爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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償いの書(126)

2011年11月19日 | 償いの書
償いの書(126)

「お葬式に行った帰り」家のチャイムが鳴り、のぞくとゆり江という女性が立っていた。
「そうだね、今日だ」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫な人間に見える?」
「全然。なにか作りましょうか? ご飯も食べてないみたいな顔ですよ」
「ああ、どうぞ」

 ぼくは、横に身体をずらせ、ゆり江をなかに通した。ある女性が動いているということだけで、ぼくは驚いている。あの日の裕紀は、もう動かなかった。

「冷蔵庫、開けてもいい?」
「うん、どうぞ」彼女は黒い服を着ている。「着替えれば、汚れると大変だよ。女物の服は、たくさんある」
「大丈夫です。でも、エプロンだけ借りる」ぼくは、以前、雪代と交際しながらもゆり江という存在を手に入れ、簡単に手放すことができなかった。そのときにも、ぼくは料理を作ってもらった。彼女は、その後結婚して、いまは別の誰かがそれを食べている。その時間の移り変わりが、ぼくにとっては、うっとうしかった。その時間の経過のゆえに、裕紀はいなくなったのだ。

「古くなった食材もあったので、これぐらい。ビールでも飲みます。たくさん、もう缶が空いてるみたいだけど」
「ゆり江ちゃんも飲みなよ。葬式のあとはみんな、なぜか酒を飲む」
「でも、ひどすぎません? ひろし君に対しての態度」
「いいんだよ。ぼくは、見送るという立場に立つことを拒否したいし」

「未練?」
「そうだね、未練。お互い、嫌いになって別れたとかそういうことでもないし、突然だから」
「まだ、生きているような気がする?」
「当然。買い物に行っただけかもしれない。ばかばかしいと思うだろうけど」
「そんなこともないです。わたしのアイドルでもあった。追いかけるべき見本。それが行き過ぎて、ひろし君のことも好きになった」

「そうだ、ぼくらのむかしのことを言わないでくれてありがとう。今更ながらだけど」
「ずるいけど、こうなるなら、私も結婚を控えていればよかった。でも、それは裕紀さんがどこかにいなくなることを望んでいたことにもなって、そんな、自分が嫌いになる」
「そんなことないよ。だけど、ゆり江ちゃんは、いまのひとと結婚することになっている」ぼくはゆり江の顔をじっと見た。
「どうかした?」
「いや、おいしい。ぼくは、これからどうすればいいのだろうかね。まともにご飯も作れないし、誰も、ぼくのことを心配してくれなくなる。でも、身勝手な意見だね」
「みんな、心配してますよ。少なくとも、わたしは」ぼくの左手に、彼女はそっと右手を置いた。ぼくの指輪はどれほど効力をもつのだろう。この永続の関係のしるしは、いまは、もう何の力も有していなかった。「あの絵、素敵ですね。裕紀さんにそっくり」

「みんな、そう言うんだ。ぼくに残されたのは、あれだけ。そのためにあれを譲り受けたような気もしている。いつか、いなくなる日のために」
「そんなに、好きだった?」
「まあね。ああ、そうだ。彼女のアクセサリー、ゆり江ちゃん、持っていって。ぼくには、必要ないものだから」
「え、そんなに早く手放すの?」

「ぼくは裕紀を見送ることもできないし、彼女との関係も断ち切られた。ここにあるものだけが裕紀のすべてだけど、彼女は君のことが好きだった。ゆり江ちゃんも彼女を好きだった。契約は成立だよ」
「わたしは単純に裕紀さんみたいになりたかった。小さな女の子のときから」
「買ってから、まだ袖を通していない服もある。着てみてよ。背丈もいっしょぐらいだろう」彼女は裕紀のクローゼットがある部屋に消えた。ぼくは、現実も過去もひとつのぬかるみの中に放り込もうとしていた。未来に裕紀はいなく、過去にだけ存在した。その過去にはゆり江もいて、ぼくは彼女のことも本気で好きな時期があった。自分のはっきりとしない性格に嫌悪感をもったが、いまはそのぬかるみにまどろむことが心地良かった。
 彼女は引き戸を開け、青い洋服を着てでてきた。裕紀が着なかった洋服。
「こんなに似合うとは思ってもみなかった。ごめん、失礼だね」
「いいえ、嬉しいよ」

 彼女はぼくのそばに近付いてきた。ぼくは女性の髪のにおいを嗅ぎ、それは新鮮な行為ともなっていたが、むかし、ぼくらが抱擁した事実もよみがえってきた。ぼくは彼女の頬にさわり、その柔らかい唇に指でふれた。そして、ぼくはそれに自分の唇を押し付けた。

「代わりでもなんでもいい。今日のひろし君、あまりにも可哀想」
 こうして、ぼくは女性の身体におぼれた。誰かを忘れるために誰かの身体を利用した。生きている女性の身体がぼくには必要であり、ゆり江を愛したことは、雪代がいたために間違いでもありながら、結果としては間違いではなかったことを再確認した。
「何度も言うけど、わたしは裕紀さんをふった人間を許せなかった。その間抜けな人間の人生を駄目にしてしまおうと目論んだ。10代後半の少女が目論むという言葉をつかっても限度があるね。でも、同じように、裕紀さんと同じように、その間抜けを愛してしまった。彼は、それでも、それなりに応えてくれたけど、全部は手に入れられなかった。それが、いまは駄目にしてしまおうと誓ったはずなのに、立ち直ってもらえるように寝てしまった。また、次があるかもしれないかとも思っている。同情かしら。むかしの愛の再燃かしら」

「ずるいけど、君は別れないよ。素敵な旦那さんだと裕紀は言っていたから。裕紀が間違っているとは思いたくない」
「また、逃げる?」
「逃げないよ。裕紀はなぜか再婚するなら、ゆりちゃんと事ある毎に言い続けた。今日みたいな日が来ることを予感でもしていたのだろうか」
 ぼくは、ゆり江の肩を軽く噛む。その痕跡が身体に残る。ぼくは、裕紀にもうなにも残せない。それは、すべて終わったことなのだ。
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償いの書(125)

2011年11月19日 | 償いの書
償いの書(125)

 あるひとの存在がなくなる。だが、物体としてはまだそこにあった。息をすることもなく病院のベッドで静かに寝ていた。いや実際には眠っていない。意識もなく横たわっていた。医師はここ数時間で何度かの手術を繰り返したが、その生命の根源的な糸はもどってくることはなかった。

 ぼくは、その事実を簡単に受け止めることができない。ある女性の人生はたったの36年間で潰えた。ぼくは、後半の10年をともに過ごし、その前の学生だった若い頃、2、3年をいっしょに楽しんだ。そして、別の魅力的な女性がいたために、その関係を意図的に終わらせ、今度は、意図せずに終わってしまった。悲しさよりも無力感があり、やり切れなさがあった。彼女は、もうぼくを見つめることはなく、ぼくは彼女を笑わすこともできない。表情の変化や感情の揺れを楽しむこともできない。

 叔母は、彼女のベッドの足元にひれ伏し、号泣していた。ハンカチが何枚あってもその涙は枯れることはなかった。ぼくは、ある面でそのように泣ける彼女をうらやましいと思った。ぼくのこころは凍りつき、冷え切ってしまっていた。もう、何事もぼくを暖めることはないだろうという恐れがあった。しかし、それは恐れでもなかった。ぼくは裕紀がいない世界を許すこともできず、そこから心地よさや快楽を取り入れることなどないだろうと決意した。それは裏切りであり、身勝手だと判断した。

「叔母さん、ごめんね。ぼくは、裕紀をこんな目に合わせてしまった」

「ひろしさんの所為じゃないのよ。ゆうちゃんは、このぐらいしか生きられないようになっていたのよ」
「そう言ってもらえるのは、ありがたいけど、やっぱり責任がある」
 不意にその部屋のドアが開き、思いがけない人間が入って来た。その人物は何度か見かけた裕紀の兄だった。
「近藤さん、お久しぶりです。こういう風には会いたくなかった。もしかしたらだけど、いずれ和解する可能性もあった」
「すいません。こんな状態になってしまって」
「正直な話、君と接するとうちの家族は、みな命を縮め、不幸になる。裕紀もその順番に追加された」
 その言葉は、ぼくのこころを打ちのめしてしまうほど、れっきとした事実でもあった。ある意味、裕紀の死はこの言葉で決定的なものになり、確定されたのだ。
「そんな言い方はないわよ」
「叔母さんも、ほんとうはそう思っている。言わないだけで」

「ゆうちゃんは彼と暮らせて、とても、幸せだった。わたしは、この目で見たけど、あなたたちは知ろうともしなかった」
「知る必要もない」もしかしたら、この兄は自分のもろいこころを隠すためにわざと冷淡にしているのだろうかという冷静な判断を、ぼくはしている。しかし、ぼくの傷が徐々にひろがっていくのも実感できた。血のような形状の傷がぼくから生まれる。それは足元にしたたり落ち、この部屋の狭さを越え、廊下にも出てしまうようだった。

「すいません。紛れもない事実です」
「裕紀のことは、ぼくらが引き受ける。葬式もぼくがして、ぼくらの墓に埋める。君に口出しをさせない。それでいいだろう?」
「それは、ないんじゃない。ひろしさんは夫なのよ」
「叔母さん、いいんです。そうして下さい。ぼくは、なんらかのことで裕紀の命を縮めさせたのかもしれない。お任せします」

 ぼくは、そこで卑怯な人間になった。ぼくは、裕紀と無関係であるような形を取り、これ以上、関わることを辞めた。それは、18歳のときに裕紀を捨てたときと寸分変わらない自分の卑劣さの積み重ねがあった。だが、許されるとすれば、裕紀を弔ったり、葬ったりする行為は、それほど裕紀を愛していない人間がするべきなのだ。誰よりも愛していた自分には逆にその資格もなく、またそれに耐えられなかっただろう。

 ぼくは、あきらめた気持ちで頭を幾分下げ、その部屋をあとにする。ラグビーの決勝でぼくらのチームが負けたことをぼくは自分に起こった不幸として最前列に置いていた。だが、このときのぼくは、それ以上のものがあることを痛烈に知った。

 ぼくは、そのあとどの道をどう通って帰ったのだろう。裕紀の兄の声がぼくに響き、叔母の悲痛な鳴き声が耳の奥でこだました。すれ違う男女の表情を見ることもできず、裕紀との10年の思い出が細切れに思い出された。それは連続した映像になり、いつの間にかストップする。観終わってしまった映画のように、新しいストーリーはもう生み出されないのだ。もう一度、同じ映画をなぞるしかぼくらの関連性をつなぐ方法はない。

 気付くと、ぼくは自宅のソファに座っていた。電気もつけずにいたが暗くなっていたことも忘れていた。裕紀のいない未来の時間などぼくには毛頭なく、過去の時間のしがらみの中だけに生きようとしていた。ソファの横のライトをつけると、いつか貰った壁の絵が照らされた。それは裕紀の少女時代に不思議と似ていた。ぼくは、生きた裕紀をふたたび見ることができなかった。その絵を見ながら、ぼくはあらためてその悲しさの深い入口に立っていることを怖がり、同時に打ちのめされていた。
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