今日はぼくの故郷の町はお十七夜という縁日だなと思う。
どんな由来の縁日だったか忘れてしまったというか
そもそも知らないけれどなんしか縁日ということは覚えている。
お十七夜がすむと確か8月23日が地蔵祭り
それが済むとなんだかもう夏休みももう終わりだなあと思って
子供の頃はちょっと寂しくなっていた。
こういう縁日の日は市内のどこかで郡上躍りをやっていて
よく友達と躍りに行った。
なんだか懐かしいなと思う。
今日も僕のすんでいる地域は曇り空でいくぶん涼しく感じる。
駅のホームを歩いている人も涼しいなあ と言っていた。
昨日も割りと涼しかった。
夕方に私鉄の駅のホームに行くと
ホームの階段の柵に頭を埋めてしんどそうにしている人がいた。
なにがしんどいんだろうと思ってみていると
その人はひっきりなしにくしゃみをしていた。
それはしんどいだろうと思う。
僕もくしゃみがひっきしなしに出ることがたまにあるから
なんとなく想像はつく。
きっと急に気温が下がって鼻水が出始めたのではないかと思う。
僕も気温が下がると鼻水が出る傾向があって
いろいろ特徴をネットで調べて自分はきっと
寒暖差アレルギーなのだろうと判断して
「僕は寒暖差アレルギーなんです」と人に言っていた。
そのセリフをタバコやの店員さんに言うと
タバコやの店員さんはしばらく考えて
「そんなん寒暖差アレルギーなんてややこしいこと言わんと
寒いと鼻が出るでいいんちゃいます?」とおっしゃった。
「そうですね」と僕は言った。
なんか簡単にすむ話は簡単にすっと通るんだなと思って
そのときほっとした記憶がある。
ホームの階段の柵に顔を埋めてくしゃみをしている人を見ると
しんどいだろうなと想像することはできるけれど
そのしんどさをその人と一緒に体験することはできないし
人のしんどさまで体験していたら身が持たなくなってしまう。
そんなことをかんがえると
人のことを思いやるには想像力か大切なんだなと思う。
金光さんの本を読んでいると人のことをお見舞いに言ったとき
「しんどいでしょうね、さぞかししんどいでしょうね」という言葉を
繰り返すとしんどい本人はいらいらしてますますしんどくなってしまう。
「よくなりますように」という言葉をかけるべき
という趣旨のことが書かれている。
なるほどその通りだなと思う。
ネガティブな言葉は人をネガティブな気分にさせ
ポジティブな言葉は人をポジティブにさせる
というのが原則なのだと思う。
しかし、これもあくまで原則で
悲しいときは明るい音楽を聴くより
悲しい音楽を聴いた方が同調して心がやわらぐということがある。
僕も不安なときに不安感に満ちたショスタコーヴィチの音楽を
聴いていると不思議と心が落ち着いた時期があった。
ただ、しんどい人に「さぞかししんどかろう」と大袈裟に
声をかけるのは逆効果というのは自分の体験を通して
かなり同調できる。
昨日あるかたが僕の腕を見て
「ナカシマさんそれでもけっこう日に焼けてますね」とおっしゃった。
「そうですね、それでもけっこう外を歩いてますからね」と僕は言った。
そんなわけで室内にずっとこもっている人よりは
風の寒暖に敏感になっていると思う。
今朝、外に出て風が冷たいと思った。
もちろんまた暑さはぶり返すと思うけれど
こういう風の冷たさを感じると夏の終わりというものを思う。
長袖を出すのも時間の問題だなとか
これからは暖かくすることを考えなくてはいけないなとか。
季節はまた動いていくなと思う。
どんな由来の縁日だったか忘れてしまったというか
そもそも知らないけれどなんしか縁日ということは覚えている。
お十七夜がすむと確か8月23日が地蔵祭り
それが済むとなんだかもう夏休みももう終わりだなあと思って
子供の頃はちょっと寂しくなっていた。
こういう縁日の日は市内のどこかで郡上躍りをやっていて
よく友達と躍りに行った。
なんだか懐かしいなと思う。
今日も僕のすんでいる地域は曇り空でいくぶん涼しく感じる。
駅のホームを歩いている人も涼しいなあ と言っていた。
昨日も割りと涼しかった。
夕方に私鉄の駅のホームに行くと
ホームの階段の柵に頭を埋めてしんどそうにしている人がいた。
なにがしんどいんだろうと思ってみていると
その人はひっきりなしにくしゃみをしていた。
それはしんどいだろうと思う。
僕もくしゃみがひっきしなしに出ることがたまにあるから
なんとなく想像はつく。
きっと急に気温が下がって鼻水が出始めたのではないかと思う。
僕も気温が下がると鼻水が出る傾向があって
いろいろ特徴をネットで調べて自分はきっと
寒暖差アレルギーなのだろうと判断して
「僕は寒暖差アレルギーなんです」と人に言っていた。
そのセリフをタバコやの店員さんに言うと
タバコやの店員さんはしばらく考えて
「そんなん寒暖差アレルギーなんてややこしいこと言わんと
寒いと鼻が出るでいいんちゃいます?」とおっしゃった。
「そうですね」と僕は言った。
なんか簡単にすむ話は簡単にすっと通るんだなと思って
そのときほっとした記憶がある。
ホームの階段の柵に顔を埋めてくしゃみをしている人を見ると
しんどいだろうなと想像することはできるけれど
そのしんどさをその人と一緒に体験することはできないし
人のしんどさまで体験していたら身が持たなくなってしまう。
そんなことをかんがえると
人のことを思いやるには想像力か大切なんだなと思う。
金光さんの本を読んでいると人のことをお見舞いに言ったとき
「しんどいでしょうね、さぞかししんどいでしょうね」という言葉を
繰り返すとしんどい本人はいらいらしてますますしんどくなってしまう。
「よくなりますように」という言葉をかけるべき
という趣旨のことが書かれている。
なるほどその通りだなと思う。
ネガティブな言葉は人をネガティブな気分にさせ
ポジティブな言葉は人をポジティブにさせる
というのが原則なのだと思う。
しかし、これもあくまで原則で
悲しいときは明るい音楽を聴くより
悲しい音楽を聴いた方が同調して心がやわらぐということがある。
僕も不安なときに不安感に満ちたショスタコーヴィチの音楽を
聴いていると不思議と心が落ち着いた時期があった。
ただ、しんどい人に「さぞかししんどかろう」と大袈裟に
声をかけるのは逆効果というのは自分の体験を通して
かなり同調できる。
昨日あるかたが僕の腕を見て
「ナカシマさんそれでもけっこう日に焼けてますね」とおっしゃった。
「そうですね、それでもけっこう外を歩いてますからね」と僕は言った。
そんなわけで室内にずっとこもっている人よりは
風の寒暖に敏感になっていると思う。
今朝、外に出て風が冷たいと思った。
もちろんまた暑さはぶり返すと思うけれど
こういう風の冷たさを感じると夏の終わりというものを思う。
長袖を出すのも時間の問題だなとか
これからは暖かくすることを考えなくてはいけないなとか。
季節はまた動いていくなと思う。