快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

自然災害 仕組みとアプローチ -  2月26日は新月 明日は長潮 そして今年の今後

2017-02-21 08:21:11 | 地震 津波
 2月26日は新月、明日2月22日は長潮です。
 以前にも書きましたが、月齢トリガーに関しては満月とその前後の時よりは新月とその前後の時の方が要注意である事を筆者は想定しています。
 今回の新月では大きさそれ自体はまだ平均クラスと言う程度、更に今年のピークは(火山を含めて)5月~7月と言うのであれば、今から活発になってしまっては5月~7月は一体どれだけ活発になってしまうので、2月、3月はどちらかと言えば静穏期かとも考えています。
 実際には地震トリガーや火山活動の要因は月齢だけでは無い事、地殻やプレートの動きとそれによる歪(ストレス)の貯まり具合とその発散タイミングがズレてしまえば、月齢トリガーの面では静穏機ではあっても、大地震や火山活動も場合によっては発生してしまうわけで、100%の確率と言うわけでは有りません。
 去年も4月~6月が一つのピークだろうと当ブログでは熊本地震より前の記事で書き、確かに4月と6月は実際に活発だったのですが、5月が静穏だったのです。
 あれだけ去年4月に大地震があればストレス発散した後の時期と言う「波で言えば谷」にあたる時期が5月に有ったのかも知れませんが、筆者には今もって謎です。
 「時計回りの法則」が該当するのかどうかはわかりませんが、もし該当するとなると、去年11月13日のニュージーランドでの大地震の後、2月10日のフィリピンでのM6.5の地震が約3ヶ月後に当たりますから、これから2~3ヶ月後、早ければ1ヶ月後からあたりがどちらかと言えばやや注意でそれは3~5月、そして火山活動はそれに少し遅れる事が多いので7月までがやや注意かと言うモデルも考えていますが、このスピードの要因も多要素であり、全容は把握できません。
 そして時計回りになるにしても前後しながら進行する事が多く、これも傾向把握を複雑化させています。
  

自然災害 仕組みとアプローチ -  昨日発生した千葉県東方沖の地震 M5.4 について

2017-02-20 00:38:53 | 地震 津波
 昨日は千葉県東方沖の地震 M5.4 最大震度4 の地震が有りました。
 2017年2月18日 14時05分ごろ以降の地震は次の通りです。
 
2017年2月19日 19時25分ごろ 千葉県北東部     M3.4 最大震度1  D60
2017年2月19日 18時19分ごろ 千葉県東方沖     M5.4 最大震度4  D60
2017年2月19日 15時02分ごろ 福島県沖     M4.2 最大震度3
2017年2月19日 14時51分ごろ 山梨県東部・富士五湖 M2.2 最大震度1
2017年2月19日 10時53分ごろ 青森県東方沖     M3.7 最大震度1
2017年2月19日 7時21分ごろ 茨城県北部     M3.6 最大震度2  
2017年2月18日 23時25分ごろ 千葉県北西部     M3.5 最大震度1  D70
2017年2月18日 21時11分ごろ 茨城県南部     M2.9 最大震度1  D50
2017年2月18日 19時42分ごろ 周防灘         M3.6 最大震度2
2017年2月18日 14時05分ごろ 茨城県南部     M3.2 最大震度1  D50

 右端のDと言うのは震源の深さです。
 Dをつけたものは震源の深さが50km~70kmのものでまとまってます。
 フィリピン海プレートが北米プレートに潜り込んだ先端部やその周辺あたりで少し動いたのでしょうか。
 2017年2月19日 14時51分ごろ 山梨県東部・富士五湖 M2.2 最大震度1
と言うのも、その関連で相模トラフの延長上で地殻が動いたと考えられなくも有りません。
 M5以上の地震について見ると、クジラが打ち上げられたニュージーランドではその後に地震はかなり離れた、

引用開始(一部抜粋)

http://www.emsc-csem.org/Earthquake/?filter=yes&min_mag=5&min_intens=0&max_intens=8&view=2

2017-02-11 20:18:54.4 42.70 S 172.76 E 19 5.0 SOUTH ISLAND OF NEW ZEALAND

引用終了

上記以外は無く、環太平洋西側では北半球での地震の比が多くなって来ています。

引用開始(一部抜粋)

http://www.emsc-csem.org/Earthquake/?filter=yes

2017-02-19 10:42:07.7
4hr 48min ago
13.76 N 147.55 E 10 5.1 MARIANA ISLANDS REGION
5 IV 2017-02-19 09:19:31.7
6hr 10min ago
35.67 N 140.63 E 54 5.4 NEAR EAST COAST OF HONSHU, JAPAN
2017-02-18 22:22:58.6 13.45 N 145.90 E 30 5.1 GUAM REGION
2017-02-18 12:10:14.4 23.91 S 66.74 W 185 6.4 JUJUY, ARGENTINA
2017-02-17 11:21:26.6 2.42 S 140.05 E 3 5.2 NEAR N COAST OF PAPUA, INDONESIA
2017-02-16 21:44:05.8 18.77 N 145.10 E 364 5.1 PAGAN REG., N. MARIANA ISLANDS
2017-02-16 12:10:00.7 20.70 S 178.58 W 590 5.3 FIJI REGION

引用終了

 時計回りでそろそろ日本に来るのかどうかと言う所ですが、現時点では地震が小さいのと、まだ少し早いという気もします。
 もう少し様子を見ないと何とも言えないと言う所です。

自然災害 仕組みとアプローチ -  井伊直虎は実際に女性だったのか

2017-02-19 09:23:38 | 地震 津波
 前回や以前の記事で書きました通り、井伊一族は難しい立場をどう乗越えるかで、少なくとも名目は女性である直虎を城主にしたようでした。
 井伊直虎が実は男だったかどうかについては、以前の記事で書きました通りであまり気にしてもも意味は無いと考えていましたが、ネットなどを見ていると熱い論議がなされているようなので、今回はこの点を記事にしてみました。 
 実際に女性だったとする説の例は次のものです。

 引用開始(一部抜粋)

http://news.goo.ne.jp/article/dot/entertainment/dot-2017012600151.html

「大河ドラマ」時代考証者が「男性説」に反論…「直虎が女性だった」と断言できる根拠

 小和田氏は、新史料によって新たに浮上した「直虎=男性」説に反論している。理由は主に次の3点だ。
・史料は聞き書きなので、江戸時代の井伊家の家臣にこうした伝承があったといったことは分かっても、信憑性は薄い。
・仮に、新野左馬助親矩のおいが井伊次郎を名乗ったとしても、新史料で「井伊次郎=直虎」という記述はない。
・井伊氏の惣領の仮名(けみょう)は代々、「次郎」で、だからこそ、龍潭寺(りょうたんじ)の南渓和尚も、惣領直盛の一人娘の出家に際し、次郎法師という名を与えた。次郎法師がいるのに、別の人間が次郎を名乗るとは考えにくい。
 新たに見つかった史料が1735年(享保20年)に編集されたものである点から小和田氏は、「江戸時代の人にとっては“おんな城主”の存在を考えにくかったのでは? 大名の無嗣断絶の例が多く“家督は男が継ぐ”という先入観があり、このような伝承ができたとも考えられる」と指摘する。そのうえで、あらためて「次郎法師(直虎)が一時的にではあれ、井伊谷を支配していたことは次郎法師の印判状(『龍潭寺文書』)の存在によって明らか」と、「直虎=おんな城主」説を力説した。

引用終了

 まず直虎が女性だったかどうかについてですが、結論から書きますと筆者も井伊直虎が実際に女性だったと考えています。 
 ただその理由となると、これは筆者の見方に過ぎませんが、引用した資料にある点以外にも有ると見てます。
 例えば実は男だったのではないか?と推定される古文書などが出て来るのは、城主の直虎が出す書状などの実務を実際は南渓和尚がサポートしているうちに女性の表現に編集しないまま送ってしまった場合、或いは直虎本人が書いたりチェックしたりする場合でも城主からの書状が男が書いた文体の方が都合が良かった場合などが有ったのが要因ではなかったかと考えています。
 ただ生まれたばかりの直虎は実は男だったのを、井伊家の家系断絶を避ける為に親族や知人、或いはこれに限らず選りすぐりの聡明な小さな女子に親族が摩り替えたと言う可能性は有ると思います。
 親族を見るとわかりますが、直虎の祖父の子孫は直虎が生まれるまで、井伊家は男ばかりなのです。
 それで女姓を一人存在させておく事で万が一のリスクに備えるようにした、と言う可能性は十分有り、その摩り替えの前に記録された資料を判断材用にされた可能性がある、と言うのも或いは有るのかも知れないとは思うのです。
 いずれにしても筆者は有る程度の年齢から直虎は実際に女性だったと考えています。
 そして実際に女性だったと考えるもう一つの理由は、井伊領が間接的には今川氏真の配下であったわけですから、今川氏との軍議など多くの会合などに出席していないわけは無い事で、この時に男が女装していたらわかるだろうと言うものです。
 更に直虎のいる城内の家臣には今川氏真の息がかかった者も少なくなかったと見られる事から、いくら何でも男が女装していたとしてら見破られるだろうと思われるのです。
 そして男が女装したのが今川氏真の知る所となれば、本当に直虎は命を狙われたと考えるのが普通ではないでしょうか。
 以上の事から、少なくとも有る程度の年齢からは実際に女性だった、と見ています。
 果たして真相はどうだったのでしょうか。

自然災害 仕組みとアプローチ -  中央構造線と赤石構造線 そして井伊一族

2017-02-18 08:25:04 | 地震 津波

 戦国時代、井伊一族が強力になれない内に何故、今川氏や武田氏などの強力な大名に囲まれる事になってしまったのか?について分析して見ました。
 井伊直虎の居城、井伊谷城のある井伊谷とその周辺のエリアについて調べてみると、中央構造線とここから分岐した赤石構造線に挟まれた地域だとわかります。
 そして赤石構造線沿いには天竜川が流れ、中央構造線にはほぼこれに沿って豊川が流れており、これが当時とその以前から信州や甲州など、当時の甲斐との交通や物流の要となっていたはずで、周囲の複数の大名から牽制の対象になりやすかった事、そして海岸伝いで尾張と駿河との東西交通も南アルプス横断では無理で、やはりここ遠江や三河あたりを通るしか無いわけで、やはり交通や物流の要であったはずとなり、それは尾張や駿河や信州、甲州などの甲斐勢力から牽制の対象になりやすかったのだと思われます。
 丁度、今風に言えば当時は交差点のような機能を持つ場所だったので、周囲の政治、経済などのブロックである大名から影響を受けやすかったのでしょう。
 交通の要所と言う事は、そのエリアだけについての経済力は強くなりやすいのですが、一方ではこのように周囲の政治、経済などのブロックである大名同士の牽制の場、或いは大名からの牽制の場となりやすい、そう言う場所が三河や遠江だったと考えています。
 井伊一族の拠点、井伊谷も広義ではこうした交差点のような場所に有り、影響を受け続けていました。
 そして家康の松平氏(徳川氏)も同様です。家康に人質時代が有ったのもその影響と言えるのではないでしょうか。

引用開始 2件(一部抜粋)

http://www.osk.janis.or.jp/~mtl-muse/subindex03.htm
日本列島の骨組みを組み替えた大断層

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1489328179?__ysp=6LWk55%2Bz5qeL6YCg57ea
天竜川の所にある赤石構造帯とはどういうものですか、どのようにして出来たのですか。

中央構造線上の静岡県水窪から天竜市二俣を通り天竜河口沖へ赤石構造線、南信濃村和田から静岡県森町西方へ光明断が遠州灘へ向って分岐しています,この2本の断層にはさまれた帯状の地域が赤石構造帯です
赤石構造線にそって天竜川が流れています
西南日本は時計まわり回転で南下したため西南日本の東は伊豆、小笠原海底山脈と強く衝突し、くの字型に強くくい込みました
中央構造線が折れ曲がり赤石構造帯が生じ中央構造線と赤石構造線や光明断層を一直線に結んだ断層線を境に東側が60kmずれて動いたのです

引用終了

自然災害 仕組みとアプローチ -  桶狭間の戦い 今川軍の兵力についてどう見るか

2017-02-15 23:10:48 | 地震 津波
 信長公記に記されている今川軍の兵力45000と言う記述にに関しても、疑問を持つ人は多いようです。
 2月9日と2月10日の記事で書きました「今川軍を20000とした場合」と言うのは、一例としてなので、本当に20000だったのかはわかりません。
 織田方と今川方の石高の比率の問題なので、仮に今川方の兵力が25000であったならその分、織田方も約1.25倍前後となるわけです。
 それにしても信長公記に記されている今川軍の45000と言うのは多すぎないか、と言う話が多いのですが、実際の戦闘員はこれほどはいなかったのは確かだと思います。
 大体、実際の戦闘員は20000~30000位だったろうと筆者は考えています。
 今川方は遠征ですから野戦の陣営を設置する工務部隊、上層クラスが地域の寺や民家などに宿泊する手配をする者、衣服の洗濯などの班、食料調達、調理などをする班などがあったはずで、この分の間接部門である非戦闘要員がかなりいたのではないでしょうか。
 それと忘れていけないのは、上記の衣食住の調達班にもこれに属するのかも知れませんが、現地調達を強引にする「乱取り」部隊です。
 「乱取り」と言うと何か兵士が武器をちらつかせて農家や町民から奪うような印象かも知れませんが、実際は大軍である今川方であれば特に逆らわずに「乱取りされるまま」と言う民家、農家は多かったばかりか、後の今川氏の支配を予想して自ら物を差し出す民衆もあったのかも知れません。
 こう言う乱取りをするのには別に戦闘員でなくても良いわけで、それでも少し危険ならば乱取りする者数人か数十人あたりに一人とかの兵を置いてニラミを効かせた可能性も有り、状況ならば戦いなどまるで出来ない普通の男でも一応は「今川軍の兵力」とカウントされていたのではないでしょうか。
 だとすると「乱取り」目的で遠征に参加した悪い者も少なからずいて、今川軍の進軍の話しを聞いて雪だるま式に数が膨らんだと言う可能性にもなるわけで、そうなると45000と言う数字になった可能性もゼロではなく、そしてこうした「乱取り」や間接部門の事しか出来ない「戦闘の役になど立たない衆」などなら、精鋭部隊でしか構成されていない信長の織田軍にとって相手ではなかったのではないでしょうか。
 一方、以前の記事でも書きましたが、信長は戦闘が長引いた場合は美濃の斉藤義龍に今川軍と連携をされるとオシマイな事がわかっていたと思われるので、もともと野営のための衣食住の要因など殆ど連れて来ていなかったと考えています。