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最後の火花 95

2015年07月13日 | 最後の火花
最後の火花 95

 残業がつづき、疲れがたまる。しかし、仕事があることは良いことだった。オレは満腹になり居眠りしてしまう。畳のうえに横たわり、その身体に毛布がかけられている。オレは目を覚まして風呂に入った。

 喉がかわいたので風呂上りにビールを飲んだ。コップがふたつ。オレらは今後のことを話す。世界に生きているのはこのふたりだけのような静けさのなかで。実際にはそばに子どもが寝ている。あと七時間や八時間は確実に目を覚まさない。オレは一晩中、目を覚まさないことなど年に一度か、二度しかない。心配と不安は確かに減った。過去の悔いは完全には消えないだろう。もう既にそれはオレの一部と化していた。

 余った漬け物を食べる。食感がここちいい。ビールを飲み干して布団に入る。オレは隆起したふたつの物体に触れる。この凹凸を誰が作り、誰が最初に発見したのだろう。オレは吐息を感じる。一体になるという喜びを知る。

 朝になる。天気は晴れていた。作業着を着て靴のひもを結ぶ。昼の弁当を手にして、職場に向かった。これがずっとつづく。あと三十年ぐらいは待っているのだろう。それが人生のすべてだった。不満もない。この段階までいけない日々があった。オレは隔離され、名前より番号がオレを示していた。

 学校ではみんなが母の弁当をもっていた。オレらは似たような用意された弁当を順番にもたされた。そこに個性もなく、ただ空腹をみたすということが最優先された。空になった弁当箱を各自で洗い、次にその容器をつかうか分からないまま濡れた布巾で水気を取った。

 何度か学校をさぼって弁当だけ食って帰った。しかし、ズル休みは絶対にばれる。オレは内面は置き去りにして、儀礼的に頭を下げた。それで罰があるわけでもなく、さまざまな悪事は結局は自分に帰ってくるという方針で放置された。

 友人とふたりで電車を乗り合わせ、海に行った。帰りは夜の九時ごろになった。そのときだけはさすがに心配された。いっしょの彼は不治の病いでいま入院している。もっとズル休みでもなんでもして彼をいろいろなところに連れて行けばよかった。これもできなかったことによる後悔のひとつになる。オレは彼の顔を見たい。是非ともこのオレの脳裡に刻み付けたいと願っていた。

 してしまったことで後悔して、しなかったことでも同じように悔いた。人間というものは不思議なものだ。オレは生産量というノルマを考えながら、午前の時間を計算した。機械の不具合で思ったようには捗らなかった。その整備に時間を追われ、あっという間に昼になった。昨日の夜からおかしかったのだが点検を怠ったツケがきょうになって現れる。しかし、もういまはスムーズに動いている。午後には挽回となるだろう。

 オレは焼いたしゃけを食べる。飽きることのない味。何事にも飽きた自分だが、意外と味覚は保守的にできているのだろうか。お茶を飲んで、新聞を読んで午後の仕事となる。また長丁場になりそうだった。

 機械は調子を取り戻したが、三時の休憩前になにかが切れる音がした。間もなく機械はとまった。ファンのベルトがぺたぺたと何かにぶつかる音がする。これでは手に負えそうになかった。オレは電話を借りて業者を呼ぶ。修理に直ぐにかけつけてくれるそうだ。

 長い休憩になり、仕方なくできる範囲の作業に取り掛かる。それでも、四時過ぎには直った。ベルトを新しいものに取り換え、回転させると以前より軽い音になった。ずっと負荷がかかっていたのだろう。オレはまた仕事にもどる。焦って却ってこじらせてしまう場合があるので、慎重にする。オレはこのベルトをなぜか友人の命と結びつけてしまう。途端にいやな汗を感じる。あともう少しで休みがもらえる。しばらくは耐えてくれるだろう。

 残業を依頼されて受諾する。猫の手を借りたい、と無邪気にひとりごとを言う。オレは一服のために、五分ほど持ち場を離れた。外は電灯がつき、夜をそろそろはじめている。腹が減る。オレはタバコを揉み消し、いつもの工程にもどった。

 今日は給料日だった。帰る間際に封筒を受け取る。オレは中味を確認する。札を数枚抜き、このまま手渡そうと考えていた。しかし、月末の旅費のため、もう数枚さらに抜いた。

 オレはそこから酒とタバコを帰りに買った。呼び込みのいる酒場の前を通りかかった。若いころ、いや、ちょっと前まではたまに訪れていた。あのなかで浪費した時間と金がどれぐらいだったのか想像する。

 家の前まで着く。夕餉のにおいがする。戸を開くと新しい絵が目の前に飛び込んだ。タバコを吸っているオレの姿だった。英雄にはこう映っているのだろう。

「よく描けてるな。指名手配なら直ぐに見つかる」と冗談をいう。
「いやなこと言わないで」とあいつはエプロンで手を拭きつつ、にこやかに言った。

 オレは弁当箱を取り出して手を洗って食卓につく。茶碗の前に給料袋を載せる。「旅費のためにちょっと多く抜いた」と付け加えた。
「もう充分、もらっているわよ」と彼女は言ってタンスのうえに供えるようにうやうやしく置いた。


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