拒絶の歴史(36)
その夏はたっぷりと汗をかいた。汗をかいた量でしか、自分の決意と意気込みを計れなかった。
チームは段々と一丸となっていき、監督と自分の理想とするものに近付いていった。理想をたてて、それに向かって突進することに全力を傾けたのは、このときが最初で最後かもしれない。その手ごたえとチームの全員の頑張りにぼくは胸を打たれてさえいる。それに打ち込んだからといって誰かが直ぐにほめて賞賛してくれるわけでもないし、多くのメンバーはレギュラーになれずにもいた。だからといって、彼らが必要のない人々の集まりかと問われれば、まったくのことそうではなく、彼らの熱意と働きにもよって、ぼくらのチームワークは保たれていた。
秋からは大会が始まっていった。ぼくらは、順調すぎるぐらいに点差をひろげ、勝利に酔いしれつつあった。ぼくは、油断を恐れていた。完璧の向う側にあるものに到着するには、いくつもの落とし穴を避けなければならない。簡単なミスが、さらにいくつもの失策につながり、それは大きな流れとなってまとわりつき、ぼくら自身を苦しめるであろうことは予想できた。たくさんのチームが、そうやって負けていった。
それでも順調であることは変わりなかった。ぼくは、試合後に裕紀がくれたタオルで自分の汗をぬぐった。そのことは、勝利とともにぼくが行う一連の作業でもあった。このことを行い続けていけば、自分はトップにたてるであろうと考えていた。そして、そのタオルは幸運を呼び込むぼくの一部と化していた。
試合後、ふとこのスポーツを考え付いた英国人というものにも考えが及ぶようになっていく。彼らは、いくつものスポーツを発明し、それは紳士であろうとするには犠牲がつきものなのだ、と教えてくれているようなものだった。さらに自分に負荷をかけ、その重みに負けないことも教わった。自分よりパスを前に投げてはいけない。その点でアメリカ人は、もっと快活であろうとするようにアメリカン・フットボールに熱狂していた。その差に、紳士の国と新興の国の違いがあるようでもあった。こんな便利な腕や指先があるのに、彼らはそれを封じ込め、サッカーという足のスポーツを発明する。そのことを考え、ぼくはぼくなりの国の解釈を組み立てる。
そして、タオルで汗をぬぐう度ごとに、敵も強くなっていき、ぼくらの点差は縮まっていった。彼らの身体は頑丈で、転ぶところで踏みとどまり、抑えるべきところで、するりとかわして逃げていった。だが、それ以上にぼくらも同じだけ逃げ、ぶつかるときは全力でぶつかっていった。
やっと準々決勝も勝ち、残るチームは4チームとなった。ぼくらの対戦相手は、いつも全国大会まですすむ強豪校だった。彼らの監督は、ぼくを知っており、「全力でかかってこいよ」と言ってくれた。もちろん、ぼくはそうするつもりだった。ぼくの3年間の集大成なのである。失敗するわけにはいかなかった。
その前日、ぼくは裕紀と会う。彼女は、10代後半の女性特有の輝きをもっていた。しかし、その集合体として、ぼくは彼女を見ていたわけではなく、唯一の存在だと思っていたかった。
「明日、どう勝てそう?」と、彼女は心配そうな顔をして、ぼくに訊いた。
「むずかしいけど、ここから逃げるわけにもいかないしね」と、ぼくは、彼女に微笑みだけを返す。ぼくの、腕の傷を彼女は触り、「とても、痛そう」とささやいた。その傷のひとつひとつがぼくの存在証明であり、勝利の記念でもあった。
「ああやって走り回っているのも格好いいけど、いつもどっかで心配しちゃう自分もいる」と、彼女は申し訳なさそうに目を伏せて言った。
「だが、あともう2回勝てば、全国に行けるわけだし、そう心配することないよ」
「そうだと、いいんだけど」
「あのタオルをもっていると、勝利に逃げられないことを確信しているんだ」と、いままでの状況をかいつまんで説明した。
「そう、嬉しいな」と彼女は言った。ぼくの数年間のある部分を彼女は知っており、ぼくのこころの多くも彼女の存在が占めていた。その大切さを分かるには、やはり犠牲というものが必要であったのだろうか。
「明日は、最高の自分であるよう頑張るから、いつまでも覚えていてくれるようじっくりと見て置いて」とぼくは言い、彼女と離れる寂しさを隠すように家路についた。
その夏はたっぷりと汗をかいた。汗をかいた量でしか、自分の決意と意気込みを計れなかった。
チームは段々と一丸となっていき、監督と自分の理想とするものに近付いていった。理想をたてて、それに向かって突進することに全力を傾けたのは、このときが最初で最後かもしれない。その手ごたえとチームの全員の頑張りにぼくは胸を打たれてさえいる。それに打ち込んだからといって誰かが直ぐにほめて賞賛してくれるわけでもないし、多くのメンバーはレギュラーになれずにもいた。だからといって、彼らが必要のない人々の集まりかと問われれば、まったくのことそうではなく、彼らの熱意と働きにもよって、ぼくらのチームワークは保たれていた。
秋からは大会が始まっていった。ぼくらは、順調すぎるぐらいに点差をひろげ、勝利に酔いしれつつあった。ぼくは、油断を恐れていた。完璧の向う側にあるものに到着するには、いくつもの落とし穴を避けなければならない。簡単なミスが、さらにいくつもの失策につながり、それは大きな流れとなってまとわりつき、ぼくら自身を苦しめるであろうことは予想できた。たくさんのチームが、そうやって負けていった。
それでも順調であることは変わりなかった。ぼくは、試合後に裕紀がくれたタオルで自分の汗をぬぐった。そのことは、勝利とともにぼくが行う一連の作業でもあった。このことを行い続けていけば、自分はトップにたてるであろうと考えていた。そして、そのタオルは幸運を呼び込むぼくの一部と化していた。
試合後、ふとこのスポーツを考え付いた英国人というものにも考えが及ぶようになっていく。彼らは、いくつものスポーツを発明し、それは紳士であろうとするには犠牲がつきものなのだ、と教えてくれているようなものだった。さらに自分に負荷をかけ、その重みに負けないことも教わった。自分よりパスを前に投げてはいけない。その点でアメリカ人は、もっと快活であろうとするようにアメリカン・フットボールに熱狂していた。その差に、紳士の国と新興の国の違いがあるようでもあった。こんな便利な腕や指先があるのに、彼らはそれを封じ込め、サッカーという足のスポーツを発明する。そのことを考え、ぼくはぼくなりの国の解釈を組み立てる。
そして、タオルで汗をぬぐう度ごとに、敵も強くなっていき、ぼくらの点差は縮まっていった。彼らの身体は頑丈で、転ぶところで踏みとどまり、抑えるべきところで、するりとかわして逃げていった。だが、それ以上にぼくらも同じだけ逃げ、ぶつかるときは全力でぶつかっていった。
やっと準々決勝も勝ち、残るチームは4チームとなった。ぼくらの対戦相手は、いつも全国大会まですすむ強豪校だった。彼らの監督は、ぼくを知っており、「全力でかかってこいよ」と言ってくれた。もちろん、ぼくはそうするつもりだった。ぼくの3年間の集大成なのである。失敗するわけにはいかなかった。
その前日、ぼくは裕紀と会う。彼女は、10代後半の女性特有の輝きをもっていた。しかし、その集合体として、ぼくは彼女を見ていたわけではなく、唯一の存在だと思っていたかった。
「明日、どう勝てそう?」と、彼女は心配そうな顔をして、ぼくに訊いた。
「むずかしいけど、ここから逃げるわけにもいかないしね」と、ぼくは、彼女に微笑みだけを返す。ぼくの、腕の傷を彼女は触り、「とても、痛そう」とささやいた。その傷のひとつひとつがぼくの存在証明であり、勝利の記念でもあった。
「ああやって走り回っているのも格好いいけど、いつもどっかで心配しちゃう自分もいる」と、彼女は申し訳なさそうに目を伏せて言った。
「だが、あともう2回勝てば、全国に行けるわけだし、そう心配することないよ」
「そうだと、いいんだけど」
「あのタオルをもっていると、勝利に逃げられないことを確信しているんだ」と、いままでの状況をかいつまんで説明した。
「そう、嬉しいな」と彼女は言った。ぼくの数年間のある部分を彼女は知っており、ぼくのこころの多くも彼女の存在が占めていた。その大切さを分かるには、やはり犠牲というものが必要であったのだろうか。
「明日は、最高の自分であるよう頑張るから、いつまでも覚えていてくれるようじっくりと見て置いて」とぼくは言い、彼女と離れる寂しさを隠すように家路についた。