仮の包装(4)
日が落ちると宿に向かった。荷物も少ない自分に応対してくれたひとは不思議と不信感も抱かなかった。そのひとに値段の交渉をする。夕飯や朝飯の有無を問われ、両方ともいると答えるとあっさりと価格が提示される。了承するしかないが、不満もない。風呂に入って考える。ありもしない身の振り方を。
「え、なにしてるの?」さっきの良枝の応対がよみがえる。むりやりに納得させて、ぼくは電話を切った。不信感のかたまりという形容詞をあてる。当然だ。ぼくの一部は所有されている。こちらも不満もない。ただの成り行きで、こうして風呂に入っている。
天井からぽとりと水滴が落ちる。水滴だと思っているが、ほんとうは別のものかもしれない。誰かの涙。詩人に過ぎる、表現が。
風呂からあがると押入れの布団が畳のうえに場所を移動していた。その横に使い込んだ机のうえに食事が用意されている。刺身と煮物。ぼくはビールを頼む。自分が旧い時代の人間のように感じられた。
「片付けないで、そのままで結構ですよ」と最後に言われて戸をぴったりと閉められるが、かすかな隙間もある。配管をなにかが流れる音がする。自分の体内も同じようなものだ。ビールを飲むと、腹の方で音が鳴った。何気なく壁のしみを見る。子どものころに受けたテストを思い出す。何かの模様に見えるし、何でもないただのしみだともいえた。
食べはじめたときはそうでもないのだが、急に食欲が失せた。右手をつかって箸を動かしているが、この緩慢とした動作の連続した積算量は左右の分配で不均衡が生じ、後遺症のようなものが残るのではないかと不安になる。解決する意思も努力もしないのだが、運命というのは、つまりは不安を耐え抜くことでしかできないものなのだろう。
食べ終えて箸を置く。寝転がって何もない荷物から本と履歴書を出した。二枚の紙を取り出し、実際の生活に即したものと、これから成りたいものを二つ仕上げた。さらに一枚抜き取り、間違った過去という架空の題材で学校と職場を勝手に生み出した。そのままうとうとしてしまったが、目を覚ますと食卓は片付けられていた。頭の横に未完のぼくの人生が、二十数年分、書き込まれている。三つの異なった歩み。それをたたんでひんやりとしたシーツの間に身体をすべりこませた。
電気を消してもさっきのしみはまだ見えるような気がする。音もしない。ひとの気配もない。ぼくは明日の時刻表を確認しておけばよかったと小さな後悔をわざわざ見つける。しかし、後悔というのはもっと重大なものだと考え、誘われてもいないのにもったいぶる繁華街の店の前にいるお客のように眠りが気軽に呼びかけてくれるのを静かに目をつぶって待っていた。
日が落ちると宿に向かった。荷物も少ない自分に応対してくれたひとは不思議と不信感も抱かなかった。そのひとに値段の交渉をする。夕飯や朝飯の有無を問われ、両方ともいると答えるとあっさりと価格が提示される。了承するしかないが、不満もない。風呂に入って考える。ありもしない身の振り方を。
「え、なにしてるの?」さっきの良枝の応対がよみがえる。むりやりに納得させて、ぼくは電話を切った。不信感のかたまりという形容詞をあてる。当然だ。ぼくの一部は所有されている。こちらも不満もない。ただの成り行きで、こうして風呂に入っている。
天井からぽとりと水滴が落ちる。水滴だと思っているが、ほんとうは別のものかもしれない。誰かの涙。詩人に過ぎる、表現が。
風呂からあがると押入れの布団が畳のうえに場所を移動していた。その横に使い込んだ机のうえに食事が用意されている。刺身と煮物。ぼくはビールを頼む。自分が旧い時代の人間のように感じられた。
「片付けないで、そのままで結構ですよ」と最後に言われて戸をぴったりと閉められるが、かすかな隙間もある。配管をなにかが流れる音がする。自分の体内も同じようなものだ。ビールを飲むと、腹の方で音が鳴った。何気なく壁のしみを見る。子どものころに受けたテストを思い出す。何かの模様に見えるし、何でもないただのしみだともいえた。
食べはじめたときはそうでもないのだが、急に食欲が失せた。右手をつかって箸を動かしているが、この緩慢とした動作の連続した積算量は左右の分配で不均衡が生じ、後遺症のようなものが残るのではないかと不安になる。解決する意思も努力もしないのだが、運命というのは、つまりは不安を耐え抜くことでしかできないものなのだろう。
食べ終えて箸を置く。寝転がって何もない荷物から本と履歴書を出した。二枚の紙を取り出し、実際の生活に即したものと、これから成りたいものを二つ仕上げた。さらに一枚抜き取り、間違った過去という架空の題材で学校と職場を勝手に生み出した。そのままうとうとしてしまったが、目を覚ますと食卓は片付けられていた。頭の横に未完のぼくの人生が、二十数年分、書き込まれている。三つの異なった歩み。それをたたんでひんやりとしたシーツの間に身体をすべりこませた。
電気を消してもさっきのしみはまだ見えるような気がする。音もしない。ひとの気配もない。ぼくは明日の時刻表を確認しておけばよかったと小さな後悔をわざわざ見つける。しかし、後悔というのはもっと重大なものだと考え、誘われてもいないのにもったいぶる繁華街の店の前にいるお客のように眠りが気軽に呼びかけてくれるのを静かに目をつぶって待っていた。