだといわれる[2] 。

引用終了

 つまり秀吉が北条征伐(小田原征伐)を行う前までは、常陸の土岐一族である土岐原氏が江戸崎城を中心とするエリアを北条氏(後北条氏)の力を背後にして領有していたのが、北条征伐で北条氏が倒されると豊臣側であった佐竹氏と蘆名氏により土岐原氏は滅亡します。
 以前に書いた通りで、この頃には上総土岐氏も同様に北条方であった為に滅亡しました。(実際は土岐頼春は三河で匿われたて徳川方の参謀になったと個人的には考えています。)
 土岐原氏滅亡のすぐ後には「江戸崎城主であった蘆名盛重が、中興開山に随風(のちの天海)を第八世住職として迎え」とあり、蘆名氏を宗家とする随風(のちの天海)が迎えられたのは自然なのかも知れません。
 ただこの時の随風が既に明智光秀の代理人となっていたのか? 或いは代理人に摩り替わっていたのか? と言うのは判りません。
 当時、既に天海が家康の参謀のような状況になり始めていたらしいようです。
 そしてその後に佐竹氏と蘆名氏がどうなったかを見て見ると、それは次のような事になっています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E6%B0%8F#%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3

引用開始 2件(一部抜粋)
常陸佐竹氏
(中略)
慶長5年(1600年)、義宣は関ヶ原の戦いにおいて家中での意見がまとまらずに中立的な態度を取った。戦後処理は翌年にはほぼ終了し、慶長7年(1602年)の3月に義宣は上洛し伏見城で徳川家康に拝謁している。ところが5月8日、家康から突然出羽国への国替えを命じられ、7月27日付で石高の明示・内示もなく秋田・仙北へと転封された[10]。関ヶ原の戦いにおいて、家康を追撃する密約を上杉景勝と結んでいたことが発覚したためと言われている。また徳川氏の本拠地である江戸に近い佐竹氏は、同族の多賀谷領・岩城領・相馬領も勢力圏であり実質80万石以上と目された上、合戦に直接参加していないため軍団が無傷で残っており、脅威であった。こうして佐竹氏は平安時代後期以来の先祖伝来の地である常陸を去った[2]。

処遇の際、細川忠興が「大大名の佐竹氏には出羽一国でなければ家臣を賄いきれず変事が起きるかもしれない」と進言したが、徳川家康の側近だった本多正信・正純親子に「出羽一国を与えるのでは常陸と変わらないから半国でよし」と決められてしまった[10]。後に政争に負けた正純が失脚したとき(宇都宮城釣天井事件)、幕府は正純の身柄を佐竹氏に預け、出羽横手への流罪とした。佐竹氏に取って仇がある相手であるため恩情をかけることはないと考えたのだろう[要出典]。正純は横手城の一角でさびしく生涯を終えたという。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%86%E5%90%8D%E6%B0%8F

会津蘆名氏
(中略)
盛氏の死後、二階堂氏からの人質の二階堂盛義の子が婿養子として後を継いだ。蘆名盛隆である。周辺諸氏と友好を保ち伊達氏に対抗したり、織田信長に使者を送るなど積極的な政策を打ち出すが、家中の統制には苦慮している。天正12年(1584年)に近従の大庭三左衛門に暗殺され、その後を継いだ盛隆の遺児亀若丸(亀王丸)も天正13年(1586年)に3歳で夭逝。そして家臣団が揉めに揉めた末、佐竹義重の子・蘆名義広を蘆名家当主に迎えた。

天正18年(1589年)、奥州統一を目指す伊達政宗に摺上原の戦いで大敗した蘆名義広は常陸に逃走し、蘆名氏は没落。実家の佐竹氏に戻った義広は名を「蘆名盛重」と改めて、常陸江戸崎城主となる(江戸崎藩)が、関ヶ原の戦いの際には、旗幟を鮮明にしなかった実兄・佐竹義宣と行動を共にしたために改易。次いで佐竹家臣として出羽国角館城に1万6,000石を与えられたものの、盛重の死後、息子が相次いで病死、最後の当主・蘆名千鶴丸も3歳で事故死したために家系は断絶して蘆名氏は滅亡した。
なお、蘆名家の一門であった針生氏は蘆名家滅亡後に伊達氏に仕え、この系統は延宝4年(1676年)に仙台藩主・伊達綱村の命により蘆名に改姓した。

引用終了

 関ヶ原の戦いで中立だったと言うだけでこれだけの仕打ちを受けるのは少し違和感が有る感じもします。
 既にこの頃には天海が蘆名氏とは関係無い人物に入れ替わっていた可能性もゼロではないと思われます。
 天海が明智光秀の代理人だったのであれば、土岐一族である土岐原氏を滅亡に追い込んだ佐竹氏、蘆名氏にリベンジをしたと考えられなくも有りません。
 ただ徳川秀忠の生母も土岐一族である西郷局ですから、リベンジが仮に会ったとしてもそれが秀忠によるものか、明智氏によるものかと言うのはわかりません。
 そしてその後は更に紀伊徳川家、尾張徳川家、水戸徳川家と言う徳川御三家が成立となります。
 水戸徳川家の初代となった徳川頼房は家康とお万の方(養珠院)の間に出来た十一男なので特に土岐氏の流れではないようですが、この徳川御三家が成立したのは西郷局の子や孫達が将軍であった時代なのです。
 「徳川御三家とは土岐一族は名実共に旧土岐氏の所領だった所を含むエリアつまり美濃尾張、伊勢、常陸を非土岐方勢力から奪回したシンボル」と解釈できなくも有りません。
 




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