爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

最後の火花 88

2015年07月01日 | 最後の火花
最後の火花 88

 なんだか分からないものに対してわたしは祈っている。手元にきた幸福の予感の風船に息を吹き込んで膨らませるように、そっと。力いっぱい入れれば破裂してしまうかもしれない。徐々に、ゆるやかに大きくするのだ。祈りに効果があるのかも分からない。しかし、しないわけにもいかない。やっと、手に入れたものでも、このものの状態よりすこしでも大きくなってほしいのだ。

 期待と呼ばれるものは良いものだ。失敗を考慮にもいれないのどかな気分。だが、実際には小さな障害はどこにでもある。仕事のささいなミスでイライラして、指摘されて焦ってしまい、家での料理の味付けにも失敗する。鍋ごと捨てるほどでもないが、手直しが利かないところまでいってしまう。この日常のやりくりが生きていることの証しなのだが。

 ポストに郵便物が届く。最近になって山形という名前も表札の横に並べた。今日は二通あり、わたし宛のものと山形宛てにそれぞれ一通ずつ入っていた。わたしは片方をテーブルに置き、自分の名前の分の封を開いた。親戚のおばさんからの手紙だった。内容はわたしの新しい関係を心配しながらも、本音ではよろこんでいるようだった。どこからうわさが耳に届いたのだろう。わたしは親戚たちと密な関係がなかった。それでも、分かるときには分かるのだ。主に、男女関係のことであれば。

 わたしはもう一度封にしまい、引き出しの奥に突っ込んだ。文字も紙も廃れ行くものだ。記憶はどれほどの永続性をもつのだろう。わたしは古い記憶の引き出しを手探りする。手紙をくれたおばさんが桃を剥いてくれたことがそのおばさんの最古の思い出だった。あの桃はみずみずしかった。わたしは転んでひざを擦りむいていたはずだ。わたしは自分のひざを見る。もうあの傷はない。あのときに感じた痛みも、流したかもしれない涙の痕跡もない。なくなるというのは蒸発と近いのか。わたしはただぼんやりと遠い過去の映像をあたまのなかで追った。

「手紙がきてるよ」とわたしは彼に言う。首にタオルを巻いている。後ろで英雄が背中に腕をまわして何かを隠しているようだった。

「どうしたの? なにか、もってるの?」
「これ」前に腕を差し出す。手には梨が三つあった。これから秋がくるのだろう。山形がいるはじめての秋。そして、はじめての冬になる。
「剥いてあげようか?」
「うん」

 わたしは台所で包丁を取り出す。後ろを振り向くと山形は手紙を読んでいる。いつになく神妙な顔をしていた。彼の過去を凡そにしか知らない。その凡そは大変な事件でもある。だが、もっと細々としたことや、桃を剥いてもらったような思い出の細部、ディテールを知り尽くしたいと思った。しかし、本人でも思い出すことがむずかしい場面も多いのだから、簡単には共通のものにすることなどできない。

 梨はぬるかった。それでも、甘味が減ったわけでもない。果実のもつみずみずしさと似たものが少女たち、若い女性たちにもあった。わたしにはどれほどが残されているのだろう。貯えることもできない一時的なもの。銀行ではなく、小さな小銭入れのようなもの。取り出してしまえば直ぐになくなるもの。わたしは自分の頬を触る。肌こそが唯一の女性の価値のようにも感じた。値打ち。特売品。

 山形が手紙の返事を書いている。ここで書いているぐらいだから秘密でもなく、隠す必要もない類いのものだろう。内容を説明してもらいたいと思うがねだることもできない。個人というものは大切な単位だ。いくら家族に近付いたとはいえ。わたしは洗濯物をたたむ。いつか英雄もこれほど大きくなるのだろうか。三分の一ほどの面積の下着。この大小、長短の比較で算数の計算にも役立ちそうな大きさの相違だった。

 わたしは英雄と連れ立って魚屋に行き、八百屋に寄った。ふたつの店は近く、威勢のよい声を互いに張り合っているような大きさだった。元気がある証拠。どちらもおまけをしてくれた。家族が増えたことを知られている。

 家に着くと入れ違いに彼は出ていった。
「どこ行くの?」
「そこのポストまで」
「だったら、ついでに行ったのに、ね」と英雄に向かっても言う。
「いま、書き終わったところだし、切手もないし、タバコも買いたいから」

 彼はそう言うと背中を丸めて歩いて行った。英雄は家に入らず外でそのまま遊んでいた。わたしは夕飯を用意する。味噌汁にさいの目に切った豆腐を入れておしまいだった。

「できたよ」と外に声をかける。山形は切り株にすわって悠々とタバコを吸っていた。それを足の裏で揉み消し、ふたりは部屋に入った。

 山形の顔も幸福の予感があるようだった。そういう尺度でわたしが見ているだけだからかもしれない。部屋にお味噌の匂いが充ちる。幸福って、結局はこういう一場面のような気もする。金ぴかのお皿や調度品もなければ、顔が映り込むほどの輝くナイフやスプーンもない。贅沢には切りがない。際限がない。だが、多少のそれを味わってもみたかった。英雄はいつかそういう社会に組み込まれていけるのだろうか。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 最後の火花 87 | トップ | 最後の火花 89 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

最後の火花」カテゴリの最新記事