ケンのブログ

日々の雑感や日記

見えないものに目を注ぐ

2018年08月20日 | 日記
今日は暑さがぶり返したように思う。
しかし、七月下旬から八月上旬の暑さに比べると
それでもいくぶんましなように思える。
マンションの階段のところにセミの死骸があった。
そういう季節だなとおもう。
井上陽水さんのある歌の一節に
アリが死んでいる角砂糖のそばで
笑いたい気もするあたりまえすぎて
という下りがある。
秋にセミが死ぬのも角砂糖のそばで
アリが死ぬのも当たり前と言えば当たり前だけれど
なんだかものさびしい。
当たり前のなかに潜むものさびしさや
無常感をすくいとるのは芸術家の仕事のひとつかもしれない。
無常と言えば仏教だけれど
ぶっだの言葉をぱらぱらとめくっていると
名称と形態にとれわれず
というフレーズがけっこう出てくる。
ぶっだの言葉は解説本ではないので
名称と形態ってなに?ということは書いてない。
しかし、例えば誰それはどこの学校をでているとか
どんな仕事をしているとか
誰それは今テレビで人気があるとか
そういうことは名称と形態に属することなのだろう。
名称と形態って平たく言えば名前と形のことだから。
そういう名称と形態と言った現世的なものが
すべてだと思い込むと、なにか間違った方向にいってしまう
というような趣旨のことをあるかたが本に書いておられる。
そう言えばその通りだなと僕も思う。
パウロは
私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。
見えるものは過ぎ去りますが見えないものは永遠に存続するからです。
※コリント人への第二の手紙第四章
と書いている。
見えるものは過ぎ去る、という下りを読むと
そういうところは仏教と一緒だなと思ったりする。
目に見えないものはなにかと言えば例えば
コリント人への第一の手紙第十三章にこんなことが書いてある。
信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。
そのなかでもっとも大いなるものは愛である。

なんかここを読むと岩谷時子さんの歌詞
きみといつまでも とか
僕の妹に、という歌の中の
愛することは信じることさ、君ならばできる
という下りを思い出す。
岩谷時子さんひょっとしたら歌詞を書くときに
パウロを意識しておられたかも知れないと思う。

今日は甲子園の準決勝。
さだまさしさんの甲子園という歌は
こんな歌詞になっている

喫茶店のテレビでは夏の甲子園
準決勝の熱気が店のクーラーと戦ってる

ホームランと突然テレビが叫ぶ
また誰かの夢が壊れる音がする

三千いくつの参加チームのなかで
一度も負けないチームはひとつだけ

でもだぶん君は知ってる
敗れて消えたチームも負けた回数は
たったの一度だけって言うことをね

あと一人と突然テレビが叫ぶ
君は僕を見つめ涙をこぼしてる
背番号14の白いユニフォームが
彼の青春の最初で最後の打席に入ったところ

歌詞をずっと追っていくと
敗れていく者への思いだけが
さだまさしさんの心を支配していることがわかる

普通はどちらか勝ったかというのに。

やはりこういう歌を作る方の心はちょっと違うなと思う。

もちろん勝負事は勝つことに心を注ぐことが大切だけれど、、、。

全力で勝負に挑んだら
あとの結果はおまかせという態度が
一番いいのだろうと思う。