爪の先まで神経細やか

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拒絶の歴史(122)

2010年11月06日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(122)

 いつも行く馴染みの酒場で社長と座っている。彼が珍しくお願いがあると言った。多分、息子である上田先輩に関してのことだろうと気楽な気持ちで待っていた。

 ぼくはビールを飲みながら、店の女性と話していた。そこにいつも慌ただしくしている社長が入ってきた。今日起こった乗り越えるべき困難を楽しそうに語り、ぼくはゲームの主人公のようになっている社長を想像している。主人公はたくさんの難題を乗り越えて、次なるステージに行くのだ。次の場面でももちろんのことパワーアップした難題がまっているのだが。そして、出来事を一通り話し終えあると途端に真面目な顔つきになった。

「近藤君、東京に行かないか?」
「出張ですか?」
「違うよ、なに言ってんだよ。あっちの支店にさ」
「だって、もう人数も揃ってますよね」
「だけど、あっちで揉まれてこいよ、という愛情のしるしだよ」
「その気持ちは嬉しいですけど、ぼくには、雪代もいるし」
「誰も、一生いてくれなんて、お願いしているわけでもないしさ」
「分かりますけど」
「彼女もそれぐらいは待ってくれるだろう」

 ぼくは目の前にあった料理に手をつけるのを忘れていて、考え事をするためと、なにも性急に言葉を発したくないため、両方の意味合いで口のなかにものを運んだ。

「直ぐ、回答が欲しいわけでもないんだよ」といいながら、彼が宣言した以上は、彼のこころのなかでは固まっている事実を告げているに違いなかった。「まあ、今日は飲んで、家で相談しろよ」といってまた日常の話に戻った。社長のカバンから息子と嫁の写真がでてきた。ぼくはそれを見ながら、この前泊まったときの話をした。彼はぼくらの友情の話を聞くのが好きだった。だから、ぼくはある面では大げさに話した。また、嫁の飾らない性格を愛していて、そのエピソードも訊きたがった。だから、ぼくは進行形ではない話も含めて彼に披露した。

 その話も一段落すると、社長は用事があるといって出て行った。「ゆっくり飲んでいけよ」と言ってある程度の勘定を済ませてそこから消えた。

「近藤君、東京行くの? 寂しくなるね」
「まだ決まった訳じゃないですけど、社長がああ言った以上、彼はもう段取りまでしているはずです」
「そいうひとだもんね」
「せっかちで、思ったことを直ぐ行動に移す。結果はあとでまとめればいい?」
「そういうことね。なに飲む?」

 ぼくはお代わりを告げ、グラスを手にする。もうその時点で、今日は酔ってしまおうと決めていたのかもしれない。ピッチは早くなり、その女性を相手にぼくはこの町の幼少期からの思い出を一方的に話した。それは、この町への決別を自分自身に与える役目を果たしたのかもしれなかったし、また、自分へ刻み付ける営みだったのかもしれない。口に出せば思い出はより鮮明になり、大事なひとの何人かの映像が目のまえに浮かんだ。
「初恋って、いまのひと?」
「どうだろう。違うかもしれないね」
「誰?」

 ぼくは裕紀という子のことを思い出し、それを脚色なしで話した。ぼくには良い思い出しか残っておらず、反対にその子が、もし、ぼくのことを思い出すときは憎しみしかないのかもしれないと考えると、恐怖と絶望が浮かんだ。
「あの女性の前に、近藤君にはそんな子がいたんだ。素敵ね」
「でも、さっきも話したように酷いことをしてしまったんですよ。憎んでますかね?」ぼくは、そこで許しの言葉を聞きたかったのかもしれない。

「さあ、どうなんだろう? 青春の1ページみたいに良い思い出に変化しているかもね。でも、酷いことをしたもんね」と言って彼女は笑った。店はもう閉店を迎えており、なぜかそれでもぼくの腰は重かった。
「もうそろそろ帰らないと」
「あと、何回かしか来れないんだから、もう少し居ていいわよ」

 ぼくはその言葉に甘え、彼女の息子のサッカーが上達した話を聞いた。ぼくはそれでまた何人かの知人たちの顔を思い浮かべる。いくらかセンチメンタルになり、それぞれの良い一面を手のひらに転がすように考えた。死ぬほど憎むことを誓ったような学生時代のひとりのことも思い浮かんだが、それでもそのひとの良い面をあらためて発見するまでにセンチメンタルになっていた。またその当時の自分の未熟な感情を憐れに思った。

 ぼくは酔いつぶれる寸前までになり、うとうとした。だが、その後にその女性の顔がぼくに近付いて揺すぶり起こしてくれる感覚を覚えている。その彼女の顔はより鮮明になって、ぼくの頬にキスしてくれた。そうなってしまうとぼくには歯止めが利かず、肉体的な関係をもってしまった。もしかしたら、ずっとここに通っていたのも潜在的にそれを望んでいたからかもしれなかった。

 ぼくはスーツに腕を通し、暗い夜道をひとりで歩いている。酔いはまだ残っていて、足はふらふらとした。そして、この町に対する思い出がまたひとつ増えたことを実感している。
コメント
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