(13)
彼女は横でねむっている。
その横で、ぼくは別れの手紙を書こうとしている。現状を清算して、次のステップに踏み込みたいという、自分のどうしようもない衝動があって、このように行動しようとしていたわけだ。
彼女はぼくにとって、申し分のない女性だった。だが、常に見上げる存在でもあったわけである。そのことに不満もないかわりに、そのことが自立できない自分を作っているように思えて仕方がないときも、たまにだがあった。
なにか質問をすると、最適な答えを、どこからか探し提出する彼女。そのことは学生時代ならまだしも、もう世間にひとりで足を突っ込む時期に来ているのに、いまさら、それでもないだろう、と思っている。
安易といえば、限りなく安易な発想なのは分かっているが、自分には、当時の自分には、その考えがとてもしっくりいくことだった。
彼女の部屋で、いくつかのジャズ・ピアノの小さなコレクションの中から、音を出し過ぎないように気をつけて、トミー・フラナガンのあまりにも上品なピアノを聴いていると、完全なる別れの手紙が書けそうな気になってくる。
このような時には、自分で書きながら、当時の楽しかった思い出が降りかかってくる。そして、そばにいて当然だったな、と甘い感想もある。誰かの存在を見つけ、その人が自分の人生に入ってきて、それが自分の考え方や行動のパターンを変革し、多少はぶつかりながらも、言葉の使用方法や優しさの表し方などを調整していった。あるべき自分に近づいていっている、というような安堵感もあった。
彼女は寝返りを打つ。小さな吐息がこぼれる。
手紙の中に、過去の思い出の行数が増えてくる。それは、自分にとってもあまりにも長すぎるような、冗長すぎるきらいもあった。
書きながら、別れの瞬間をイメージしながらも、自分の行っていることは、ただ、過去の楽しい瞬間の再確認と、文章にしてより鮮明に頭の中で映像化するということだけのような気がしてきた。
文字になって、目の前に現れてくると、それは自分から発していないようなものにも思えてくる。その手紙、彼らは自分を通して、文字として生まれたがっていただけなのか。自分はその通路にしか過ぎないのか。
音楽が終わり、無音になる。自分の書いた途中までの手紙を読み返す。バイトの経験が役に立っているからなのだろうか、そうまずくもない文章だった。
トイレに立つと、彼女の部屋のいろいろなものが目に入ってくる。飾られた絵。カーテンの色。投げ出してある仕事の資料。
トイレの中には、印象派で有名なダンサーの絵が飾ってある。
部屋に戻ってくるとき、彼女の仕事の資料を揃えた。秩序ある散乱だったのかもしれないが、自分のある種の几帳面さが、考えるよりも先にそのような行動を促してしまう。
もう一度、ジャズ・ピアノのCDが揃っている前に、膝をつけて眺めてみるが、どうも、この時間にあうのは、トミー・フラナガン以外にないような気がするので、選べず手を延ばすこともなかった。
みどりは、小さなうめき声を出し、目を覚まそうとしている。
ぼくは、急いで書きかけの手紙をズボンのポケットに、がさつに仕舞い、何事もなかったように、何の計画も立てていない人のように証拠をもみ消した。
「どうしたの? まだ、起きてたの? 明日、わたし早いよ」
「うん」
やっぱり、無理だったのだろうな、と思う。別れの手紙は、過去の思い出の追憶に化け、頭の中にある、いろいろな混乱を、文字という形にしただけになった。
目をつむると、CDの機械の電源のランプが、小さく赤く灯っていた。
それは、ぼくの心に残っている希望の具現化のサインでもあったわけだ。
実際のところ、別れようなどとは、一切思っていなかったのだろうか?
彼女は横でねむっている。
その横で、ぼくは別れの手紙を書こうとしている。現状を清算して、次のステップに踏み込みたいという、自分のどうしようもない衝動があって、このように行動しようとしていたわけだ。
彼女はぼくにとって、申し分のない女性だった。だが、常に見上げる存在でもあったわけである。そのことに不満もないかわりに、そのことが自立できない自分を作っているように思えて仕方がないときも、たまにだがあった。
なにか質問をすると、最適な答えを、どこからか探し提出する彼女。そのことは学生時代ならまだしも、もう世間にひとりで足を突っ込む時期に来ているのに、いまさら、それでもないだろう、と思っている。
安易といえば、限りなく安易な発想なのは分かっているが、自分には、当時の自分には、その考えがとてもしっくりいくことだった。
彼女の部屋で、いくつかのジャズ・ピアノの小さなコレクションの中から、音を出し過ぎないように気をつけて、トミー・フラナガンのあまりにも上品なピアノを聴いていると、完全なる別れの手紙が書けそうな気になってくる。
このような時には、自分で書きながら、当時の楽しかった思い出が降りかかってくる。そして、そばにいて当然だったな、と甘い感想もある。誰かの存在を見つけ、その人が自分の人生に入ってきて、それが自分の考え方や行動のパターンを変革し、多少はぶつかりながらも、言葉の使用方法や優しさの表し方などを調整していった。あるべき自分に近づいていっている、というような安堵感もあった。
彼女は寝返りを打つ。小さな吐息がこぼれる。
手紙の中に、過去の思い出の行数が増えてくる。それは、自分にとってもあまりにも長すぎるような、冗長すぎるきらいもあった。
書きながら、別れの瞬間をイメージしながらも、自分の行っていることは、ただ、過去の楽しい瞬間の再確認と、文章にしてより鮮明に頭の中で映像化するということだけのような気がしてきた。
文字になって、目の前に現れてくると、それは自分から発していないようなものにも思えてくる。その手紙、彼らは自分を通して、文字として生まれたがっていただけなのか。自分はその通路にしか過ぎないのか。
音楽が終わり、無音になる。自分の書いた途中までの手紙を読み返す。バイトの経験が役に立っているからなのだろうか、そうまずくもない文章だった。
トイレに立つと、彼女の部屋のいろいろなものが目に入ってくる。飾られた絵。カーテンの色。投げ出してある仕事の資料。
トイレの中には、印象派で有名なダンサーの絵が飾ってある。
部屋に戻ってくるとき、彼女の仕事の資料を揃えた。秩序ある散乱だったのかもしれないが、自分のある種の几帳面さが、考えるよりも先にそのような行動を促してしまう。
もう一度、ジャズ・ピアノのCDが揃っている前に、膝をつけて眺めてみるが、どうも、この時間にあうのは、トミー・フラナガン以外にないような気がするので、選べず手を延ばすこともなかった。
みどりは、小さなうめき声を出し、目を覚まそうとしている。
ぼくは、急いで書きかけの手紙をズボンのポケットに、がさつに仕舞い、何事もなかったように、何の計画も立てていない人のように証拠をもみ消した。
「どうしたの? まだ、起きてたの? 明日、わたし早いよ」
「うん」
やっぱり、無理だったのだろうな、と思う。別れの手紙は、過去の思い出の追憶に化け、頭の中にある、いろいろな混乱を、文字という形にしただけになった。
目をつむると、CDの機械の電源のランプが、小さく赤く灯っていた。
それは、ぼくの心に残っている希望の具現化のサインでもあったわけだ。
実際のところ、別れようなどとは、一切思っていなかったのだろうか?