快気分析

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仕組みとアプローチ -  明智光秀と本能寺の変 水野監物守隆も必ず何かを知っていたはず

2018-05-30 22:00:13 | 明智光秀
 本能寺の変は明智光秀の想定外で起きてしまったのか? そして更に光秀は家康を助けようとしたのかどうか?
 様々なデータから分析して行くしかないのですが、真実かそれに近い事を知っていたと考えられる歴史上の人物が少なくとも二人いるのではないでしょうか。
 まず家康が一人。
 もう一人は誰かと言うとそれは当時の常滑城主である水野監物守隆。
 「當代記’当代記)」には本能寺の変が起きた時、明智光秀が水野守隆を伴って京都に来た事から、明智方敗北後に(常滑城主から追われて)牢人となった旨が書かれています。
 この水野守隆は山崎の戦いには直接戦闘には参加しなかったようですが、果たし本能寺の変の後にそのまま明智方に同行していたのでしょうか? それとも元々光秀とは同行していないか、或いは本能寺の変の直後に光秀と一度別れて常滑城に戻ってから明智方を援護しに向かう途中で明智方敗北が決まってしまったのでしょうか?
 仮に前者の通り、光秀に同行していたのならば、光秀の想定外で本能寺の変が起きてしまったのかどうかは知っているはず、と言う事になります。
 そして仮に光秀に同行していなかった、或いは元々京都にはいなかったとすれば、常滑城を追われる程の事にはならず、そうなると常滑城から明智方に援軍を組織して向かう途中で明智方敗北となってしまった事になります。
 ではそこまでして明智方に何故援軍を差し向けようとしたのか?となるとですが、ここは常滑。
 それが何を意味するかと言うと、家康が伊賀越えで三河にまで逃れた時に通ったとされる場所の一つです。
 伊賀越えで家康が三河まで逃れられたルートにはいくつか有ったと見られていますが、家康が6月7日頃に三河へ辿り着くまでの日程から考えると、どう見ても水野守隆が家康から何も情報を得ていなかったとは考えられません。
 従って上記の事から言えるのは、水野守隆は「本能寺の変が光秀の想定内で起きたのか想定外で起きたのかを知っていた」、そうでなければ「明智光秀が家康を守ろうとしていた事を家康から聞いて知っていた」、となります。
 光秀が家康を守ろうとしていなかったのなら援軍など出そうとはしなかったはずだからです。
 その水野守隆の妻は水野信元(信長の命令で暗殺、または自害させられた)の娘であり、家康の縁戚でもあるわけで、家康もまた水野守隆と情報を共有していた部分が多かったと思われます。
  


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