快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  100km以上の沖合に福島原発処理水放出するカネなんかビタ一文も出さない狂気

2023-07-13 19:14:03 | 国富の獲得か流出か
 「福島復興としての東京五輪」と言うネタでフクシマを散々利用して東京五輪を誘致し、結局は福島県に競技場など一つも設置しなかったので福島県にはお金は落ちず、挙句のはてにたった1km程度の沖に原発処理水を放出するという、普通じゃあ考えられない事をして諸外国の批判を浴びてるわけですが、「フクシマ復興五輪」とのお題目で数兆円とかの費用が使われ、その割には本当の意味で「フクシマ復興」になる「福島第一原発処理水の放出」には100km以上の沖合に船で輸送して放出するハナシなど全く無く、「100km以上の沖合に福島原発処理水放出するカネなんかビタ一文も出さない」と言う狂気とは一体何なのでしょうか。
 考えられるのは「東日本の水産関連産業にワザと意地悪をしている」、そうでなければ「経産省と農水省が役所としてタテ割りなのでうまく連携がとれていない」と言う事かと思えます。
 個人的には悪意に解釈したくはありませんので、後者の方に考えたいのですが真相はどうなのでしょう。
 仮に後者が要因ならば「タテ割り110番」に該当する案件ですね。

仕組みとアプローチ -  福島原発処理水放出で香港政府が10都県の海産物を禁輸すると発表 仮に100km以上沖に船で運んでから放出ならどうか

2023-07-13 13:47:58 | 国富の獲得か流出か
 福島原発処理水放出で香港政府が10都県の海産物を禁輸すると発表したようです。
 ほら、やっぱり。
 別に香港でなくたってこの福島原発処理水放出をネタにして日本産の水産物の輸入制限、禁止とかをしようとしている国々、或いは制限、禁止されなくても消費者が「買い控え」するケースは多発する可能性が有るのではと心配です。
 どの国だって自国産の水産物をなるべく高値で多く売りたいわけです。
 そうした自国産業保護の傾向は特に新型コロナ以降、或いはウクライナ問題以降に顕著になりつつあるような気もします。
 そんな状態の世界で日本がしかもたった1km程度の沖に処理水を放出するなんて、各国から「格好の餌食」になるのではないでしょうか。多くの国が「手ぐすね引いて日本からの輸入を減らそうと待っている」と思った方が良いでしょう。
 仮に100km以上、できれば数百キロ沖合にまで船で原発処理水を運び、そこで広域に少しずつ放出すれば少なくとも今の方針の場合よりはマシな結果になるように思えますが、実際にやってみないとわかりません。
 ただやってみる価値は有ると考えています。

仕組みとアプローチ -  酷暑の今日 自宅では未だエアコンをしてませんが寒い位になれます

2023-07-11 13:16:37 | エネルギー
 電気代が高騰する中で今日のような酷暑。
 エアコン無しでは熱中症になるリスクも高いのですが、自宅では今日は現時点でエアコンを未だ入れてません。
 何故かって自宅の風呂に折り畳み椅子を置き、浴槽に水を10センチ程度張って容器で「かけ湯」ならぬ「かけ水」しながら10W以下のUSB電源か充電式扇風機で気流を当てると非常に涼しいどころか寒気までする時もあります。
 100Vの扇風機だと感電が怖いのでこれは使わず、充電式ならまず大丈夫。或いはDC5VのUSB電源の扇風機も大体大丈夫なはずですが、AC100Vが例えDC5Ⅴになっていたとしても果たしてどれだけ絶縁トランスで安全とって対地絶縁されてるのかはわからないので少し怖いですね。
 なのでこういうケースでは自宅で太陽光発電した自家消費のシステムからバッテリーのDC12VからDC-DCコンバーターでDC5Vを得るとか、或いは最近のチャージコントローラにはDC5V出力の差し込み口が付いてたりします。
 或いは仮に自宅発電のDC12VからインバーターでAC100Ⅴになったとしても商用電源と違い対地絶縁はされているので、電源アダプタ(AC100Ⅴ-DC5Vコンバーター)を使ったとしても地絡感電のリスクはソーラー系統のインバーター出力側で接地していない(普通はしない、する必要もない)なら大丈夫ですね。
 そんなわけでこの猛暑でも電力消費は僅か10Wでも十分可能な日中です。
 ただこれを睡眠中は出来ないのですが、それはそれで自家発電で対応できる手段がまた有るのです。
 

仕組みとアプローチ -  水野忠重はなぜ「本能寺の変」で脱出できたのか? 家康と明智光秀と水野一族を結ぶもの

2023-07-09 11:25:29 | 家康
 本能寺の変では織田方でしかも京都にいながら脱出に成功できた人達がいます。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89

また刈谷城主の水野忠重(宗兵衛)も、長益同様に信忠に従って妙覚寺から二条御新造に移ったが、難を逃れて、しばらく京都に潜伏位した後、脱出している[190]。『三河物語』によれば、長益だけでなく、山内康豊(一豊の弟)も狭間をくぐって脱出したと云う[153]。

引用終了

 しかしいくら「潜伏」と言ったって当時の明智勢は相当な残党狩りを行っていたわけで、そんなに簡単に見つからないようにできるものなのか? この「潜伏」とは後付けの口実に過ぎないのではないか?と個人的に考えてしまうので、追跡調査してみました。
 今年2月18日の当ブログ記事、サブタイトル「家康と土岐一族の関係 そして水野氏も」の中で書いたのですが、

 「西郷局が母方ではあるものの土岐一族の流れを引いているのは調べているうちに簡単にわかりますが、水野信元も土岐一族、それも明智光秀とも縁戚関係であったと言うのは意外でした。」

 と言う事で水野信元の弟である水野忠重は明智光秀の縁戚にあたるわけです。
 そして緒川水野氏や刈谷水野氏とは違っていても分家筋である常滑水野氏の水野守隆も本能寺の変に関係していて、次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%AE%88%E9%9A%86

水野守隆
(中略)
妻 水野信元娘
(中略)
常滑水野氏は緒川水野氏や刈谷水野氏の分家筋に当たる。
(中略)
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変では安土城で明智光秀に供奉したため、戦後に居城を没収された(『当代記』)[3]。その後は山城国嵯峨に隠遁し、慶長3年(1598年)4月21日に没した[1]。



引用終了

 この状況から水野守隆が実は明智方にかなり深く関与していて明智光秀に働きかけ、水野忠重、勝成父子の脱出をサポートした、と言う可能性はかなり高いと考えています。
 「水野忠重 家康 影武者」などでネット検索すると「水野忠重が家康の影武者をやっていた事もある」と多くのデータが出て来ますが、家康とそれだけに容姿が似ている水野忠重が明智勢に見つからずに果たして脱出できたのでしょうか?
 この点から「明智勢は最初から家康を討つつもりなど無かったし、水野忠重、勝成父子の脱出をサポートした」と言うロジックは十分に考えられると思っています。
 見落としてはならない点がもう一つあり、それは「山内康豊(一豊の弟)も狭間をくぐって脱出したと云う」と言う事です。
 この後、関ヶ原の戦いの前段階で各武将が東軍に着くか、西軍に着くかで迷っていた時に山内一豊が家康に全面的に協力する方針を採ったのを切っ掛けに、各諸将が次々と東軍側につき、その功績で山内一豊は土佐の大名となりました。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E4%B8%80%E8%B1%8A

山内一豊
(中略)
戦後は小山会議で去就を決めかねていた諸侯を徳川加担に向かわせた発言が功績として評価され、土佐国一国・9万8,000石を与えられた。後に、高直しにより20万2,600石を幕府から認められている。

引用終了

 山内一豊は弟の山内康豊を通じて家康と水野一族の強固な軍事連携システムを知っていたからこそ東軍が必ず勝つと信じていたから、或いは本能寺の変の時に水野一族のサポートで脱出させてもらった恩が有ったからではないでしょうか。

仕組みとアプローチ -  なぜ家康は「伊賀越え」をできたのか 水野忠重との関係から考える

2023-07-08 23:06:31 | 家康
 本能寺の変の後、家康ら一行は「伊賀越え」で難を逃れたと言う事は殆ど誰もが知る史実です。
 その伊賀越えですがルートは諸説あり「実は伊賀というよだけでなく甲賀も経由していた」とか「実は伊賀ではなく甲賀を経由していた」の説も有り、いずれも可能性は無視できません。
 ただ伊賀であれ、甲賀であれ、別に伊勢湾に接しているわけではないので、そうすると「何で伊勢北部を通過できたのか?」となります。
 それで調べてみると次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E9%87%8D

水野忠重
(中略)
『寛政譜』では家康の元に戻ったとされているが、これは間違いで、北畠信雄に属し、『織田信雄分限帳』によると、忠重は刈谷、緒川のほか北伊勢にも所領を持ち、都合1万3千貫文を領するとなっている[5]。ただし、家康の実の叔父という立場でもあって、従属関係は複雑であった。

引用終了

 家康の叔父である水野忠重は北伊勢の一部を所領していたのでした。
 このエリアだと甲賀や伊賀と隣接もしているわけで、「伊賀衆や甲賀衆とオトモダチ」だった可能性も考えられなくはありません。
 そうした前提だと家康一行が北伊勢を通り抜け伊勢湾まで無事に着いたのも理解できて来ます。