快気分析

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自然災害 仕組みとアプローチ -  桶狭間の戦い 当時の兵力比について再考察

2017-02-10 08:33:11 | 地震 津波
 前回の記事ですが、一部誤植等が有りましたので訂正します。
 1~2行目 
 「記述にに関して」 は 「記述に関して」 に訂正。

 8行目
 「桶狭間の戦いの戦いの前年に」 は 「桶狭間の戦いの前年に」 に訂正。
 
 16行目は誤解してしまうかも知れない表現だったので念の為訂正しておきます。
 「陥落しなかった丸根砦・鷲津砦以外の砦を守備していたとか」 は 「陥落しなかった砦、つまり丸根砦・鷲津砦以外の砦を守備していたとか」 に訂正。

 それと誤植ではないのですが再検討して見たところ、織田軍の砦(丹下砦・善照寺砦・中嶋砦、陥落した丸根砦・鷲津砦)に残されていた兵力を考えた方が良いと思われました。
 大体ですが、筆者は総数で3000は有ったのではないかと考えていますが、その配分はどれだけだったかはわかりません。
 そうすると織田方の攻撃兵力は前回の記事で書いた数から3000を引いた数となります。
 つまり直接の攻撃は約4260~5600か、或いは約5170~6670。
 そしてそのうち、今川氏に丸見えになる囮の部隊、或いは情報が筒抜けになってもかまわない部隊が「2000足らず」。
 これを太田牛一が直接間接で聞いた通りに「信長公記」で書いたのだと筆者は見ています。
 「何故太田牛一が直接間接で聞いた兵力が少ないのか?」と言うと、信長は本当の作戦や兵力配分を重臣にも話さなかった事がしばしば有り、それは家臣経由で情報が敵方に漏れるのを防ぐ為と言われる通説に筆者も同感だからです。
 信長は今川方には少数で攻撃するように思わせたかったでしょうし、美濃の斉藤義龍にも、尾張と美濃の国境付近には多くの兵力を残していたと思わせたかった、この2つの点だと考えられます。
 以上から今川方に知られても良い数以外の攻撃部隊は、2000を差引いた値となり、それは
約2260~3600か、或いは、3170~4670。
 大体、信長の精鋭部隊なら、油断している今側方の数千は討ち取れると思われます。


 

自然災害 仕組みとアプローチ -  桶狭間の戦い 当時の兵力比についての疑問

2017-02-09 21:21:30 | 地震 津波
 信長公記に記されている織田軍(2000足らず)と今川軍(45000)と言う兵力についての記述にに関して、疑問を持つ人は多いようです。
 筆者も同感で織田軍はもっと多かったし、今川軍はもっと少なかったと考えています。
 では実際にどの位だったのか?
 よく裏付けとして用いられるのは当時の石高です。
 桶狭間の戦いの1560年から38年も後の資料になりますが、太閤検地の資料が通常参考にされているようです。
 この資料では桶狭間の戦いの戦いの前年に尾張統一した信長の織田氏について、石高を約57.2万石、今川氏の駿河、遠江、今川方の松平氏の三河、それに三国同盟を結んでいた後北条氏や武田氏の脅威はなった為、通常残しておく兵力の相当石高7万石として、合わせてですが、これは約76.6万石。
 これだけ見るとあまり変らない位の石高のように見えて来て、もしかしたら信長の兵力は今川方に近かったのではないか?と思えてしまうかも知れません。
 しかしこれについて筆者は次のように見ています。
 まず尾張の石高ですが、太閤検地の時の尾張の所領は知多半島やそのやや北、北西部も含んでいます。
 しかしこのエリアの領主は水野信元であり、信長の織田氏方になってはいますが、やや中立的で、親族の部隊は陥落しなかった丸根砦・鷲津砦以外の砦を守備していたとか、戦闘に参加はしたとかはあるようですが、水野信元の名前で直属部隊を桶狭間の戦いに参加させていたと言う資料は見つけられていません。
 なのでこの分である約2000~4000程兵力を差引いて、も良いかも知れませんが、織田軍の勝利がほぼ確実になった時点では戦闘に直接参加したという可能性は有るかもしれないとは思います。(匿名参加で)
 それともう一つ、信長の織田氏ですが、当時は美濃の斎藤義龍と紛争状態だった事も忘れてはいけません。
 「斉藤道三は信長の正室 濃姫の父だから美濃と尾張は同盟関係だったのでは?」とつい思えてしまうのですが、斉藤道三の長男、斎藤義龍は道三とは仲が悪く、1556年に長良川の戦いで父である斉藤道三を討ち、美濃の領主となっていたのでした。
 その後は信長の尾張とは交戦するようになっていた為、信長は1560年の桶狭間の戦いでは、美濃の斉藤氏からの攻撃も想定していなければならなかったはずです。
 このような状況では織田氏の総兵力の1/3は美濃からの守備に配分しなければならなかったと思われますが、もしかすると表向きはこのように配分しておくように見せながら、実は4/5程度は桶狭間の戦いに配分していた可能性も有ったかも知れません。
 これに比べて今川氏は当時、後北条氏と武田氏とで三国同盟を結んでいた為、後方や本拠地に兵を置く必要が殆ど無かったと筆者は見ています。なので尾張まで遠征したのも頷けます。
 大体、筆者はこのように見ていますので、仮に今川氏が松平氏(後の徳川家康の部隊)を含めて20000とした場合、単純に石高なら織田軍は、2万の57.2/76.6ですから、約14900。
 それから水野氏の2000~4000を差引くと10900~12900。
 更にその2/3であるなら約7260~8600。
 仮に3/4であったなら約8170~9670。
 これならば今川義元本陣が仮に約5000程度しかなかったならば織田方が勝てると思われるし、仮に今川方の周囲の兵力が1万近くいたとしても乱取りで分散していたり、水田が泥で集結出来なかったり、或いは武具を外していたりや兵器から離れていた場合等々、織田軍の急襲を想定していない態勢だったならば織田軍は勝てたかも知れません。
 ただ以前に記事でも書きましたが、仮に戦闘が長引いた場合は大高城の松平(後の徳川家康)の援軍が来るのは可能で有り、今川氏真の残存兵力も結集すれば或いはかなり接近した兵力になったとは思います。
 そしてこうして分析していて思ったのですが、今川氏か松平氏が美濃の斉藤義龍に早馬などで援軍要請すれば、ほぼ間違い無く信長の織田軍は今川氏と松平氏と斉藤氏挟み討ちになったのではないでしょうか。
 太閤検地の資料では美濃の石高が54万石となっています。美濃の斉藤氏は兵力の点でも、実践の戦闘能力の面でも半端なものでは有りません。
 やはり信長は強風雨や梅雨に救われた面は有るのだと思います。
 
 

自然災害 仕組みとアプローチ -  桶狭間の戦い 信長が雨が止んだ直後に突撃したのは何故なのか?

2017-02-07 13:00:13 | 地震 津波
 桶狭間の戦いでは、信長の織田軍のうち急襲部隊は雨が止んだ直後に突撃したように書かれていますが、それは何故なのか? について考察してみました。
 黒煙を上げやすいだけならば、雨が止んだ後、少し間を置いても良いのですが、どうも分析すると雨があがった直後と言うのは次のような点で織田軍に有利だった事がわかります。
 当時、強い風雨では風にあたるのと、どうせ雨で視界は悪いので今川軍は見晴らしの良い高台から窪地に移動したものと考えられます。高台では風が強くて立っていられなかったかも知れません。
 更に雨も強かった為、林の中か建物の下に移動した、つまり林の中は見通しが悪いから織田軍に気がつきにくいのは確かと思われます。
 そしてその強雨も大粒だったとすると当時は今のようなレインコートも無く高機能な傘も無かった上、仮に雨を防ぐ蓑などが有ったとしても、急な雨だった為それを取りに行く為に見張りや戦闘の態勢を崩した可能性が高かった事。そしてそしてその時には武具の弓や鉄砲、槍や刀と兵士の距離が離れてしまった可能性が高い事、更に風も強かったので蓑だったら風で煽られて雨で衣服まで濡れてしまい、織田軍が近くにいると知らなかったならば、雨が上がるや否や武具や衣服を乾かそうと武具を外し始めていた、と言う事も考えられます。
 そしてこうした状況で雨が止んで今川軍の見張りが見通しの良い場所に移動しようとする、まさにその直前に織田軍は急襲したのではないでしょうか。

自然災害 仕組みとアプローチ -  北極圏の海底から謎の音 動物達はどこへ消えたのか? 謎解きは再見直し

2017-02-06 21:52:24 | 地震 津波
 前回の記事で「つまり氷が異音と共に亀裂が入ったり割れる状況になって動物達が逃げ出し、イヌイットの居住エリア、狩猟エリアでは見当たらなくなった、と言う事ではないでしょうか。」と書いたのですが、その後も関係する事をネットで見ていて、この説は未だ確かではないと思うようになりました。
 音に関して一番重要な点が確認されていなかったからです。
 それは「ビープ音とか言われるその音が規則的な音なのか、不規則な音なのか」と言う事です。
 氷が割れる音ならば不規則なはずですが、ソナーなどの探知機ならば規則的なはずです。
 この点について書かれているものがネットでは見当たりません。
 ここがわからなければ何とも言えない、となるのですが、何故この点をはっきり書いてあるものが見当たらないのか、わかりません。

自然災害 仕組みとアプローチ -  北極圏の海底から謎の音 動物達はどこへ消えたのか? そして謎解き

2017-02-05 13:37:44 | 地震 津波
 北極圏の海底から謎の音について原因の追跡と筆者の考察を今回は記事にして見ました。
 まず記事で書きたい事は、「見られなくなった動物達の死骸が特に見当たらない」、と言う事です。
 これは、これら動物が死んだのではなく移動した、と考えるのが普通ではないでしょうか。
 それは何処へ?となればそれは「海中からの異音がしないエリアへ」となるのは当然と考えられます。
 話は別の観点になりますが、筆者は次のように考えています。
 それは「海底からと思われた音は、実は海底からでは無く、氷の音が海底に届いてそれが反射したものだった」と言う事です。
 そして仮に海底からの反射音だった場合、動物は海底から遠い陸上部に集まる傾向があるのではないか、そして動物の死骸が見当たらないのはその為では動物が死んだのではなく、「陸上部に異動できる動物は移動し、移動できない動物は異音のするエリアから離れた海域に移動した為」、となります。
 実際に動物がいなくなったと認識している地元住民とはイヌイットであるようです。

引用開始(一部抜粋)

http://www.afpbb.com/articles/-/3114817

 異音が確認されたのは昨年末。イグルーリック(Igloolik)村に暮らす先住民イヌイット(Inuit)の猟師らが、北西航路(Northwest Passage)とハドソン湾(Hudson Bay)の間に位置するフューリー・ヘクラ海峡(Fury and Hecla Strait)の沖合でビープ音を複数回耳にした。
 この海域では通常、イッカクやホッキョククジラ、ワモンアザラシ、アゴヒゲアザラシなどが頻繁に姿を現すが、猟師たちによると昨年から動物たちの姿が見られなくなったという。
 地元ヌナブト準州(Nunavut)のポール・クアッサ(Paul Quassa)議員は、「動物がまったくいなくなった」と述べ、異音が原因との見方を示した。
 最初に異音を報告した猟師らと共に現場を視察したクアッサ議員によると、正体が何であれ、音は「海底から聞こえ」、また大きかったという。
 カナダ軍は昨年11月、センサー装置を搭載した哨戒機を出動させたが、異音は確認されなかった。しかしイヌイットからの懸念の声を受け、軍は音響の専門家2人を現地に派遣し、今月25日から2月2日まで実施される予備役兵によるパトロールに参加させるという。(c)AFP

引用終了

 つまり氷が異音と共に亀裂が入ったり割れる状況になって動物達が逃げ出し、イヌイットの居住エリア、狩猟エリアでは見当たらなくなった、と言う事ではないでしょうか。
 現状では「センサー装置を搭載した哨戒機を出動させたが、異音は確認されなかった。」との事ですが、実際の元々の音源が海底なのか、地中なのか?と言うのは「海に浮かぶ氷の上端と下端と、海底地下数十メートルと、そして陸上部の地下にそれぞれ聴音装置をつければかなりの状況はわかる」と思うのです。