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最後の火花 93

2015年07月10日 | 最後の火花
最後の火花 93

 オレはいったい女という明らかに自分以外のものを何人ほど好きになったのだろう。自己愛を離れて。免れて。

 もちろん、あるものは終わってから次の誰かが生まれる。卵の殻が割れるようにして。意図もしないのに勝手に好意は芽生えている。誰がオレにその感情をインプットしたのだろう。しかし、詳しく考えてみればそれぞれがきっちりと終わってもいなく、指揮棒を置くような完全な解決も終止符もなく、次がはじまっている。アンコールを頼んでいないのに。ただビールのグラスに注ぎ足すように、過去をいくらかずつは引き継いでいる。それも正解ではない。どれも完了という境地には到達しない。まだ直らない傷のようにじくじくと生きつづけている。これが男性の性なのだろうか。あるいは自分だけなのかもしれない。

 恋という感情をもてあまして意地悪をする。なぜ、あんな可哀そうなことをしなければならなかったのか。いたいけな少女に対して。あるときからは正反対の守る対象になる。そして、涙をはじめて見る。唇を触れ合わす。身体を重ねる。それ以降、関係性は変わる。

 何人とそういう関係ができたのだろう。先輩に連れられて、とある場所まで行った。泥酔していた記憶しかない。名前も顔も思い出せないひとり。あの金は先輩が払ってくれたはずだ。誕生日か新入社員として働きはじめたころのことか。あのころはまだ未来を大きく感じ、茫洋としてだが希望をもっていた。いまは限定されてきている。現実はより身近に感じ、濡れたシャツのように肌に密着している。これ以上、大きくなることはないだろう。

 オレは働き、子どもを可愛がった。妻となるべきひとも見つかった。相手がそう望んでいるかまだ確証はない。彼女は一度、失敗している。不幸な決断だっただけだ。オレがひとの不幸な決断をとがめる権利などない。オレこそが間違った歩みをしてきたのだ。償いはきつかった。オレを根本的に曲げてしまった。しかし、仕方がない。身から出た錆だ。

 オレは信頼を取り戻そうとしている。誰かが親身になって自分を引き留めてくれていたら、あの時どうなったのだろうか。やはり、片意地張って反抗をつづけただろう。それがあの時のオレだった。味方と認めていた人々は自分の身の回りから一目散に逃げ去り、そして、現状は磁石のようにこの家族をひきつけた。好きとか嫌いを超越した責任があった。そもそも大人はもう好悪などの下卑た感情で一喜一憂してはいけないのだ。好きも仮面の下に隠し、嫌悪もまったくの能面のような無表情でやり過ごす。オレの感情は冷え切った鉄のようなものとなる。しかし、冷酷な尖った物質となれば自分自身をも傷つけてしまう可能性があった。

 オレはほんとうは池の鯉のように口を大きく開けて愛を感じ、なまけものの犬のように小屋でのんびりと寝そべりたかった。オレを脅かすものはなにもなく、オレから奪うものも誰もいない。しかし、そうした境遇に甘んじられるのは一部の裕福なひとのみだった。オレは今後もその側にいけないだろう。いけないからといって悲観はしない。この場をすこしでも安らかなものとするのだ。

 オレは昼休みに新聞に目を通す。世間というものがようやく分かりかけてきた。遅いスタートだった。平均所得という記事がある。オレのところに統計を取りにはやってこない。しかし、この記事はただしいものとして読まれている。オレはその額との差を自分の価値と認める。英雄には高等な教育を受けてもらおう。実力が実力として認められる世の中の一員となってもらおう。

 工場の機械は午後になってまた動き出した。オレは満腹になって眠気を感じる。数か月前はもっと飢えていて、何かを希求してギラギラしていたつもりだった。いまのオレは去勢されてしまっていた。望んでそうなった。もうオレの内部の危険な衝動は消滅してしまったのだろうか。それとも、目を覚める機会を狙ってぐっすりと休んでいるのだろうか。オレを許さないひとがいて、オレを許そうとしているひともいる。その先頭にいるのがあの家族であり、ここの社長でもあった。

 午後の休憩はのこりの仕事量を再計算するときでもある。このままなら少しばかり残業を頼まれるだろう。このいくつもの部品を使い尽くす次の工程も数日後には同様に忙しくなるのだろう。さらに先があって、また先がある。その完成品をオレは見ることがない。いつか自分でも購入できる資金がたまるだろうか。しかし、まだまだ先だろう。

「山形くん、悪いな、きょうもまたお願いできるかな」社長は首にタオルを巻いて、その裾で汗ばむ額を拭きながら訊いた。
「いいですよ」
「ちょうどあっちに用があるから、英雄くんにそう伝言しておくよ」
「ありがとうございます」

 オレはまた黙々と作業をする。ひとりで頭のなかだけで語っている。オレは過去のオレと対峙し、未来のオレに打ち明けた。未来のオレは白髪が増え、相変わらず痩せたままだが幸せそうにしている。ああなるために、いまのオレは働かなければいけない、稼がなければいけない。過去を償わなければいけない。未来に贈り物を届けなければいけないのだ。


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