爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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存在理由(15)

2010年11月08日 | 存在理由
(15)

 同じような真新しいスーツを着た男性や、女性が集まって行く。自分もその一員である。外には桜が咲いている。

 それぞれの顔の表情には、所属する場所を得た安堵感や満足感が浮かんでいる。また、それとは逆に他の人間とは差異があることを証明しなければならない焦りやエネルギーの発露を探している表情もあった。自分は、偶然にもこの場所に居合わせた人のようだった。多分、今まで通りいつも感じていた気持ちを持ちながら、そこにいた。

 生まれながらにして、中心人物になれないような性格を抱えてしまっているので、自分の存在を証明することにも、また、そのためにか、こっそり生き抜いていくことも持ち合わせていないらしく、自分の将来がどう転ぶかも分からないので、休日の将棋の番組を客観的に見ているような、他人ごとのような顔をして、そこにいた。

 自分の配属される部署で挨拶をし、先輩達の期待やら、あきらめやらの気持ちを軽く分析し、仕事とも呼べないような雑用を済ましていく。

 何日か経ち、歓迎会のようなものも開かれていく。個性を押し殺したような挨拶をし、異常に緊張している同僚の声を他人のような気持で聞き、何十年、ここで暮らすことになるのだろう、といらぬ計算もした。

 歓迎会も時間が進めば、本心もいくらか見え隠れする。きれいな新入社員にすぐ名刺を配る先輩たち。自分は、多分、長いことここにはいないのだろう、という気持ちをすぐに持ってしまった。社会が自分を利用するならば、自分の時間を摩耗しつづけていくならば、自分もその領分を考えなければならない。

 お酒が入る量とネクタイの緩む範囲が比例していく。何人かの同僚は酔い潰れ、逃げ足の痕跡を残さないことを第一の主義にしている先輩たちはうまく消え、自分は、ここではいもしないみどりのことを考えていた。

 歓迎会も終わりが近づき、そこまで酔いにも耐えた、新人の自分を含めた男性5人と女性の3人がチェーン店の喫茶店で、コーヒーを囲んでいる。それぞれの不安を言い合い、回答のないまま疑問だけが増え続けていく。

 自分は会社の規模が大きくなっていただけで、学生時代のバイトの経験が生かされていくのだろうと、安心感を抱くことが勝っていた。一時間弱、そこで時間を潰し、それぞれの終電の時間を気にしながら、店を後にした。

 駅までの道の途中で公衆電話を探す。一つ目は意識していたのか素通りしてしまったが、二つ目の場所で、みどりが心配していることだろうと、彼女の番号を押した。

 電話に出た彼女はうとうとしていたのだろうが、ぼくの電話を待っていたらしく、いつものように少しぼくをなじった。彼女が世界とつながるには、いつもこのような態度を取ることをぼくは知り始めていた。それはぼくにとっては、そんなに厭なことでもなかったが、この時は、すこし違うな、という感じを抱いた。その気持ち以上に大切なのは疑いのない事実なのだが。

「どうなりそう? 新しい職場?」
「まだまだ、分からないよ。自分のことを期待されていないことも分かるし、そこから長い期間をかけて役にたつことを証明していかなければならないんだろう。憂鬱だよ」

 組織の人間として暮らすということに、普通の人間は疑問を抱かないのだろうか? 自分は絶えず、この時代とこの国の在り方を疑問視していかなければならなかった。
「そう、難しく考えるのは悪い癖だよ。困った時は助けになるからね」

 彼女は、いつものように、姉のような気持を、この夜も発揮した。

 電話を終え、春とは言いながらも、実際は冬の未練を引きずっている陽気の中を、薄い生地のスーツで寒く感じながら、地下鉄の駅まで歩いた。

 車内に入ると、急に眠気を感じ、前に座っていた人が降りたので、空いた席に身を沈める。鞄を抱え、文庫を取り出したが、眠気に負けてしまい、目をつぶった。

 この時に、あと40年近く、自分の脳と体力と、他との駆け引きで暮らしていかなければならないとの実感を見出した。多分、その期間には、みどりの存在もずっとあり続けるのだろう、との予感もした。  

拒絶の歴史(123)

2010年11月07日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(123)

 何日か経って、ゆっくりとした時間ができた。テーブルの前には雪代がいた。
「唐突な話なんだけど、東京に行かないかっていう話があって」
「出張?」
「違うよ。向こうの支店にさ」
「良かったじゃない。いろいろ経験できるかもしれなくて」
「でも、そうそう会えなくなるよ」
「むかし、反対の立場があったこと覚えてないの?」
「忘れるわけなんかないじゃん。覚えているよ」
「なら、今度も乗り越えられるよ」
「そう思ってくれてるならいいけど」
「行きたくない理由を探している?」
「多分、あの社長が決めたことだから、断ることもできないと思うしさ」
「ふたりの関係と距離を乗り越える自信がない? 今度ばかりは」
「あの時は、若かったけど、いまはいろいろなものを安定させる時期なのに、と思って」
「大切に考えてくれてるんだ」
「もちろんだよ」
「だけど、あの若いときみたいな情熱は薄らいでしまった?」
「また、それを言う」

 ぼくらは、しばらく黙り、それぞれの言葉を考えている。言葉のうらに隠されている意味合いも計ろうとしている。
「行ってきなさいよ。わたし、ずっと待ってるから。そんないじいじした女性じゃないけど。ひろし君ももっと大きな男性になるべきだよ」

「うん。じゃあ、そっちの方向で答えるよ」しかし、本当はもう行くことに決めていた。だが、こころのどこかで引き止めてくれるなら、そのチャンスを棒に振ってもいいと考えている自分もいた。

 ぼくらは普段どおり、食事をとり、皿を洗い、それを乾かしたり拭いたりした。テレビを見て、テレビを消し、音楽を聴いた。レスター・ヤングという才能あるサックス・プレーヤーは聴き手に自分の能力を微塵も感じさせず、ただ淡々とその世界を構築していた。ぼくは身近にあった雑誌を広げ、洋服やそれを着ている女性たちを無心に眺めた。無心といっても前にそこにいた雪代を思い出し、それを取り戻そうとしていた。また、あの頃の新鮮な自分と雪代の関係も考えないわけにはいかなかった。

 雪代はシャワーを浴び終え、それをぼくにも促した。ぼくはだらだらとグラス片手にレスター・ヤングの世界にとどまっていたかった。そこには変化も悩みもないような印象があったからだ。だが、その世界の音楽は終わり、ぼくも言われたとおり、頭を洗い、身体の汗を流した。

 明かりを消し、ベッドに潜り込んだ。雪代の足はすこし冷たかった。それをぼくの足で暖めようとしている。
「わたしも仕事は自由になるから東京に会いに行くよ」
「うん」
「それとも、迷惑?」
「迷惑じゃないよ。嬉しいよ」
「そう」
 彼女の足はこころもち暖かくなったようだが、それでも、まだ依然として冷たかった。だが、そのうちに寝息が聞こえ、足も次第に離れていった。ぼくは、普段そんなことはないのだが、目をつぶっていても眠れなかった。目は暗い中のものまで見えるように醒め、ここ何年かの自分と雪代のことを考えている。ぼくらは運命のひとに会ったかのように一心になり、こころの奥まで分かりあえたような感覚もあった。だが、それに安住すればするほどに、その気持ちは不安定なものになっていく。

 彼女は寝返りを打った。その拍子に枕から頭がはずれ、華奢な首は居心地悪そうにシーツに触れている。ぼくは頭を支え、柔らかな枕を耳の下にそっと置いた。彼女の眠りは深く、なにをしても今日は起きそうになかった。
 翌日になり、ぼくらはまた同じ日常に戻る。
「じゃあ、社長に昨日のこと、返事しちゃうよ」
「うん、頑張って。いってらっしゃい」

 ぼくは、会社に向かう。彼女は、ずっと待つと言った。ぼくも大学生のときに、彼女が東京で働いていたため、約2年間の空白があった。それを追体験する覚悟はあったが、それが今回も成功するとも思えなかった。ぼくらはもう一段階すすんだ関係に突入する時期に来ていたのだ。それを水に流してしまうようなことが簡単に許されるとも思えなかった。

 会社に着き、ぼくは目で社長に合図をして時間を作ってもらった。それは、雪代に言いました、という言葉を説明するものだった。

「彼女は、納得した?」
「ええ、まあ」
「やっぱり、大人だねぇ」とへんな感心をした。
 ぼくはいつも通りの仕事をしたが、不図、彼女の様子を考えてしまう時間があった。ほんとうに彼女は待っていてくれるのだろうか? 彼女は発言したことをきちんと守ることは知っている。だが、ぼくの東京での期間は正式にはないも同然だった。社長の思いつきで戻って来いと言うかもしれないし、永遠に言わないかもしれない。それをただの口の約束だからと言って、その愛情に依存しすぎて良いものなのだろうか? ぼくは、いろいろな不安要素を掻き集めては、ただ迷った。

 結局は、いまの自分は知っているのだが、もちろん互いの考え出した結論なのだが、ぼくは彼女にそのチャンスを与えなかった。ほかのチャンスの方がおいしいぞ、とでも言うように意気地のない考えを導き出した。だが、それはもう少し時間が経ってからの話だ。

拒絶の歴史(122)

2010年11月06日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(122)

 いつも行く馴染みの酒場で社長と座っている。彼が珍しくお願いがあると言った。多分、息子である上田先輩に関してのことだろうと気楽な気持ちで待っていた。

 ぼくはビールを飲みながら、店の女性と話していた。そこにいつも慌ただしくしている社長が入ってきた。今日起こった乗り越えるべき困難を楽しそうに語り、ぼくはゲームの主人公のようになっている社長を想像している。主人公はたくさんの難題を乗り越えて、次なるステージに行くのだ。次の場面でももちろんのことパワーアップした難題がまっているのだが。そして、出来事を一通り話し終えあると途端に真面目な顔つきになった。

「近藤君、東京に行かないか?」
「出張ですか?」
「違うよ、なに言ってんだよ。あっちの支店にさ」
「だって、もう人数も揃ってますよね」
「だけど、あっちで揉まれてこいよ、という愛情のしるしだよ」
「その気持ちは嬉しいですけど、ぼくには、雪代もいるし」
「誰も、一生いてくれなんて、お願いしているわけでもないしさ」
「分かりますけど」
「彼女もそれぐらいは待ってくれるだろう」

 ぼくは目の前にあった料理に手をつけるのを忘れていて、考え事をするためと、なにも性急に言葉を発したくないため、両方の意味合いで口のなかにものを運んだ。

「直ぐ、回答が欲しいわけでもないんだよ」といいながら、彼が宣言した以上は、彼のこころのなかでは固まっている事実を告げているに違いなかった。「まあ、今日は飲んで、家で相談しろよ」といってまた日常の話に戻った。社長のカバンから息子と嫁の写真がでてきた。ぼくはそれを見ながら、この前泊まったときの話をした。彼はぼくらの友情の話を聞くのが好きだった。だから、ぼくはある面では大げさに話した。また、嫁の飾らない性格を愛していて、そのエピソードも訊きたがった。だから、ぼくは進行形ではない話も含めて彼に披露した。

 その話も一段落すると、社長は用事があるといって出て行った。「ゆっくり飲んでいけよ」と言ってある程度の勘定を済ませてそこから消えた。

「近藤君、東京行くの? 寂しくなるね」
「まだ決まった訳じゃないですけど、社長がああ言った以上、彼はもう段取りまでしているはずです」
「そいうひとだもんね」
「せっかちで、思ったことを直ぐ行動に移す。結果はあとでまとめればいい?」
「そういうことね。なに飲む?」

 ぼくはお代わりを告げ、グラスを手にする。もうその時点で、今日は酔ってしまおうと決めていたのかもしれない。ピッチは早くなり、その女性を相手にぼくはこの町の幼少期からの思い出を一方的に話した。それは、この町への決別を自分自身に与える役目を果たしたのかもしれなかったし、また、自分へ刻み付ける営みだったのかもしれない。口に出せば思い出はより鮮明になり、大事なひとの何人かの映像が目のまえに浮かんだ。
「初恋って、いまのひと?」
「どうだろう。違うかもしれないね」
「誰?」

 ぼくは裕紀という子のことを思い出し、それを脚色なしで話した。ぼくには良い思い出しか残っておらず、反対にその子が、もし、ぼくのことを思い出すときは憎しみしかないのかもしれないと考えると、恐怖と絶望が浮かんだ。
「あの女性の前に、近藤君にはそんな子がいたんだ。素敵ね」
「でも、さっきも話したように酷いことをしてしまったんですよ。憎んでますかね?」ぼくは、そこで許しの言葉を聞きたかったのかもしれない。

「さあ、どうなんだろう? 青春の1ページみたいに良い思い出に変化しているかもね。でも、酷いことをしたもんね」と言って彼女は笑った。店はもう閉店を迎えており、なぜかそれでもぼくの腰は重かった。
「もうそろそろ帰らないと」
「あと、何回かしか来れないんだから、もう少し居ていいわよ」

 ぼくはその言葉に甘え、彼女の息子のサッカーが上達した話を聞いた。ぼくはそれでまた何人かの知人たちの顔を思い浮かべる。いくらかセンチメンタルになり、それぞれの良い一面を手のひらに転がすように考えた。死ぬほど憎むことを誓ったような学生時代のひとりのことも思い浮かんだが、それでもそのひとの良い面をあらためて発見するまでにセンチメンタルになっていた。またその当時の自分の未熟な感情を憐れに思った。

 ぼくは酔いつぶれる寸前までになり、うとうとした。だが、その後にその女性の顔がぼくに近付いて揺すぶり起こしてくれる感覚を覚えている。その彼女の顔はより鮮明になって、ぼくの頬にキスしてくれた。そうなってしまうとぼくには歯止めが利かず、肉体的な関係をもってしまった。もしかしたら、ずっとここに通っていたのも潜在的にそれを望んでいたからかもしれなかった。

 ぼくはスーツに腕を通し、暗い夜道をひとりで歩いている。酔いはまだ残っていて、足はふらふらとした。そして、この町に対する思い出がまたひとつ増えたことを実感している。

存在理由(14)

2010年11月04日 | 存在理由
(14)

 親から最後にもらうことになる数枚の一万円札が、数着のスーツになり、数枚のシャツとネクタイにも化け、新しく社会に出る用意ができた。それは、外面にとってのはなしだが、とにかく先ずは外見を整えれば、その後はどうにかなるだろうという気持ちもあった。

 ちょうど、スーツを選んだ店は、雑誌社で働いていたときに取材したこともあり、それからもつながっていた関係なので、いくらか値段を安くもしてくれた。それ以上に、きちんとしたスーツは、自分にとっても初めてなので浮つくかもしれない不安もあったのだが、きちんとチョイスをしてもらい、自分にぴったりなのが嬉しかった。

 その変わりに、その女性の店員が仕事が終わる時間に待ち合わせをして、一緒に御飯に行くことになった。その女性は若いのに、とてもエレガントで、また可愛らしい面も多かった。しかし、名前が通っている人の彼女であるということも、大っぴらにはされていないが有名なはなしだった。彼らの関係は、まだまだ子供の感覚が抜けきらない当時の自分にとっては、羨望のまなざしでもあった。

 その女性と、レストランのテーブルを間に挟み、きれいな顔を見ていると、その男性はいかに幸福、それも大きな幸福をもっているのだろうと、軽く赤ワインで酔った頭でぼくは思いを馳せた。
 彼女は、とても繊細な指先をしていた。それに、時間を確認するためだけに使うには、とても不都合な腕時計を、細すぎる手首にはめていた。

 きれいな数歳上の女性と、おいしいワインが並び、それに会話もスムーズに運べば、酔いも増幅されるのは仕方がないかもしれない。

 今日も、みどりは仕事で忙しそうだった。それは、自分のこころに、きちんと言い聞かせ決着をつけたと思ってはいたのだが、その時はいたって若く、可能性の袋は無制限に膨らみそうな気持を有していたので、食事が終わっても、このひと時に定住したい気持ちもそこにあった。

 勘定を済ませ、そのまま彼女の知り合いのバーに連れて行ってもらった。今度は、彼女がぼくの就職祝いということで、私の知り合いの店に連れて行くということらしい。

 小さく流れる音楽があり、働くこと、テーブルを片づけること、グラスを丁寧に洗うこと、そうしたことのために、小さな世界を確立することにいそしんでいる人が店の中を切り盛りしていた。彼女の快活な笑い声を聞きたいがために、ぼくは自分の失敗談をかき集める。それを親友に起こった事件のようにも、たまには脚色した。

 いい加減に酔いが限界にまで達し、地下の店から足がふらつきながらも、やっと外の急に冷たくなった風に当たった。ビルとビルの間からかすかに東京タワーが恥ずかしげに姿を表し、彼女のコートの方から、名前の分からない香水の匂いがした。みどりは、あまりそうしたものをつけなかった。

 ここからは、自分に決定権のない奴隷のように彼女の住まいについていった。悪いことをしているな、という感情は残っていたはずだが、誰かの目に触れることもないし、みどり以外の人に自分が好かれるのか確認したかった気持もあったのかもしれない。すべて、言い訳なのは充分すぎるほど分かっているのだが。

 タクシーがそばを通り、その路上から姿を消す二人。鏡の中には、紅潮した自分の顔と、彼女の赤くなった肩が、そのぼくの顔のそばにあって映った。

 タクシーはいくつかの信号を音もなく通り過ぎ、何店舗かのコンビニの横も通過し、大人の通過儀礼としてなのか、そこに集まっている、行き場のない若者たちもちらほらいるのが見えた。数年前は、ぼくも田舎の町をそのような一員として集まっていた。しかし、いまはきちんと行き場を探し、暖かい女性の笑い声を、すぐ近くで耳にすることも出来ている。
 タクシーは止まり、ある酔っぱらいに、

「きれいな彼女を連れちゃって」と、下品なことばを投げかけられ、それでも、そこから数十メートル先の彼女の家に着いた。
 彼女は、着替えのために別の部屋に入り、ソファにぼくは倒れこんだ。数枚の一万円札はスーツになり、そのような新品の服を着た同僚たちが、一週間後にはぼくにもできるのだろう。

 自分は、きちんと居場所をみつけられるのだろうか? 社会をファール・ゾーンからではなく、自分もグラウンドの中から周りを見渡すことができるのだろうか?

拒絶の歴史(121)

2010年11月03日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(121)

 ぼくは、雪代のことについて考えるのをわざと忘れようとしているのかもしれない。だが、ぼくらの残された関係は終わりに近づいている。それを思い出すことは、まだ楽しいということよりも、哀しさがつきまとうのも事実だった。しかし、哀しみがあったとしても、先延ばしにはできなかった。

 ぼくは、途中に時間が空いたとしても、雪代とここ数年ずっといっしょにいた。ぼくのこころのなかの大切な箱のなかには彼女がいて、またそれ以外はいらなかったし必要なかった。愛しているのは間違いのないことだったが、ぼくらの関係はコンクリートに亀裂が見られるように、目を防ごうとしてもありありと感じられた。どちらもその関係を維持しようと努力しなかったわけでもないし、壊れることなど望んでもいなかった。修復できるならば、どんなことがあろうと修復したかった。しかし、これもまた人生に訪れる別れのひとつなのかと、ふと考えてしまうこともあった。

 それでも、お互いには日常のさまざまな雑事があり、仕事にも追われた。ぼくは短い出張を繰り返し、彼女も買い付けやらで家を空けてしまうこともあった。彼女の店はすこし離れた場所に二つ目の店をオープンさせた。それは、彼女の能力や自分の意思の手の届く範囲を超えてしまったのかもしれない。しかし、始めてしまった以上、時間が奪われるのは仕方のないことだった。

 その分、ぼくらがゆったり過ごす時間は減り、また同様に会話をする機会も減った。分かり合えていたはずだと思っていたが、ぼくらは互いのことを理解し得ない領域を増やしていった。ぼくは、何を彼女が求めているのか、もう分からなかったし、その追求も避けていた。多分、彼女も同じような気持ちだっただろう。

 それで仕事がうまくいかなかったり手がつかないということはまったくなく、ぼくも順調に成果を延ばし、彼女の店も売り上げを上げていった。それゆえに、楽しいことのほうに時間を多く割いた。ぼくも先輩や後輩たちとたまには社長と仕事が終わったあとも過ごす時間が増えた。

 そうしながらも、休日が合えばぼくらはいっしょに外出し、ドライブにも行った。会話が少なくなったとしても、ぼくらは表面的には安定したふたりに見えたことだろう。ぼくらは互いのことを優先しあい、それは衝突を避ける意味合いもあったのかもしれないが、それゆえにいたわりあうふたりだった。

 夜になって、ぼくらはリビングで、またはベッドのなかで存在を感じた。彼女はときに、
「ひろし君は、以前のようにわたしを愛してくれてるのかな?」と言った。

 彼女にとって、それは最重要な問題らしかった。ぼくは笑顔でそうだと答えることもあったし、ふてくされた態度で「何度もきくなよ」と言ったりもした。ぼくは、当然そうだと考えていたが、訊かれれば訊かれるほど自分自身に疑心をもち、自信をうしない、やぶれかぶれな気持ちにさせた。

 だが、勘がいい彼女がそう思うならば、それもまた事実なのだろうと考えた。ぼくは疑いをもったオセロのように彼女の言葉を何パーセントかは真に受けていった。

 でも、それで彼女の美点が消えるわけでもなかった。相変わらず美しかったし、ぼくが望んでいたものをすべてもっていた女性でもあったし、彼女の移り行くなかにぼく自身の成長もとどめていた。彼女を失えば、ぼくのここ何年間かも無駄に消滅してしまうようにも思えた。利己的な考え方なのは分かっていたが、ぼくはそれを失いたくなかった。ある日の自分をもっとも知っているのは、当然のこと雪代なのであった。その人以外は、ぼくの一部分しか知っておらず、それは象のしっぽだけを握って全体像を判断するようないびつなものだったかもしれない。

 また逆にいえば、彼女のあるべき理想を知っているのも自分だった。若いモデル時代にすでに自分の目標を掲げ、彼女は邁進していった。それでも、一瞬たりとも優しさを失わず、店のバイトの子たちの心配をいつでもしていた。自然なぐらいに世話を焼き、暖かさのベールのようなものが彼女を包んでいた。

 だが、やはりぼくらは夢の国に住んでいけるはずもなく、ある日、社長から東京に支店をつくるということを聞かされる。ぼくは、そのことを自分の人生とは関係ないものとして聞き、ある日、それが自分に降りかかってくるものとは思ってもみなかった。雪代は、もう少し、ぼくを人間として高めたいようだった。それだったら、犠牲を問わないという潔さも兼ね備えていた。ぼくらの気持ちは平行線をたどり、ぼくの愛は目減りしていると誤解され、仕事は次の場所への移動を求めていた。

 ぼくはもっと愛情だけのことを考えるべきだったのかもしれない。この移動中には彼女の素晴らしさだけを考えるべきだったのかもしれない。だが、瑣末なことだけに人生の真実があるならば、ぼくはその瑣末なことも愛していた。

存在理由(13)

2010年11月02日 | 存在理由
(13)

 彼女は横でねむっている。

 その横で、ぼくは別れの手紙を書こうとしている。現状を清算して、次のステップに踏み込みたいという、自分のどうしようもない衝動があって、このように行動しようとしていたわけだ。

 彼女はぼくにとって、申し分のない女性だった。だが、常に見上げる存在でもあったわけである。そのことに不満もないかわりに、そのことが自立できない自分を作っているように思えて仕方がないときも、たまにだがあった。

 なにか質問をすると、最適な答えを、どこからか探し提出する彼女。そのことは学生時代ならまだしも、もう世間にひとりで足を突っ込む時期に来ているのに、いまさら、それでもないだろう、と思っている。

 安易といえば、限りなく安易な発想なのは分かっているが、自分には、当時の自分には、その考えがとてもしっくりいくことだった。

 彼女の部屋で、いくつかのジャズ・ピアノの小さなコレクションの中から、音を出し過ぎないように気をつけて、トミー・フラナガンのあまりにも上品なピアノを聴いていると、完全なる別れの手紙が書けそうな気になってくる。

 このような時には、自分で書きながら、当時の楽しかった思い出が降りかかってくる。そして、そばにいて当然だったな、と甘い感想もある。誰かの存在を見つけ、その人が自分の人生に入ってきて、それが自分の考え方や行動のパターンを変革し、多少はぶつかりながらも、言葉の使用方法や優しさの表し方などを調整していった。あるべき自分に近づいていっている、というような安堵感もあった。

 彼女は寝返りを打つ。小さな吐息がこぼれる。

 手紙の中に、過去の思い出の行数が増えてくる。それは、自分にとってもあまりにも長すぎるような、冗長すぎるきらいもあった。

 書きながら、別れの瞬間をイメージしながらも、自分の行っていることは、ただ、過去の楽しい瞬間の再確認と、文章にしてより鮮明に頭の中で映像化するということだけのような気がしてきた。

 文字になって、目の前に現れてくると、それは自分から発していないようなものにも思えてくる。その手紙、彼らは自分を通して、文字として生まれたがっていただけなのか。自分はその通路にしか過ぎないのか。

 音楽が終わり、無音になる。自分の書いた途中までの手紙を読み返す。バイトの経験が役に立っているからなのだろうか、そうまずくもない文章だった。

 トイレに立つと、彼女の部屋のいろいろなものが目に入ってくる。飾られた絵。カーテンの色。投げ出してある仕事の資料。
 トイレの中には、印象派で有名なダンサーの絵が飾ってある。

 部屋に戻ってくるとき、彼女の仕事の資料を揃えた。秩序ある散乱だったのかもしれないが、自分のある種の几帳面さが、考えるよりも先にそのような行動を促してしまう。

 もう一度、ジャズ・ピアノのCDが揃っている前に、膝をつけて眺めてみるが、どうも、この時間にあうのは、トミー・フラナガン以外にないような気がするので、選べず手を延ばすこともなかった。

 みどりは、小さなうめき声を出し、目を覚まそうとしている。

 ぼくは、急いで書きかけの手紙をズボンのポケットに、がさつに仕舞い、何事もなかったように、何の計画も立てていない人のように証拠をもみ消した。
「どうしたの? まだ、起きてたの? 明日、わたし早いよ」
「うん」
 やっぱり、無理だったのだろうな、と思う。別れの手紙は、過去の思い出の追憶に化け、頭の中にある、いろいろな混乱を、文字という形にしただけになった。

 目をつむると、CDの機械の電源のランプが、小さく赤く灯っていた。
 それは、ぼくの心に残っている希望の具現化のサインでもあったわけだ。
 実際のところ、別れようなどとは、一切思っていなかったのだろうか?