爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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存在理由(23)

2010年11月30日 | 存在理由
(23)

 結婚という制度がある。それぞれの人が、そこに無作為かのように放り込まれていく。

 夏の容赦ない太陽の光線が、それでも薄めのスーツを選んだはずなのに、ぼくの身体を汗だらけにしていった。買ったばかりの靴は、いまにも靴ずれを作ろうとしている。

 友人が結婚することになった。まだ、大学を卒業して、半年ぐらいしか経っていなかった。その妻になる人ともぼくは学生時代から知り合いだ。その女性の体内には、赤ちゃんがいる。その子も、あと半年もすれば、我らの地球上の一員になるはずだ。ようこそ。

 けじめの瞬間というのは、いろいろ考えさせられるものだ。ぼくも、そこに居合わせることによって、さまざまなあれこれを考えている。地球上で、二人といない完璧なる関係を営めそうな人には、会えるのだろうか? そもそも、そうした考え方は、いびつにすぎるのだろうか? とかを。

 数杯の酒でも酔えないまま、友人代表ということでスピーチをすることになった。こうした行為に向いている人もいるのだろうが、ぼくは不特定多数の存在のまえで、なにかをすることが、昔からからっきし駄目だった。しかし、この式をよくするためなら、いささかの自分の気持ちなど、あとに置いてきても構わないと思っていた。しかし、意気込みだけで、それはあまり結果として良いものではなかった。その証拠として、汗でぬれたハンカチが残った。

 終わりに近づけば、妻になる人の両親は泣き崩れ、ぼくは当然のようにみどりの両親の顔を重ね合わせる作業を、自分の頭の中で作り上げていく。彼らがどれほど、自分の娘を大切に思っているかが理解できそうだった。それを受取る代償というのは、どれほどのものなのだろうか。

 結婚式が終わり、ホテルを出ても、夏の太陽の攻撃はゆるんでいなかった。ぼくは、みどりと待ち合わせをしている場所に向かった。そこから、二次会は、一緒に参加することになっていた。

 彼女は、仕事のときとは見違え、すてきな衣装を着ていた。ぼくは、緩めたネクタイをもう一度結びなおし、歩きだした。
「どうだった? 感動した?」と、みどりは快活に訊いた。

「そりゃ、もう。裕子ちゃんの両親なんか、泣き崩れちゃって、たくさんの人がもらい泣きして」
「一緒に泣いた?」
「少しはね」
 二次会というものの存在意義なのか、それはとても寛いだものになり、ぼくも、自分のあまりにもうまくなかったスピーチをからかわれたりもした。しかし、この時は、飲めば、その量と同程度の酔いを確保していった。

 みどりは、別の人と話している。初対面の人とも、境界をなしに話していくことができるのは彼女の魅力の一つでもあり、特技でもあった。音はまったく聞こえないが、大声で笑っている姿が遠目に見える。ぼくの視線に気づいたのか、こちら側を急に振り向いて、にっこり笑った。あとになって、不思議な瞬間が強く記憶に残る場合があるが、この時の彼女の表情もその一つであった。大切な瞬間や表情は、いつも写真として残っているわけではなかった。いくらか、写真がその時の記憶の助けになったとしても、忘れてしまうことも当然のように多くある。

 ぼくは、いつものように知り合いの中の渦に紛れて行く。

 仕事を数カ月したばかりの友人たちは、それぞれ顔が大人の緊張感を漂わせるようになったが、お酒がすすめば、もとの大学時代の友人にもどり、数々の昔のエピソードで大笑いしていく。あの時には、もう戻ることはできないんだな、と苦い焦りの気持ちもいくらか、そこには含まれていたかもしれない。

 時間も経ち、三次会に行く人もいたが、ぼくは何人かの友人にまた連絡するという軽い約束をし、みどりと一緒にそこをあとにした。

 電車は、もうなくなっていた。みどりの家を経由して、タクシーで帰ろうと考えている。しかし、なぜかタクシーはまばらで、すこし駅の方に歩いて向かった。照明が強くなってくると、車も多くなり、タクシーも止まった。ぼくが先に乗り込み、彼女も横にすべりこんだ。

「楽しかったね?」
「そうだね、そういえば先刻のひと、知りあい?」みどりは怪訝な顔をする。そのことを一番知っているのは、あなたじゃないかとの顔だった。その表情は今だけは自分のものだった。