爪の先まで神経細やか

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償いの書(122)

2011年11月06日 | 償いの書
償いの書(122)

 昨日のつづきを繰り返して、今日がまたやってくる。いままで、それを怠惰の象徴のように考えていたが、ぼくは逆に健全な生活としてそれをいまは受け止めていた。

 もう、病院に見舞いにいくこともなく、ベッドの横で付き添うこともなかった。しかし、いままでの心労がたたったのか、裕紀の叔母が入院することになった。驚きとともに多少の罪悪感があった。優しい叔母は裕紀のためにこころも身体も疲労していったのだろう。しかし、そうする対象もない人生も、もしかしたら淋しいものかもしれないと、ぼくは思っていた。その疲れは、ぼくにも確かにあったのだ。

 ぼくは、勝手に見舞いに行くこともできなかった。裕紀の家族はあいかわらず、ぼくのことを良く思っていないので鉢合わせになる可能性を避けた。それで、あらかじめ決められた日時にぼくは裕紀といっしょに病院に行った。

 そのような曖昧な立場にいる自分だが、叔母は誰が来るより、ぼくが来たことを喜んでくれ、同時に憐れんでいた。
「裕紀ちゃんのことで、あんなに心配かけたのに、今度はわたしのことでも心配させて」
「なに言ってるんですか。裕紀の面倒をあんなに見てくれたのに・・・」
「そうよ、叔母さんもよく休んで。わたしだって、こんなに元気になれたんだから」

 裕紀は晴れ着を着せられた子どものように両手を拡げた。それを見て、最愛のものに接するような叔母の慈しむ目があった。
 ぼくらは長居をすると、かえって疲れさせてしまうと心配して、そこそこに病院をあとにした。そこは裕紀が入院していた場所でもあり、ぼくはあの当時のことを思い出さないわけにはいかなかった。ただ、周りの景色は変わっていて、この現在のときは秋の気配と匂いが濃厚に感じられていた。裕紀も秋の色の洋服を着ていた。

「ごめんね。ひとのために心配するって、とても大変なことなんだね。ひろし君は会社にも行ってたのに」
「だが、いまはこうして銀杏の下を裕紀と歩けている」
「え、ひろし君、この匂い好きだったの?」
「好きでもないけど、ラグビーの秋の大会で、勝っても、負けてもこの匂いを嗅いだ。勝利者のときは誇らしい気持ちで、敗者のときはみじめな気持ちでね。思い出とつながっている」
「いまは?」
「いまは勝利者だよ。明日の新聞の見出しには、近藤裕紀、奇跡の退院とか書かれているはず」
「大げさ」
「まあ、大げさだね」ぼくは両手をひろげ、その匂いを嗅ぐように深呼吸した。それから、むせった。

「あ、お兄ちゃん」裕紀は突然、小さな音だが金属的な声を発した。驚くひとに共通した音色。ぼくは、横にいる裕紀を見て、前方にまた目を向けた。病院のもうひとつある入り口に向かって曲がりかけているひとがいた。ぼくは、小さな会釈をそのシルエットにした。彼も同じように、どうしても挨拶を介在しなければならないひとと間違って会ってしまったように、同じような小さ過ぎる会釈をした。

「彼もお見舞い」
「そうでしょう。根は優しいひと。いつか、仲良くなれればいいのに、ふたりとも」
「彼の気持ちも分かる」
「分かってあげなくてもいいよ。ひろし君は、ライバルの島本さんを分かっていなくても認めていた。でも、仲良くなれなかった。ある女性がいたために。それと、同じ。私がいる限り、ふたりは仲良くなれないかもしれない。でも、いつかなるかもしれない」

「そうだね、そう考えておく」ぼくは冷静にこたえたが、内面はひどく狼狽して、かつ動揺していた。このような場所ではなく、叔母の前だったら、どのように振舞ったか考えられなかった。ぼくは捨て身ですべてのことを謝るのか。その反対に、あなたは間違っていると行いのひとつひとつを糾弾したのだろうか。どちらにしろ、裕紀の悲しむ顔だけは見たくなかった。それが最善の願いだった。叔母も同じなのだろう。

「笠原さんが見舞いに来たとき、いっしょに帰った。思いがけなく彼女の前で泣いてしまった。誰の前でもしなかったのに。いまでもからかわれているんだ」話の方向を転換させるために、ぼくはそのような過去の事実を告げた。
「彼女なりの優しさでしょう。でも、泣いて浄化できるなにかがある」
「そうだけどね、あまり見られたくもなかった」
「彼女が見なかったら、ひろし君の優しさの一部は記録されなかった。わたしのために無心に泣いてくれた男性。その映像って悪くないと思うけど」

 彼女はぼくの指に自分の指を絡ませた。彼女の短いコートの質感もこちらに伝わってきた。ぼくは銀杏の匂いのためか、むかしに戻った錯覚を抱いている。ぼくはラグビーの試合に勝ち、応援してくれた裕紀のことをスタンドの外で探した。彼女は顔を紅潮させ、すこし嗄らせた声で熱心にぼくやチームの頑張りを語ってくれた。その言葉がぼくの誇らしい気持ちを増長させ、次回も同じように言ってもらいたい気持ちを作った。

 しかし、あれから20年近くも経っていた。彼女は、あんなにも感激することはないのかもしれないし、ぼくも同様に明日のこともなく無心に熱中するという作業を減らしてきたのかもしれない。だが、そうした思い出だけはぼくから去らずにいつまでもあった。裕紀のなかにもあの熱情は眠りつつけていることなのだろう。
コメント
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