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償いの書(128)

2011年11月23日 | 償いの書
償いの書(128)

「あの絵が助けになっている」ぼくの前には筒井という女性が座っている。彼女は画廊を経営して、そこに飾られてあった裕紀と似ている少女の絵画を、ぼくは以前に譲り受けた。その店舗が入っているビルは、ぼくの会社が管理を任されているものだった。
「あなたのところに、行く必要があった」
「そうかもしれないね。実在のものは、もうこの世の中にないんだから。代理で我慢しないと」
「そうして、代理の女性を抱く。代わりでなくなる可能性もあるかもしれないのに」
「ならないよ」
「何で、分かるの?」
「分からないけど」
「島本君もいなくなった。あなたの妻もいなくなった」

 ぼくは、自分の喪失感のために、島本さんのことも、誰かを失ったひとびとのことも忘れていた。また、忘れて当然だとも思っていた。思いやりもなく、愛情の発露や心配もなかった。ただ、ぼくはその日を生き残ることだけに対して真剣であり、その見返りとして、また代償として裕紀の代理になるものを探して、身をまかせた。

「みな、早過ぎるけど」
「あなた、これからどうするの?」
「今日ですか?」
「もっと、未来の話」
「さあ、見当もつかない」
「もっと、近い話は?」
「なんの予定もない。裕紀のいない家があり、言葉を口から出しても、誰も返答しない」
「あなたは、慣れていない?」
「普通のひとは突然の変化についていけないものだよ」
「じゃあ、ここを閉めたら、ご飯でも食べに行く」
「じゃあ、会社に戻らないことを連絡する。あとで」

 ぼくは、携帯電話を耳にあて、馴染んだ番号を押した。同僚たちは、ぼくの行動に対して甘くなりがちで、成績のことや管理のことから一時的に退散する身分を許していた。だが、ぼくの本心では自分のことをまったく許していなかった。ぼくは、こうじゃなかった。不幸に押しつぶされる人間ではなかった。だが、この場合は押しつぶされるほうが妥当だとも思っていた。ぼくは、そのひとつの愛情に賭け、結果としては紙屑同然に霧散したのだとも考えていた。

 ぼくは成り行き任せで日々を過ごし、ただ一日だけがぼくに加算される仕組みになっていた。でも、ふたたび夜明けが来て、いちにちの格闘がはじまった。今日も裕紀はいない。彼女があのときに、こうした、あの日はこういう振る舞いだったということがネクタイについた消えないシミのようにぼくの首にぶら下がっていた。

「待った?」
「考えることが、いっぱいある」
「あんまり考えすぎない方がいいかもよ。無理を承知の上で言ってるだけだけど」

 筒井さんは、ぼくの腕に自分の腕を通した。誰に見咎められても、もう責められる心配もないが、ぼくは誰かに見つけられ叱責されることも同時に望んでいた。それは裕紀の兄でもあり(あいつは、やっぱり見下げた男だった)、裕紀の叔母でもよかった。そこで、なじられ、ぼくの身の変わりの早さを追求されるのだ。それについて、ぼくは反論も弁護もせず、「生き残るためですよ」と、悪びれて言う。しかし、本心では、裕紀のことをちっとも忘れることができず、過去の一瞬一瞬をポケットの奥のようなところから見つけ、引っ張り出してロウソクの炎を頼りにじっと見つめているのだ。それが、その日のぼくだった。

「ここでいいでしょう?」
 ぼくはただ頷く。誰かといられる時間があるだけで、ぼくは安全であったのだ。少なくとも、ぼくは裕紀の亡霊を追い求めることを深くしないという意味で。

「若くして亡くなってしまったひとたちに」と、言って筒井さんはグラスを差し出した。裕紀よ、ゆっくり病気もない世界で休んでいてくれ、とぼくは願った。痛みもない。苦しみもない、それが最上だ。それでも、自分の胸のなかの苦しみこそが生きているという実態でもあり、証だった。それゆえ、ぼくはこの辛さに甘んじようとも思っている。

「島本君とわたしは恋をしていた。お互い、大切なひとはいたけど、大切なものってときに窮屈にさせる。その窮屈さを手放したくもないけど、ちょっとだけ後ろに置いておきたくなる。それで、あなたのもうひとりの愛する人を苦しめたかもしれない。ごめんなさい。多分、賢いあなたは言わなくても知っていたでしょうけど」
「知ってたかもしれないけど、ぼくも君と関係があるんだから同罪だよ。それに愛したひとだよ」
「いまでも、忘れてないでしょう」
「ぼくは裕紀と再会して、彼女を思い出さないように努力した」
「努力しないと、忘れられない?」
「さあ。いいよ、飲もう」ぼくは、その問題を深く追求することをしたくなかった。それに第三者が足を踏み入れてもほしくなかった。

 その後、ぼくは彼女のマンションに寄る。自分の家に帰ることを恐れていた。そして、この事実を裕紀が知って、口汚くののしってくれればいいとも考えていた。ぼくを嫌いになり、そして、別れるのだ。彼女はぼくとは会わないけど、どこかで生きているのだ。その方がよっぽどましだった。死んでしまうより、どこかで、ぼくを恨みながらも生きていて欲しい。しかし、それはシアトルに留学していた彼女を思っているときと同じことだった。ぼくに成長などまったくないのかもしれない。

 そう思いながらも肉体としての筒井さんの温かさはぼくにとって貴重だった。ぼくは、こうして何人かの女性の身体を引き金として生き延びる方法を模索していた。利用したという言い方は適切ではないのかもしれないが、結果としては、どちらも同じだった。そして、このことを繰り返すかぎり、ぼくはその日を過ぎ行かせるということを安堵と焦燥とともに感じていたのだ。
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