償いの書(126)
「お葬式に行った帰り」家のチャイムが鳴り、のぞくとゆり江という女性が立っていた。
「そうだね、今日だ」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫な人間に見える?」
「全然。なにか作りましょうか? ご飯も食べてないみたいな顔ですよ」
「ああ、どうぞ」
ぼくは、横に身体をずらせ、ゆり江をなかに通した。ある女性が動いているということだけで、ぼくは驚いている。あの日の裕紀は、もう動かなかった。
「冷蔵庫、開けてもいい?」
「うん、どうぞ」彼女は黒い服を着ている。「着替えれば、汚れると大変だよ。女物の服は、たくさんある」
「大丈夫です。でも、エプロンだけ借りる」ぼくは、以前、雪代と交際しながらもゆり江という存在を手に入れ、簡単に手放すことができなかった。そのときにも、ぼくは料理を作ってもらった。彼女は、その後結婚して、いまは別の誰かがそれを食べている。その時間の移り変わりが、ぼくにとっては、うっとうしかった。その時間の経過のゆえに、裕紀はいなくなったのだ。
「古くなった食材もあったので、これぐらい。ビールでも飲みます。たくさん、もう缶が空いてるみたいだけど」
「ゆり江ちゃんも飲みなよ。葬式のあとはみんな、なぜか酒を飲む」
「でも、ひどすぎません? ひろし君に対しての態度」
「いいんだよ。ぼくは、見送るという立場に立つことを拒否したいし」
「未練?」
「そうだね、未練。お互い、嫌いになって別れたとかそういうことでもないし、突然だから」
「まだ、生きているような気がする?」
「当然。買い物に行っただけかもしれない。ばかばかしいと思うだろうけど」
「そんなこともないです。わたしのアイドルでもあった。追いかけるべき見本。それが行き過ぎて、ひろし君のことも好きになった」
「そうだ、ぼくらのむかしのことを言わないでくれてありがとう。今更ながらだけど」
「ずるいけど、こうなるなら、私も結婚を控えていればよかった。でも、それは裕紀さんがどこかにいなくなることを望んでいたことにもなって、そんな、自分が嫌いになる」
「そんなことないよ。だけど、ゆり江ちゃんは、いまのひとと結婚することになっている」ぼくはゆり江の顔をじっと見た。
「どうかした?」
「いや、おいしい。ぼくは、これからどうすればいいのだろうかね。まともにご飯も作れないし、誰も、ぼくのことを心配してくれなくなる。でも、身勝手な意見だね」
「みんな、心配してますよ。少なくとも、わたしは」ぼくの左手に、彼女はそっと右手を置いた。ぼくの指輪はどれほど効力をもつのだろう。この永続の関係のしるしは、いまは、もう何の力も有していなかった。「あの絵、素敵ですね。裕紀さんにそっくり」
「みんな、そう言うんだ。ぼくに残されたのは、あれだけ。そのためにあれを譲り受けたような気もしている。いつか、いなくなる日のために」
「そんなに、好きだった?」
「まあね。ああ、そうだ。彼女のアクセサリー、ゆり江ちゃん、持っていって。ぼくには、必要ないものだから」
「え、そんなに早く手放すの?」
「ぼくは裕紀を見送ることもできないし、彼女との関係も断ち切られた。ここにあるものだけが裕紀のすべてだけど、彼女は君のことが好きだった。ゆり江ちゃんも彼女を好きだった。契約は成立だよ」
「わたしは単純に裕紀さんみたいになりたかった。小さな女の子のときから」
「買ってから、まだ袖を通していない服もある。着てみてよ。背丈もいっしょぐらいだろう」彼女は裕紀のクローゼットがある部屋に消えた。ぼくは、現実も過去もひとつのぬかるみの中に放り込もうとしていた。未来に裕紀はいなく、過去にだけ存在した。その過去にはゆり江もいて、ぼくは彼女のことも本気で好きな時期があった。自分のはっきりとしない性格に嫌悪感をもったが、いまはそのぬかるみにまどろむことが心地良かった。
彼女は引き戸を開け、青い洋服を着てでてきた。裕紀が着なかった洋服。
「こんなに似合うとは思ってもみなかった。ごめん、失礼だね」
「いいえ、嬉しいよ」
彼女はぼくのそばに近付いてきた。ぼくは女性の髪のにおいを嗅ぎ、それは新鮮な行為ともなっていたが、むかし、ぼくらが抱擁した事実もよみがえってきた。ぼくは彼女の頬にさわり、その柔らかい唇に指でふれた。そして、ぼくはそれに自分の唇を押し付けた。
「代わりでもなんでもいい。今日のひろし君、あまりにも可哀想」
こうして、ぼくは女性の身体におぼれた。誰かを忘れるために誰かの身体を利用した。生きている女性の身体がぼくには必要であり、ゆり江を愛したことは、雪代がいたために間違いでもありながら、結果としては間違いではなかったことを再確認した。
「何度も言うけど、わたしは裕紀さんをふった人間を許せなかった。その間抜けな人間の人生を駄目にしてしまおうと目論んだ。10代後半の少女が目論むという言葉をつかっても限度があるね。でも、同じように、裕紀さんと同じように、その間抜けを愛してしまった。彼は、それでも、それなりに応えてくれたけど、全部は手に入れられなかった。それが、いまは駄目にしてしまおうと誓ったはずなのに、立ち直ってもらえるように寝てしまった。また、次があるかもしれないかとも思っている。同情かしら。むかしの愛の再燃かしら」
「ずるいけど、君は別れないよ。素敵な旦那さんだと裕紀は言っていたから。裕紀が間違っているとは思いたくない」
「また、逃げる?」
「逃げないよ。裕紀はなぜか再婚するなら、ゆりちゃんと事ある毎に言い続けた。今日みたいな日が来ることを予感でもしていたのだろうか」
ぼくは、ゆり江の肩を軽く噛む。その痕跡が身体に残る。ぼくは、裕紀にもうなにも残せない。それは、すべて終わったことなのだ。
「お葬式に行った帰り」家のチャイムが鳴り、のぞくとゆり江という女性が立っていた。
「そうだね、今日だ」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫な人間に見える?」
「全然。なにか作りましょうか? ご飯も食べてないみたいな顔ですよ」
「ああ、どうぞ」
ぼくは、横に身体をずらせ、ゆり江をなかに通した。ある女性が動いているということだけで、ぼくは驚いている。あの日の裕紀は、もう動かなかった。
「冷蔵庫、開けてもいい?」
「うん、どうぞ」彼女は黒い服を着ている。「着替えれば、汚れると大変だよ。女物の服は、たくさんある」
「大丈夫です。でも、エプロンだけ借りる」ぼくは、以前、雪代と交際しながらもゆり江という存在を手に入れ、簡単に手放すことができなかった。そのときにも、ぼくは料理を作ってもらった。彼女は、その後結婚して、いまは別の誰かがそれを食べている。その時間の移り変わりが、ぼくにとっては、うっとうしかった。その時間の経過のゆえに、裕紀はいなくなったのだ。
「古くなった食材もあったので、これぐらい。ビールでも飲みます。たくさん、もう缶が空いてるみたいだけど」
「ゆり江ちゃんも飲みなよ。葬式のあとはみんな、なぜか酒を飲む」
「でも、ひどすぎません? ひろし君に対しての態度」
「いいんだよ。ぼくは、見送るという立場に立つことを拒否したいし」
「未練?」
「そうだね、未練。お互い、嫌いになって別れたとかそういうことでもないし、突然だから」
「まだ、生きているような気がする?」
「当然。買い物に行っただけかもしれない。ばかばかしいと思うだろうけど」
「そんなこともないです。わたしのアイドルでもあった。追いかけるべき見本。それが行き過ぎて、ひろし君のことも好きになった」
「そうだ、ぼくらのむかしのことを言わないでくれてありがとう。今更ながらだけど」
「ずるいけど、こうなるなら、私も結婚を控えていればよかった。でも、それは裕紀さんがどこかにいなくなることを望んでいたことにもなって、そんな、自分が嫌いになる」
「そんなことないよ。だけど、ゆり江ちゃんは、いまのひとと結婚することになっている」ぼくはゆり江の顔をじっと見た。
「どうかした?」
「いや、おいしい。ぼくは、これからどうすればいいのだろうかね。まともにご飯も作れないし、誰も、ぼくのことを心配してくれなくなる。でも、身勝手な意見だね」
「みんな、心配してますよ。少なくとも、わたしは」ぼくの左手に、彼女はそっと右手を置いた。ぼくの指輪はどれほど効力をもつのだろう。この永続の関係のしるしは、いまは、もう何の力も有していなかった。「あの絵、素敵ですね。裕紀さんにそっくり」
「みんな、そう言うんだ。ぼくに残されたのは、あれだけ。そのためにあれを譲り受けたような気もしている。いつか、いなくなる日のために」
「そんなに、好きだった?」
「まあね。ああ、そうだ。彼女のアクセサリー、ゆり江ちゃん、持っていって。ぼくには、必要ないものだから」
「え、そんなに早く手放すの?」
「ぼくは裕紀を見送ることもできないし、彼女との関係も断ち切られた。ここにあるものだけが裕紀のすべてだけど、彼女は君のことが好きだった。ゆり江ちゃんも彼女を好きだった。契約は成立だよ」
「わたしは単純に裕紀さんみたいになりたかった。小さな女の子のときから」
「買ってから、まだ袖を通していない服もある。着てみてよ。背丈もいっしょぐらいだろう」彼女は裕紀のクローゼットがある部屋に消えた。ぼくは、現実も過去もひとつのぬかるみの中に放り込もうとしていた。未来に裕紀はいなく、過去にだけ存在した。その過去にはゆり江もいて、ぼくは彼女のことも本気で好きな時期があった。自分のはっきりとしない性格に嫌悪感をもったが、いまはそのぬかるみにまどろむことが心地良かった。
彼女は引き戸を開け、青い洋服を着てでてきた。裕紀が着なかった洋服。
「こんなに似合うとは思ってもみなかった。ごめん、失礼だね」
「いいえ、嬉しいよ」
彼女はぼくのそばに近付いてきた。ぼくは女性の髪のにおいを嗅ぎ、それは新鮮な行為ともなっていたが、むかし、ぼくらが抱擁した事実もよみがえってきた。ぼくは彼女の頬にさわり、その柔らかい唇に指でふれた。そして、ぼくはそれに自分の唇を押し付けた。
「代わりでもなんでもいい。今日のひろし君、あまりにも可哀想」
こうして、ぼくは女性の身体におぼれた。誰かを忘れるために誰かの身体を利用した。生きている女性の身体がぼくには必要であり、ゆり江を愛したことは、雪代がいたために間違いでもありながら、結果としては間違いではなかったことを再確認した。
「何度も言うけど、わたしは裕紀さんをふった人間を許せなかった。その間抜けな人間の人生を駄目にしてしまおうと目論んだ。10代後半の少女が目論むという言葉をつかっても限度があるね。でも、同じように、裕紀さんと同じように、その間抜けを愛してしまった。彼は、それでも、それなりに応えてくれたけど、全部は手に入れられなかった。それが、いまは駄目にしてしまおうと誓ったはずなのに、立ち直ってもらえるように寝てしまった。また、次があるかもしれないかとも思っている。同情かしら。むかしの愛の再燃かしら」
「ずるいけど、君は別れないよ。素敵な旦那さんだと裕紀は言っていたから。裕紀が間違っているとは思いたくない」
「また、逃げる?」
「逃げないよ。裕紀はなぜか再婚するなら、ゆりちゃんと事ある毎に言い続けた。今日みたいな日が来ることを予感でもしていたのだろうか」
ぼくは、ゆり江の肩を軽く噛む。その痕跡が身体に残る。ぼくは、裕紀にもうなにも残せない。それは、すべて終わったことなのだ。