快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

自然災害 仕組みとアプローチ -  北極圏の海底から謎の音 と言う話のその後

2017-02-04 19:16:22 | 地震 津波
 1月22日の記事にした「北極圏の海底から謎の音」の件ですが、その後のはっきりした調査結果がわかりません。
 あれからもう10日以上も経っているのにです。
 仮に原因が特定できないとしても、それならそれでまだ不明、或いは仮説の域とかの状況について報道でもあるのか、と言うとその後にこの件に関してニュースもサイトでの公式発表も筆者には探せていません。
 その後に近いエリアで有ったあの地震はどうなったか?と言うと、次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

http://www.emsc-csem.org/Earthquake/?filter=yes

2017-01-09 17:55:35.1 74.47 N 92.49 W 10 5.2 DEVON ISLAND, NUNAVUT, CANADA
2017-01-08 23:47:12.4 74.31 N 92.29 W 20 6.1 DEVON ISLAND, NUNAVUT, CANADA

引用終了

 M1以上で検索してもM2以上からしかデータは拾っていないようなのですが、それにしてもM2すら余震が無いのも不思議です。
 そしていなくなったと言う動物は戻って来ているのでしょうか?
 わからないならそれはそれでテレビなどの報道で流せば視聴率が多少取れるような気がするのですが、多くの方はあまり関心が無いのでしょうか?
 

自然災害 仕組みとアプローチ -  桶狭間の戦い 当日の荒天が無かった場合にどうなっていたのか?

2017-02-03 19:07:44 | 地震 津波
 では桶狭間の戦いに於いて当日の荒天が無かった場合にどうなっていたか? について考えてみたいと思います。
 結論から書きますと、これまでの記事で書いた通り、信長はとりあえず「桶狭間」では今川軍を撃退できたと考えています。
 ただ撃退と言っても今川義元を討ち取れたか、或いは今川方の主な武将を討てたかどうかはわかりません。
 「中入り部隊」は荒天がなければ良い位置取りができなかった可能性が有ります。
 その場合は今川氏真が生き残ったのは史実と同じですが、それ以外に今川義元か主だった武将の内の何人かは生き残った可能性が有ります。
 そうすると、今川方は今川氏真と残った有力武将と兵力で体制立て直しを行い、迎え撃つ事になるのです。
 大高城や丸根砦、鷲津砦の松平氏の部隊、鳴海城の岡部元信の部隊、そして沓掛城にももし今川方の兵を多く残して有れば、それらを総動員して信長の織田軍を熱田、清洲の帰らせないように鳴海城とその東方に集結して迎え撃ち、織田軍を知多半島に追いやって行く事になります。
 これだけの反撃になってしまうかどうかは、どれだけ織田方の「中入り」部隊の兵力が有ったかにもよるでしょうし、どれだけ良い位置取りが出来たかにもよるかと思われます。
 それによって今川方の指揮官クラスである有力武将をどれだけ討ち取れたかが決まって来るからです。
 また織田軍が今川軍を撃退できるまでの時間も問題です。
 夜戦のまでもつれ込んでしまうと、決着が着くのは朝方となる可能性が高く、そうなると大高城や丸根砦、鷲津砦の松平氏の部隊は休憩が有る程度とれていた場合に、桶狭間や鳴海城やその周辺に速足で行けるまで体力は回復していたかも知れません。
 そうすると最悪の場合ですが、信長は「桶狭間の戦い」では勝てても、その帰路で迎撃に合ったか、知多半島に追いやられて討ち取られた可能性もゼロでは無いと考えています。
 そうなっていれば「桶狭間の戦い」と言う前哨戦では織田軍が勝ち、本戦の仮称「鳴海の戦い」で今川軍は最終勝利した、と歴史に刻まれていまかも知れません。
 どれもこれも、どれだけ今川義元や今川方の有力武将が生き残れたか、桶狭間の戦いがどれだけ長引いて松平氏の兵が体力回復したか、で今川氏真がリベンジ戦をどの規模で行う決断をっしたか、と言う事ににかかって来ると言うところではないでしょうか。
 それからもう一つ。
 「それでは仮に荒天が夜中まで長引いていたらどうなったか」ですが、これも信長にはかなり危なかったのではないか?と思います。
 荒天の最中は日中でも今川義元を討てるまでは行かなかったかも知れないのと、夜間になれば尚更です。
 そうなると夜襲か明け方からの戦闘となり、大高城や丸根砦、鷲津砦の松平氏の部隊は今川義元のいる近くに集結してくる事になった可能性が有ります。
 そして移動して来た織田軍の食料や飲み水はどれだけ余裕が有ったのか?となると、余裕はあまり無かったのではないでしょうか。
 戦闘が長引いていれば信長は「桶狭間の戦い」では勝てても、鳴海城周辺か知多半島のどこかで討ち取られていたかも知れません。

 
 
 
 

自然災害 仕組みとアプローチ -  桶狭間の戦い 当日が荒天でなくても信長は勝てた と言う考え方

2017-02-02 18:18:03 | 地震 津波
 前回迄は桶狭間の戦いで荒天が発生した状況について書きました。
 これだけ読むと「この荒天がなければ信長は勝てなかった」と言う印象になってしまうかも知れませんが、もう少し分析すれば「どうもそうでは無い」と言う事になって来ます。
 何故なら「ならば信長はこの荒天を予め知っていたのか?」と言うと決してそれは有り得ないからです。
 では「荒天を前提にしていない無謀な突撃をしたのか?」となるのですが、そんなはずは無く、筆者は次の様に考えています。 

 戦いのセンスを磨くのに良い趣味の鷹狩りで既にハンターのセンスが磨かれていた信長は「中入り」と言う戦闘方法をこの戦いで採っていた。
 この桶狭間の戦いでは、「中入り」と言っても「本陣が動かずに迂回部隊が奇襲するタイプ」ではなく、「敵から見られながら移動する本隊と、敵から見えないように移動、進軍して潜行、潜伏する中入り部隊に分けるタイプ」の戦闘方法が採られていた。
 織田軍の潜行、潜伏するこの「中入り部隊」の兵力はもしかすると少なくはなかった可能性も有る、と筆者は考えています。
 そして信長は移動する本隊を囮にして、予め中入り部隊には今川軍に気が付かれないように、少しでも今川義元のホンモノを討ち取るのに良い位置取りをするよう指示していた。
 そしてそこへ想定外の暴風雨が起きた。
 中入り部隊はこの暴風雨で移動をかなり急に、そして大胆に行っても、あるいは今川義元本陣から見え安い所に行っても荒天でない時よりは今側軍からはわからない状態になった。
 見晴らしの良い高台などにいた今川方の見張りも、この暴風雨で一時的に窪地や木陰に姿勢を低くしていた一方で、蜜林に近い林の中を移動する織田軍の「中入り部隊」は暴風雨はあまり影響を受ける事無く移動が出来た。
 なるべく良い位置取りをするよう、予め中入り部隊に指示していた信長はこの暴風雨でかなり良い位置取りを中入り部隊が出来ている事を確信していた。
 そして信長はこの暴風雨が止むのを待った。何故なら中入り部隊への合図の狼煙としての黒煙を焚くのに雨では困難だし、風が強いと黒煙がなびいてしまいわかりにくいから
 そして暴風雨が止むとすぐにこの黒煙を上げて中入り部隊に「一斉突撃」を知らせた。
 時間を置かずに「一斉突撃」した理由は、「中入り部隊」が今川方に発見されない内に攻撃を始める為と思われます。
 そして本隊と林の中を潜行、潜伏していた中入り部隊と共に今川義元本陣に「黒煙を上げながら」襲いかかって討ち取った。

 筆者はこう見ました。
 「仮に暴風雨が無くてもこの作戦では清洲城に篭城するよりは勝率が高いだけでなく、本陣の今川本隊とはほぼ互角に戦えたか、或いはミスやアクシデントが無ければ織田軍の勝てる事を信長は計算していた。そして雹も含んでいたかも知れないこの暴風雨が日没にならない内に止む事で狼煙の黒煙を上げるのに好都合となったと言う「絶好の好条件」が重なり、僅か2時間前後の短時間で決着する事が出来た。」
 「信長が勝てたのは荒天の為では無いが、短時間で圧勝できたのは荒天によるもの」と言うのが筆者の考えた「桶狭間の戦いで起きた出来事」です。

自然災害 仕組みとアプローチ -  桶狭間の戦い 当時の荒天状況についての解釈

2017-02-01 20:54:26 | 地震 津波
 1月29日の記事では桶狭間の戦いと当時の荒天について、雹と雨とする引用例をあげましたが、別の解釈もあるようです。

 ます原文ですが、

引用開始(一部抜粋)

信長公記   戦国史料叢書2 人物往来社

右の衆、手々に頸を取り持ち参られ候。右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる沓掛の到下の松の本に、二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。余の事に、熱田大明神の神戦かと申し候なり。空晴るゝを御覧じ、信長槍をおつ取って、大音声を上げて、すは、かゝれ < と仰せられ、黒煙を立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れたり。弓、槍、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れたり。

引用終了

 そして現代語訳が、

引用開始(一部抜粋)

「現代語訳 信長公記 上」/太田牛一著/中川太一訳/新人物往来社

山ぎわまで軍勢を寄せた時、激しいにわか雨が石か氷をなげうつように降りだした。北西を向いて布陣した敵には、雨が顔に降りつけた。味方には後方から降りかかった。沓懸の峠の松の根方に、二抱え三抱えもある楠の木が、雨で東に降り倒された。

引用終了

 上記では雹ではなく、雨が石か氷をなげうつような激しい雨だった事、そして風も相当な強さだった事がわかります。
 ただこの「二抱え三抱えもある楠の木が、雨で東に降り倒された。」と言うのは疑問です。
 それだけの猛烈な風ならば織田軍、今川軍共に人や武器、その他も吹き飛ばされてしまうからです。
 そのような状態の損害状況については書かれていません。
 なので本当にそのような大木が倒されたのではなく、「まるで倒されるようになびいた」と言う事か、或い「大木ではあるが、老木で既に中が空洞か或いは虫食いか腐りかけた状態だったので多少の強風で倒れた」と言う事ではないかと筆者は解釈しています。